エッセイ・時評・雑文 見捨てられ感と、町沢静夫が治療に失敗したケースについて VER.1.0 2001/02/17 最近、町沢静夫が書いた本を読んだのですが、まず最初にの本を簡単に紹介してから、この本の中に登場する、ひとつの事例を取り上げて、皆さんと一緒に、見捨てられ感について考えてみたいと思います。
しかし、この本には、とんでもない事例がひとつ含まれているのです。兄から幼いころに性的な虐待を受けたという、近親姦の事例なのですが、この女性の患者に対する町沢静夫の、無謀とも言えるような、とんでもない対応に、私は唖然としてしまったのです。これは、とても治療と呼べるものではなくて、単なる患者の口封じでしかないのではないかとさえ感じたのです。患者が、最後に自殺してしまったのも、この、とんでもない対応が招いた結果であるとも思えるのです。しかも、自分の患者を自殺で失っておきながら、町沢静夫は、反省の言葉もないままに、まるで他人事のようなことを書いているのです。なぜこんなふうになってしまったのかと言えば、皮肉なことに、この本の著者である町沢静夫が、患者の「見捨てられる恐怖」というものをまったく理解していないからではないかと、そう思えてくるのです。この本に出てくる近親姦の事例は、明らかに治療の失敗なのですが、いったいどこが問題だったのかということについて、考えてみましょう。 この患者は、二十一歳の女性です。恋人と初めて性関係を持ったときに、恋人から「君は初めてじゃないんじゃないか」とからかわれました。そのときは「そんなことないよ」と言い返したそうなのですが、そう言われてみれば、自分はどこかで性行為を経験しているような気がしてきたのです。そして、次の日に、彼女はその体験をはっきりと思い出したのです。それは、小学三年生の時に、実の兄からレイプされたという体験だったのです。そして、このような記憶がよみがえってくると同時に、そのときの恐怖感や怒りがこみ上げてきて、境界例の症状が一気に開花することになったのです。家庭内暴力、リストカット、自殺未遂が起きて、やがて入院することとなったのです。 ここで問題になってくるのが、セラピストとしての町沢静夫の対応です。患者は入院してしばらくすると落ち着いてきて、近親姦のことを冷静に話せるようになったようなのですが、それでも兄への憎しみには激しいものがあって、「でも、私は兄のことは絶対に許さない。兄はもうじき結婚するけれど、結婚式をめちゃくちゃにして自分も死ぬ」と言い続けていたようなのです。このような患者の主張に対して、町沢静夫は唖然とするようなことを言っているのです。「日本では兄弟でそういういたずらがかなりみられるんだよ。日本だけでなく、世界中でもよくみられることなんだ。その多くは父親からのレイプなんだよ。だから、君はお兄さんに性的ないたずらをされたということは、お兄さんはその頃、性的な欲求が一番盛んな頃にさしかかっていて、それで君がいたずらされてしまったんだ。日本ではよくみられるものなんだけどな」と、言ったというのです。これは、もう、言われた方としてはたまったものではありません。「日本ではよくみられることなんだけどな」という言葉は、その背後に、「だから兄からレイプされたくらいで、あまりさわぐんじゃないよ」というメッセージが含まれているのです。これは、加害者側に立った一方的な論理であって、被害者にとっては感情を逆撫でされるような、あまりにもひどい言葉です。たとえば、これが交通事故だったらどうなるでしょうか。毎日、日本のどこかでたくさんの交通事故が発生していますし、死者も一年間で一万人くらい出ているのです。だからと言って、交通事故で片足を失った人に向かって、「こんなこと、よくあることなんだけどな」、などと言えるでしょうか。これはもう、被害者に対する無神経きわまりない発言になってしまいます。 さらに、ここにはレイプ事件などでもよく見られる、男の論理が潜んでいるのです。つまり、男の性欲というのは抑えるのが難しいものなのだから、女は少しぐらいのことには我慢しろということなのです。しかし、被害者の方は、こんなことを言われたらたまったものではありません。まるで、「お前が一方的に犠牲になっていれば、何も問題はないんだ」と言っているようなものなのです。たしかに、町沢静夫が言うように、お兄さんは性欲が盛んな年齢にさしかかっていたのでしょうが、だからといって、それで妹が一方的に兄の性欲のために犠牲にならなければならないという理由にはならないのです。こんな、とんでもない言い分が通るのであれば、レイプは犯罪ではなくなってしまいます。町沢静夫が患者に対して言った言葉は、セラピストとして、余りにも無神経というものではないでしょうか。つまり、町沢静夫は、ここでは加害者の視点でしか、患者を見ていないことになるのです。彼女がが町沢静夫に向かって言った、近親姦が「日本でみられようが、世界でみられようが、私には関係ない」という言葉は、まったくその通りなのです。人間として、当然の主張なのです。しかし、町沢静夫は、被害者の心の苦しみを理解することなく、この後もずっと無視を続けることになるのです。 このような「治療?」と平行して、お兄さんの結婚式が近付いてきたので、結婚式がめちゃくちゃにされてはたまらないと言うことで、両親も交えて何回も話し合いの場が持たれたようです。そして、結論として、お兄さんがみんなの前で謝るということになったのだそうです。そして、前もってこのことを彼女に知らせておくと、彼女が逃げてしまう可能性があったために、彼女と家族の話し合いの途中で、突然お兄さんが登場するという形を取ったそうです。お兄さんの姿を見たときに、彼女は脅えて町沢静夫の方へすり寄っていって「先生、助けて、恐い」と言って、顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべていたそうです。町沢静夫が「大丈夫だよ、事実に基づいてちゃんと話そうじゃないか。そして、お互いに解決しようと努力すべきじゃないか」と言っても、本人は脅えてしまって、まったく聞く耳を持たなかったとのことです。そして、お兄さんが謝罪の言葉を述べると、しばらくはビックリしたようにしていたのですが、そのうちに、泣きながら兄を許す言葉を口にしたそうなのです。しかし、口で許したとは言っても、にわかには信じられないようなところがあったようで、町沢静夫は、その後も、どこまで本当に許したのかと疑問を抱き続けるのです。 私は、この家族のことをまったく知りませんので、推測になってしまいますが、ここには近親姦が明らかになったときによく見られるパターンがあるような気がします。つまり、家族にとって、世間体をどうするかという問題です。しかも、兄の結婚式の日が近付いているという、差し迫った現実の問題があるのです。なんとしてでも、家族の面目をつぶさないような形で結婚式を乗り切らなければならないのです。その結婚式を無事に乗り切るためには、なんとしてでも、レイプされたと言って騒いでいる妹を、おとなしくさせなければならないのです。もし、謝って済むものであれば、いくらでも謝ってやろうという、そういう思惑が働いた可能性も十分考えられるのです。家族の話し合いが何回も持たれたそうなのですが、具体的にどんなことが話し合われたのかは分かりません。お兄さんも、どういう心理状態だったのか、この本には書かれていませんので、分かりません。しかし、彼女の目の前に、突然お兄さんが現れたとき、彼女は驚くと同時に、何かに気付いたのではないかと思われます。つまり、彼女に対する、周囲の人たちからの圧倒的な「口封じ」の圧力があるのだということです。セラピストまでがグルになって、私を黙らせようとしている。お兄さんも、私に頭を下げてまで、私を黙らせようとしている。だれも、私の苦しみを分かってくれない。レイプされた私のことじゃなくて、お兄さんの結婚式のことしか考えていない。みんな、世間体のことしか考えていない。彼女は、そういうことに気付いたのかもしれません。そして、果てしない見捨てられ感と、果てしない絶望感を味わったのかもしれません。彼女に残された道は、周囲の圧力に屈して、いい子を演ずるしかないのだと言うことを理解したのでしょう。これほどまでに苦しい思いをしているというのに、結局はだれも分かってくれないのです。被害者であるはずなのに、逆に厄介者扱いにされているのです。そして、彼女は圧力に屈していい子を演ずるために、自分を押し殺して、泣きながら、お兄さんを許す言葉を口にしたのです。周囲の人たちが、彼女に期待している通りのことを演じてやったのです。完全に見捨てられてしまって、全てをあきらめきったような、そういう投げやりな気持ちになってしまったのでしょう。 そして、結婚式の前日、「絶対に荒れないから」どうしても結婚式に出席したいという彼女に、それでも、万が一暴れたりされたら困るということで、町沢静夫は、いつもより多めの薬を飲ませて、結婚式に出席させることにしたのです。両親の話によりますと、薬を多く飲んだために、ずっとおとなしくしていたそうで、ときには少し眠っていたようだったとのことです。おそらく、意識がもうろうとした状態で、ぼんやりと、着飾った新郎新婦を眺めていたことでしょう。 彼女が結婚式に出席したいと言ったとき、もうすでに彼女の心の中では、この世から消えてしまおうという、そういう覚悟が出来ていたのかもしれません。そして、この世を去る前に、ぜひともお兄さんの結婚式を見届けておきたいという、そういう思いがあったのかもしれません。 薬を多めに飲まされて、意識がもうろうとした状態で、お兄さんの結婚式を眺めている彼女の姿を想像しますと、実に哀れであり、実に痛々しい思いがします。被害者であるはずの彼女が、全ての人から見放されてしまい、その一方で、加害者であるはずの兄が、彼女の目の前で、出席者たちから次々と祝福の言葉を受けているのです。そして、結婚式という華やいだ雰囲気の中で、完全に見捨てられて厄介者扱いされた彼女は、薬をたくさん飲まされて、もうろうとした状態で、期待されたとおりのいい子を演じ続けていたのです。 結婚式から帰ってきて、彼女は町沢静夫に、屈託のない声で、こう言ったそうです。「先生、何も起こさなかったよ。お兄ちゃんにおめでとうって言ったよ」。この言葉も、彼女が自分を押し殺して、精一杯のいい子を演じているのだと思うと、実に哀れであり、実に不憫に思えてくるのです。そして、結婚式が終わった三日後に、彼女は自殺してしまったのです。おそらく、お兄さんが新しい奥さんと一緒に新婚旅行に出発した後で、耐え難いような空虚感に襲われたのではないでしょうか。家族から見捨てられて、セラピストからも見捨てられて、だれからも自分の苦しみを理解してもらえないままに、彼女は最後に、精一杯のいい子を演じて、この世を去ったのです。周囲の人たちが、寄ってたかって彼女の口封じをしようとしたように、今度は、彼女は、自分で自分の口封じをしてしまったのです。永遠の口封じをしてしまったのです。 なぜ、こんな不幸な結末になってしまったのでしょうか。なぜ、セラピストは、もう少し彼女に共感的に接することが出来なかったのでしょうか。なぜ、自殺してしまうほどの強烈な見捨てられ感を見抜くことが出来なかったのでしょうか。町沢静夫という人は、決して無能なセラピストではありません。境界例に関しては、豊富な知識を持っている人なのです。そして、日ごろから境界例の治療には意欲的に取り組んでいますし、たくさんの治療経験も持っている人なのです。しかし、このケースでは、患者との間で、ボタンの掛け違いが、ずっと最後まで続いてしまったのです。なぜなのでしょうか。 おそらく、ここには、境界例の治療を進める上で最大の問題となる、逆転移が発生したのではないかと思われます。逆転移というのは、つまり、セラピスト自身が抱えている未解決の精神的な問題が、そのまま治療関係に反映されてしまうことを言います。そして、これが多くの場合、治療の失敗の原因となるのです。このような、逆転移というのは、性的な問題になると発生しやすくなるのです。 では、町沢静夫に、どのような心の問題があったのかといいますと、これは、非常に微妙な問題でありまして、第三者が推測するには難しい面があるのですが、しかし、この本の中には、おそらく、これではないかと思われるような、実に興味深い記述があるのです。それは、町沢静夫が、自分自身のマザコンぶりについて書いている部分なのですが、みなさんは、下記の文章を読んで、どのような印象を持たれるでしょうか。 「いつも何か起こると母親と電話で連絡し、様子を聞き合うことなどは日常茶飯事であり、他人からは『おまえはまったくのマザコンだな』と言われ、我ながら苦笑してしまいます。」74p 「一週間に二回も三回も電話をして、田舎にいる母親の様子を見守ろうとしつつ、私自身どこか母親に甘える部分を秘かに楽しんでいるともいえます。したがって私は、本格的な分離不安や見捨てられ不安を味わったことはありません。」74p 私は、町沢静夫の書いた本は何冊か読んでいるのですが、この人が、これほどまでのマザコンだということは知りませんでした。しかも、これは単なるマザコンではなくて、それ以上のものではないかとさえ感じたのです。たしかに、高齢になった母親を、あたたかく見守ってやろうとする気持ちは理解できるのですが、母親に甘えることを「密かに」楽しんでいるという言葉に、ちょっと引っかかるものがありました。この、「ひそかに」楽しむというような表現は、この本の、ほかの部分にも出てくるのです。それは、日本の文化的な土壌について書いている部分なのですが、こんな風に書いているのです。 (日本の子どもは)「多かれ少なかれ母親に結びつき、結婚しても、妻の裏をかいくぐって、母親との結びつきを求めようとするものです。多くのサラリーマンは、出張の日を利用して、母親とのしばしの出会いを密かに楽しむものです。それを妻に見つかると、夫婦喧嘩はすさまじいものになり、それはまた嫁と姑の闘いに広がっていくものです。このような構造は、どこの家でもみられるものです。」213〜214p 果たして、このような光景は、どこの家庭でも見られるものなのでしょうか。会いに行く相手が、不倫の愛人だというのなら分かります。しかし、ここに書かれているのは、愛人ではなくて、実の母親なのです。しかも、奥さんの裏をかいてまでして会いに行くというのです。もし、相手が愛人であるならば、嘘をついて会いに行くというのも理解できるのですが、ここに書かれているのは、繰り返しますが、愛人ではなくて実の母親なのです。そして、「母親とのしばしの出会いを『密かに楽しむ』ものです」と書いているのです。まるで、愛し合っている恋人同士が、しばしの逢瀬を楽しんでいるかのようであります。しかし、相手は恋人ではなくて、実の母親なのです。そして、愛人問題でケンカになるのではなくて、母親との密会が発覚してケンカになるというのです。しかも、こういうことが、「どこの家でもみられる」ことだと言うのです。 ここに引用した文章は、日本の文化などについて書いた部分ですので、町沢静夫自身が、母親との密会を繰り返していると書かれているわけではありません。しかし、このような発想をする、その背景には、何があるのだろうかと考えてみますと、近親相姦願望の存在や、近親相姦的な感情の存在を連想してしまうのです。しかし、そういう生々しい感情は、本人にとっては完全に「否認」されてしまっていて、まったく意識されずにいるのではないか――。そういう印象を抱いてしまったのです。 町沢静夫の本をいろいろと読んでみますと、性的な葛藤などに関して、首をかしげたくなるようなことが書かれていたりするのですが、こういう心理的な背景があった上でのことなのだと思うと、妙に納得できたりするのです。そして、おそらく、このような濃厚な母子の密着が、患者の心の暗闇に対する共感能力を低減させているのではないか――と、そう思ったのです。ですから、ここで取り上げた近親姦の事例でも、患者の内面の苦しみを理解しようとする姿勢が見られなくて、最後まで口封じ的な立場をとったのではないかと思えるのです。たとえば、きょうだい間の近親姦はよくあることなんだと言ってみたり、まだ心の準備の出来ていない患者に、いきなり加害者と対面させたりしているのです。こういう不安定な精神状態の患者に、だまし討ちのようにして加害者と対面させることの危険性を、いったいどのように考えていたのだろうかと理解に苦しみます。結局、患者にとっては、この出来事が、生きることへの希望を断つきっかけとなったのではないかと思えるのです。騒いでいる状態というのは、患者はまだ希望をもっているからこそ騒いでいるのです。自分の苦しみを理解してくれる人がいるのではないかと、そう思っているからこそ、騒いだり暴れたりするのです。ですので、急におとなしくなったりしたときと言うのは、絶望的な見捨てられ感が背後に潜んでいる可能性がありますので、治療場面では要注意なのであります。 セラピストというのは、生身の人間であって、決して完全無欠の人間ではありません。ですので、逆転移が発生して治療が失敗に終わることもあるでしょう。しかし、セラピストというのは、自分の心にどのような未解決な問題が潜んでいるのかということをある程度は把握しておく必要があるのです。そして、治療が失敗に終わったときには、もしかしたら、何らかの逆転移が発生したのかもしれないと、自ら反省してみる必要があるのです。たしかに、自分の治療している患者に自殺されたりすると、セラピストは非常に嫌な思いをするでしょう。そして、自殺は自分の責任ではなくて、すべて患者の責任なんだ、患者が勝手に自殺したんだと思いたくもなるでしょう。しかし、これではいつまでたっても進歩はないのです。同じ過ちが繰り返されてしまうのです。 ここで取り上げた近親姦の事例では、あまりにもセラピストとしての共感能力の貧しさを感じさせるものでした。たしかに、患者に対して感情移入しすぎて、患者との距離が取れなくなって治療がうまく行かなくなることもよくあることなのですが、逆に内面的な共感が欠けてしまいますと、このケースのような不幸な結果になったりするのです。そして、この事例では、おそらく町沢静夫の、母親への濃厚な密着が、こういうことに関係しているのではないかと推測されるのです。たしかに、町沢静夫は、見捨てられ感についていろいろなことを知ってはいるのですが、しかし、とても「理解している」とは言いがたい面も感じてしまうのです。もしも、患者の見捨てられ感から来る苦しみを理解できなかったとしても、理解しようと努力する、そういう姿勢を見せるだけでも、患者にとっては救いとなるのではないでしょうか。そして、これこそがセラピストの仕事ではないかと思うのです。 境界例の治療では、患者の様々な行動化の背後に潜んでいる見捨てられ感を見抜く洞察力が必要となります。そして、その見捨てられ感への対応は、限界設定という枠組みを設けながらも、「君のことを見捨ててなんかいないんだよ」というメッセージを送り続けることであります。
最後に、私が「自分への語りかけ」のページで書いた言葉を、ここでもう一度掲載しておきます。 |