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私には、あなたたちの声が聞こえる
  2002年05月15日 ver1.0


 このタイトルは、同時多発テロの時に、ブッシュ大統領が言った言葉です。みなさんも、まだ覚えているのではないかと思いますが、大統領が崩壊した建物の現場を視察したときに、消防士たちに向かって、大きな声で、"I can hear you." と叫んだのです。

 政治家というのは、演説によって民衆の心をつかむ才能が必要ですが、ブッシュ大統領の "I can hear you." という演説は、まさに名演説であると言えるでしょう。テロリストたちによって、繁栄のシンボルとも言えるような世界貿易センタービルを破壊され、たくさんの人たちが命を落としました。国民の間には、鬱積した怒りが渦巻いていました。そして、現場の消防士たちも、たくさんの同僚を失い、深い悲しみと、激しい怒りを抱えながら、作業をしていたことでしょう。そういう彼らに向かって、大統領が言った、"I can hear you." という言葉は、「私には、あなたたちの心の叫びが聞こえているんだ」という、力強いメッセージとなったのです。そして、この時の映像は、世界中に流されて、人々に大きな印象を与えたのです。

 最近、ふとこの演説のことが気になって来ました。"I can hear you." という叫びは、テレビのニュースで見て、非常に印象に残っているのですが、この後に続く言葉がまったく記憶に残っていなかったもので、ちょっと調べてみようと思ったのです。そして、ネットで検索してみたら、ちょっと意外なことが分かったのです。

 演説の全文は、ホワイトハウスのサイトに掲載されていて、演説のシーンも、動画で閲覧できるようになっていました。その資料によりますと、ブッシュ大統領は、まず現場の消防士たちから 「U.S.A.! U.S.A.!」の合唱で迎えられたようです。そして、大統領は隣にいた消防士と肩を組んで、もう片方の手で小型のハンドマイクを持って演説を始めたのです。ところが、小型のハンドマイクでは大きな音が出ないので、ブッシュ大統領が演説を始めるとすぐに、「聞こえないぞ」というヤジが飛んだのです。大統領が、「これ以上大きな声は出ないよ」というと、笑いが起きました。そして、再び演説を始めたのですが、その演説というのは、テロでたくさんの市民を亡くして、アメリカは深い悲しみに包まれているというような、ごく普通の演説だったのです。しかし、しばらくすると再び、「聞こえないぞ」というヤジが飛んだのです。ここで、大統領は大きな声で、"I can hear you."「私には、あなたたちの声が聞こえる」と叫んだのです。すると、現場にいた人たちから、一斉に歓声がわき起こったのです。「私には、あなたたちの声が聞こえる。世界中の人たちも、あなたたちの声を聞いている」と言うと、またもや大きな歓声がわき起こりました。「このビルを倒壊させた人たちも、もうじき我々全員の声を聞くことになるだろう」と続けると、再び大歓声がわき起こり、「U.S.A.! U.S.A.!」の大合唱となったのです。

 テレビのニュースでは、前の方がカットされていたために、いきなり "I can hear you." で演説を始めたのかと思っていたのですが、実際には、そうではなかったのでした。しかし、ヤジに乗せられて言った言葉という偶発的な面はあるにしても、その時とっさに機転を利かせて、「私には聞こえる」というその言葉に、その言葉よりも大きな意味を込めて言い返したのは、やはりある種の才能ではないでしょうか。アメリカの国民は、やり場のない感情を受け止めてくれる人を必要としていたのです。このような状況での "I can hear you." という言葉は、まさに的を得た言葉であり、人々の心をつかむ言葉だったのです。

 アメリカ国民でなくても、私たちも普段、精神的に苦しくなったとき、"I can hear you." と言って、自分の心をつかんでくれる人を必要とすることがあります。たとえば、何をやっても失敗ばかりしているときとか、人から無能あつかいされて、バカにされたり見下されたりしたときとかに、「私には、あなたの心の叫びが聞こえているんだよ」という語りかけを求めたりするのです。除け者にされて、見捨てられて、まったくの孤立無援の状態に置かれたときに、それでも、そんな私に向かって "I can hear you." と言ってくれる人が欲しいのです。何もしてくれなくてもいいのです。ただ、分かってくれるだけでいいのです。私の苦しみを理解してくれる人がいてくれるという、ただそれだけでいいのです。それだけでも、精神的にずいぶん救われるのです。たとえ、自分で自分を傷つけて、破滅的なことばかりしていたとしても、なにをやってもダメで、死んでしまった方がいいような私であったとしても、人を傷つけたり、人を裏切ったりするような、愚かで卑怯で、救いようのない私であったとしても、そういう救いようのなさも含めて、"I can hear you." と、力強い大きな声で話しかけてくれる人を必要とするのです。

 こんな風に、"I can hear you." と言って、話しかけることができる人というのは、生身の人間では難しいかもしれません。たとえカウンセラーであったとしても、悩みを抱えた来談者の心をつかむのは、そう簡単にできるものではありません。しかし、私たちの心の中には、この世のどこかに、私のことをありのままに理解してくれる人がいるのではないかという思いがあるのです。このような思いは、はるか遠い日に、母の子宮の中で、あたたかい羊水に包まれていたころの感覚に基づくものなのかもしれません。あるいは、赤ん坊のころに、母親からだっこされて甘えていたころの記憶に基づくものなのかもしれません。これが宗教業界になると、こういう存在は、神という名で呼ばれるのでしょう。そして、神は私のすべてを見ていて、私のすべてを理解しているのだということになるのでしょう。

 いずれにしても、"I can hear you." という語りかけは、精神的に落ち込んだときに、心の支えとなってくれるのです。そして、もしも、暗闇の中で、なんの声も聞こえなくて絶望に打ちひしがれている時であったとしても、自分自身に向かって、ブッシュ大統領のように声を張り上げて、"I can hear you." と、語りかけてみてはいかがでしょうか。自分自身の弱さや寂しさ、怒りや悲しみ、喪失や絶望、卑劣さや醜悪さ、無能さや救いようのなさなどを、ありのままに見つめながら、心の奥から響いてくる悲痛な叫びに耳を傾けて、"I can hear you." と、自分に語りかけてみてはいかがでしょうか。


【参考文献】
ホワイトハウスの、ブッシュ大統領の演説内容を掲載してあるページ。
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2001/09/20010914-9.html

動画や録音を再生するのに必要な RealPlayer 8 Basic 版(無料版)の入手はこちらから
http://www.jp.real.com/

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