ホーム境界例の周辺事態

近親相姦/性的虐待 1

身近にある近親者からの性的侵入
    Ver 1.0 2000/11/07


 このシリーズのタイトルには「近親相姦/性的虐待」というふうに、近親相姦という言葉を使いましたが、「相姦」とは言っても、見かけ上は合意の上であるかのように見えても、両者の間には、親と子どもという、圧倒的な立場の違いと力の差があることから、最近では近親「相姦」とは言わずに、近親姦と呼ばれるようになりつつあります。ですので、このシリーズを書き進めるにあたっては、状況に応じてこれらの言葉を使い分けていきたいと思います。

 どのような言葉を使うにしても、肉親の間で行われる性行為というのは、それを想像しただけで、私たちの心の中に強い感情的な反応を引き起こします。「近親姦」という言葉を聞いただけで激しい嫌悪感や不快感を抱く人もいれば、奇妙なあこがれを抱いたり、なかには性的な空想をして興奮を覚える人もいます。このように、いろいろな反応をするにしても、だいたい普通の生活を送っている人にとっては、近親姦や性的虐待の世界というのは、まったく別の世界の出来事であり、実際にそういうことをしている家族があるのだと言っても、にわかには信じられなかったりします。しかし、このような性的虐待というのは、別に遠い世界の出来事ではなくて、意外と身近にもあることなのです。そして、もしかしたら、あなたの家族の中でも、すでに行なわれているかもしれないのです。このシリーズでは、近親姦の問題を扱って行きますが、そのまえに、こういった身近にある、近親者からの性的な侵入について書いてみたいと思います。

 考えてみれば、家族というのは実に不思議なものです。同じ屋根の下で暮らしていながら、夫婦の寝室では、性行為そのものが行なわれているのに、他の家族に対しては、その性行為は厳重に隠されてしまうのです。そして、性の匂いを拭い去った家族の生活が、延々と続いて行くのです。このような日常生活の中で、ときとして、親と子の間の性的な境界がゆるみ、本来なら夫婦の間だけで表現されるべき性欲が、子供たちに向かって滲み出していくこともあるのです。そして、それが性的虐待と呼ばれるものへと、少しずつ発展していくこともあるのです。まずは、その具体的な例として、私が目撃した出来事から書き始めてみたいと思います。

 あれは、真夏の暑い日のことでした。強い日差しを浴びながら、人通りのない住宅街を歩いていると、アパートの前の道路で、親子が水浴びをしているのに出会いました。ビニール製の小さなプールを作って、そこに三、四歳くらいの男の子がひとり裸で立っていました。そして、その周囲を三人の主婦たちが取り囲んでいたのです。主婦たちは、なにやら男の子のオチンチンに代わる代わる手を伸ばしては、それをいじくり回しながら、話に夢中になっているようでした。私が近付いて行くにつれて、その会話も聞き取れるようになってきたのですが、「将来これで女を泣かせるようになる」というようなことを言っているのが分ったのです。そして、彼女たちは卑猥な笑い声をたてていたのですが、途中で私が接近していることに気付くと、一斉に顔を伏せて黙り込んでしまいました。顔を下に伏せただけではなくて、強い羞恥心に駆られて、さらに私から顔をそむけるようにしているのです。真ん中にぽつんと取り残された男の子は、何が起きたのかまったく理解できずに、私が通り過ぎて行くのをぼんやりと眺めていました。

 これだけの出来事なのですが、ここにはいろんな意味が含まれています。まず、この主婦たちは、人通りがなかったとは言え、そこが道路という公の場所であるということを忘れるほど、話に夢中になっていたということです。おそらく、男の子のオチンチンという、まだ未発達ではあるものの、男性性器の実物を手に取って、それを品定めしながら、お互いに卑猥な冗談に花を咲かせていたのです。そして、性的な興奮も手伝って、周囲への警戒がおろそかになっていたのでしょう。おそらく三人の主婦うちの一人は、その子の母親に違いありません。自分の息子のオチンチンを、他の主婦たちにもいじらせながら、卑猥な会話によって性的な高揚感を味わっていたのです。もちろん、彼女たちは自分のやっていることの意味を理解してたのです。理解していたからこそ、恥ずかしさのあまりに、私を見るなり一斉に顔を伏せたのです。まさに文字通りに、人に顔向けのできないようなことをやっていたわけです。

 性的な虐待というと、どうしても変質者をイメージしてしまいがちですが、実際にはそんなことはないのです。加害者で、もっとも多いのは、見ず知らずの他人ではなくて、子どもの身近にいる、一見普通に見える人たちなのです。肉親だったり、親戚だったり、近所の人だったり、学校の先生だったりするのです。そして、加害者のイメージとしては、どうしても男性の加害者を思い浮かべてしまがちですが、女性がそんなことをするはずがないと言う間違った思いこみが世間にあるために、女性による虐待が見過ごされていることが多いのではないかと思われます。それに、男性が女性から性的虐待を受けたとしても、それは虐待であるとは受け取られずに、逆に「いい思いをしたじゃないか」と羨ましそうに言われたりする風潮があります。しかし、もしこの場面で性が逆だったらどうなるでしょうか。たとえば、三人のオヤジたちが、幼い女の子の股間に指を入れながら、「将来、男を泣かせるようになるぞ」などと卑猥なことを言って笑っていたらどうなるでしょうか。これはつまり、大人の性的な興味のために、子どもの体が利用されたということなのです。体が性的に利用されたということの影響は、女の子も、男の子も同じなのです。しかし、どうしても世間では、女の子の場合には騒いだりするのに、男の子の場合には、まともに取り上げようとしない傾向があります。しかし、最近、まだ少数ではありますが、女性の加害者の問題や、男性の被害者の問題が取り上げられるようになってきています。この問題は別のところで詳しく書く予定です。

 もう一つのケースを紹介しましょう。これは会社の同僚のことなのですが、この人はたしかに仕事のできる人なのではありますが、ちょっとプライバシーの境界に曖昧な部分がありまして、家庭での出来事を、会社に来て冗談のようなつもりで話してしまうのです。普通なら恥ずかしくて言えないようなことでも、ぺらぺらと話してしまうため、この人の家庭の状態をみんなが知ってしまうことになるのです。その話の中で、幼稚園に行っている娘さんのことで、奥さんからひっぱたかれたというのがありました。幼い娘さんをお風呂に入れているときに、娘さんに自分のペニスを洗わせたというのです。洗ってもらっているうちに感じてきて、ペニスが勃起してきたのですが、気持ちがいいのでそのまま洗わせていると、突然、奥さんが浴室に入ってきて、思いっきり彼の顔をひっぱたいたのだそうです。こういうことを、会社に来て、みんなに冗談めかして話してしまうのです。

 では、このケースでは浴室でどういうことが行われたのか考えてみましょう。幼い女の子が、お父さんと一緒にお風呂に入ると、男と女の体の違いに興味を持つようになることがあります。自分の体にはないオチンチンというものに関心を持つようになるのは自然なことです。そして、その機会に親が適切な知識を与えてやるのも必要なことなのです。しかし、子どもの好奇心を利用して、大人が性的な興奮を得るとなると、これはまったく違う話になってしまうのです。おそらく、彼は性的な興味から、面白半分で娘さんにペニスを洗わせたのでしょう。親子の間で性的なことが行われる場合には、普通は秘密のこととして隠されて行われるのですが、彼の場合には、自分のやっていることの意味を理解していないために、まったく隠そうともせずに、ましてや罪悪感を抱くこともなく、堂々と開けっぴろげにやっていたのでしょう。子どもは、父親のペニスをいじることで、妙な高揚感があって、いわゆるはしゃいだような状態になったのではないでしょうか。そこで、大きな声で「オチンチン」とか「大きくなった」とか、意味も分からないままに叫んでいたのかもしれません。その声を、台所にいた奥さんが聞きつけて、普段の夫の言動からして、浴室で不穏な事態が発生していると感じたのでしょう。そして、浴室のドアを開けてみると、その不穏な事態を目の当たりにすることとなり、思わず夫の顔を力まかせにひっぱたいてしまったのでしょう。そして、おそらく子どもをすぐに夫から引き離したことでしょう。

 果たして、このような出来事は、この一回だけで終わるのでしょうか。幼い娘さんは、こういう父親と大人になるまでの間、ずっと一緒に生活していかなければならないのです。その間に、さらにいろいろな出来事があって、そのたびに性的な境界が少しずつ曖昧にされて行くことでしょうし、その他にもさまざまな影響を受けていくことになると思われます。

 ここで、性的虐待という言葉の意味をはっきりさせておきましょう。性的虐待というのは、いま書いた二つのケースのように、親などの立場の強い人が、子どもなどの弱い立場の人を「性的に利用する」ということなのです。どうゆうふうに利用するのかというと、大人が性的な刺激を得るために利用するのです。しかし、子どもを利用するにあたっては、暴力や脅しを使うというパターンもありますが、近親姦のような性行為にまでは行かないような場合には、日常的な何気ない行動を装って行われることが多いのです。たとえば、よくあるのが入浴の時に子供の体を洗ってやる場面です。まだ幼くて自分で体を洗えないような子どもは、たしかに親が洗ってやらなければならないのですが、ここに微妙な状態が発生することがあるのです。親であるとは言っても、子どもの性器に多少は興味を持つこともあるでしょう。しかし、中には体を清潔にするという大義名分のもとに、必要以上に念入りに子どもの性器を洗ったりする人もいるのです。浴室という、閉ざされた密室の中で、子供の体を清潔にするという言い訳のもとに、親が性的な刺激を得る目的で、自分の子どもの体を洗うのです。幼い子どもは、自分がされていることの意味をまだ理解出来ませんし、親の方も、ちょっとしたイタズラ、あるいはちょっとふざけてみただけ、というような軽い気持ちでやっているだけなのかもしれません。しかし、ここには、自分の子どもを、性的に利用しているという「虐待」の一面が顔を覗かせているのです。

 その他にも、子どもは成長するのに従って、さまざまな独り立ちを体験していきますが、それを妨げるような形で行なわれることもあります。たとえば、子どもが一人で寝るようになるとか、一人でお風呂に入るようになるとか、そういう自立的な行動が、親の寂しさを埋め合わせるために妨害されてしまうのです。そして、ときにはそれが性的な色彩を帯びてくることもあるのです。

 普通、何歳で一人で寝るようになるのかといった資料は持ち合わせていませんが、子どもが一人で寝るようになってもいい年齢に達しているにもかかわらず、いつまでも一緒に寝ている親子もいるのです。たとえば、息子が中学生なっているにもかかわらず、母親と一緒に寝ているようなケースもあるのです。思春期になれば、当然、性的な意識も目覚めてきますので、ただ単に一緒に寝ているだけで性的な意味はないのだとは言っても、息子の心の中には、母親の体から立ち上る「女」の匂いへの関心が少しずつ芽生えていくのです。親と子の間には、別々に寝るようになる時期というのがあるのですが、たとえば夫の不在とかの理由で、母親が自分の寂しさを紛らわすために、子供が成長を無視して一緒に寝ることで、密着感を得ようとすることもあるのです。こんなふうに、親に利用されて育った子どもは、自立へのステップをうまくクリアできない可能性が高くなってしまうのです。

 一人寝と同じように、一人でお風呂に入るようになるのも、自立へのひとつのステップとなるわけですが、ここにも自立を妨害をしようとする親がいるのです。そして、お風呂の場合には、裸になりますので、性的な要素が入りやすくなってきます。たとえば、小学生の高学年になっているにもかかわらず、母親が息子と一緒に入浴したり、息子の性器を「清潔にする」という名目で、母親が必要以上に丁寧に洗ったりするケースもあります。

 このようなことは、父親と娘の間にも時々見られます。娘と一緒に入浴することを、親子のコミュニケーションを取るためだとか、適当なもっともらしい理由をつけるのです。もう胸が膨らんできて、父親と一緒に入浴するのが不適切な年齢に達しているにもかかわらず、うまく言いくるめてしまうのです。娘の方でも、まだ世間知らずで、中学生や高校生になっているのに、風呂には父親と入るものだと思っていたりするケースも、ときにはあるのです。しかし、学校の友達との会話で、お風呂の話題になったときに、父親と一緒に入浴しているということを、何の疑問も持たずに話してしまい、その結果、友達から、異常だとか、父親が変態だとか言われて、強いショックを受けたりすることになるのです。たしかに、父親との入浴に性的な雰囲気は一切無かったとしても、父親の方としては、娘の成長してゆく肉体を眺めて、秘かに楽しんでいたわけです。つまり、自分の楽しみのために、娘をだまして利用していたことになるのです。一方、娘の方は、世間の常識を知ったことでその異常性に気づき、裏切られたという思いを抱きます。子どもというのは、親は自分のためになることをしてくれるはずだという期待を持ちますが、ただ単にそれが裏切られたというだけではなくて、自分の体が親の身勝手な楽しみのために利用されていたのだということも分かって、二重に裏切られた気持ちになるのです。

 自立心が正常に発達していけば、友達からバカにされるという思いが出てくるようになって、適当な年齢になれば、自分の方から一人で入浴すると言い出したりもするのですが、親にうまく利用されている場合には、このような自立心がなかなか育たなかったりします。それに、自分の体なのに、いつまでも親に洗ってもらっていたりしますと、自分が自分であるという感覚もあいまいになっていきますし、成長に伴って発生してくる「性的なプライバシー」も歪められてしまうのです。この、性的なプライバシーの発達は、自分といものを確立するための重要な要素となってくるのです。このような性的なプライバシーについても、親から尊重してもらえずに、侵害されてしまうこともあるのです。よくあるのが、年頃になった娘の裸を見たがる父親が、「つい、うっかりと」浴室のドアを開けてしまうケースです。そして、「ごめん、ごめん」と言って、笑ってごまかしたりするのです。父親の方としては、冗談の延長のような軽い気持ちでやったりするのですが、見られてしまった方としては不愉快な気持ちが残ります。思春期になれば、そういうわざとらしい行動の意味を理解するようになるからです。

 このような性的なプライバシーへの侵害は、娘が部屋で着がえをしているときにも行なわれます。「つい、うっかり」ノックするのを忘れてドアを開けてしまった、というようなパターンです。しかも、着がえをする時間を見計らったかのようなタイミングで、ドアを開けるのです。さらに、もっと侵略的な親になりますと、子どものプライバシーを侵害するために、もっと強力な方法を使ったりします。家が狭くて収納場所がないという理由で、子供の部屋の押し入れなどに、親が普段よく使うような品物をしまっておくのです。そして、それを取りに行くという口実で、頻繁に子供の部屋に出入りするのです。これは、子どもにとってはたまったものではありません。こうなると性的なプライバシーだけではなくて、「自我」への侵略を受けることにもなるのです。このような度重なる侵略は、自分というものの境界を確立できずに、自他の区別があいまいなまま成長することにもなっていくのです。

 性的なプライバシーへの侵害は、親が自分の性的な部分を露出するという形で行なわれることもよくあります。たとえば父親が風呂上がりに、腰に巻いていたタオルが「偶然」落ちてしまい、年頃の娘にペニスを見られてしまうというようなケースです。たしかに、偶然そうなることもあるでしょう。しかし、親が性的な刺激を得るためにわざとそうしたのなら、意味は違ってくるのです。ここには、隠された露出症的な意味合いが含まれてくるのです。他にも、たとえば、母親が湯上がりの着がえを持ってくるのを忘れたと言う口実のもとに、あらわな姿で思春期の息子の前を行ったり来たりするとか、あるいは、父親が湯船につかってから、石鹸を忘れたとか、タオルを忘れたとか言って、娘に持ってきてもらい、ドアを開けたときに、自分の股間をさらけ出したりするのです。

 このような行為は、すべて正当な言い訳のものとに実行されるのです。実際に石鹸を忘れることもあるでしょうが、たとえ意図的に忘れたとしても、いくらでも偶然を装うことが出来るのです。しかし、ときには冷静になって考えてみれば、その不自然さが浮かび上がってくるようなこともあります。たとえば母親が着替えをするときに、息子にスカートのジッパーをしめてもらうとか、ブラのホックを留めてもらうような場合です。急いでいたからとか、いろいろな口実もあるでしょうが、急いでいるのなら自分でやった方が早いでしょう。あるいは、父親が腰痛になって娘に湿布薬を貼ってもらうときに、必要以上にお尻を露出させるとかいうケースでは、果たして自分で鏡を見ながら貼ることが出来ないのかとか、そんなにお尻の方まで露出必要があるのかとかいう疑問も出てきます。

 これらの露出症的な行為に共通しているのは、性的な誘惑の存在です。しかし、親としてもあまり大胆な行動に出るにはためらいがあるのです。親子間の性的なタブーを犯そうなどという、そんな大それた考えはないのです。ですから、何気ないような日常の行動を装うのです。そうすればいくらでも言い訳が出来ますし、罪の意識も持たなくて済むのです。ですから、たとえば息子にブラのホックを留めてもらっても、息子が母親の体をじっと見つめていたりしますと、「いやらしい目で見ている」と言って、冷たく突き放してしまうことも出来るのです。こうすることで、ただ単に着替えを手伝ってもらってただけなんだという、正当な言い訳が成立するのです。しかし、息子の方としては、誘惑を受けながら同時に禁止されるという、非常に矛盾したメッセージを同時に受けとることになり、このようなことが繰り返されるに従って、徐々に根の深い性的な葛藤を抱え込むようになっていくのです。

 このような、もっともらしい言い訳というのは、立場を逆転するために使われることもよくあります。たとえば、父親が幼い娘とプロレスごっこをして遊んでいるときに、父親の手が妙に娘の性的な部分ばかり触っているのを、母親が不自然に思ってとがめたりしたしても、「これはただの遊びであって、お前がいやらしい目で見るから、そういうふうに見えるんだ」と言いくるめるのです。そして、さらに、「いやらしい目で見ているお前の方が、おかしいのだ」と反撃するのです。

 このような、反撃は、たとえば、「偶然」裸を覗かれて不愉快になっている娘に対しても、「裸は自然で美しいものなんだ。見られて恥ずかしがったり、不愉快になったりするのは、お前の方がいやらしいことを考えているからなんだ」と、逆に強引に押し切ったりするのです。そして、性的なプライバシーの侵害が行なわれているにもかかわらず、まるでなんでもないような自然なことにしてしまうのです。このようなやり方は、イジメのやり方と同じなのです。あくまでもふざけているだけなんだ、ということにするのです。もしも、イジメではないのかと抗議しても、冗談の分からないヤツだと言うことで、ごまかしてしまうのです。性的な虐待も、これと同じようにして行なわれることが多いのです。こういう状態にさらされ続けていますと、性的な境界が混沌としたものになって行くのです。

 もちろん、このような性的な侵略は、言葉によるカラカイという形で行なわれることもあります。生理が始まった娘に、卑猥な冗談を言ってみたり、成熟していく肉体に対して「色気付きやがって」などというひどい言葉を浴びせたりするのです。このような言葉によって、自分の体に対する嫌悪感を植えつけられていくのです。

 それから、性的な露出で、子どもに非常に大きな影響を与えるものに、夫婦の性生活をそれとなく露出するというパターンがあります。寝室のドアを「うっかりと」閉め忘れたことにして、子どもたちに覗き見をする機会を与えるとか、自分達のセックスの声が聞こえるようにしたりするのです。このようにして、覗かれたり、あえぎ声を聞かれたりすることで、自分たちの性的な興奮を高めようとするのです。日本の住宅事情を考えてみれば、たとえ意図的ではなくても、子どもたちへの配慮がおろそかになると、性行為の気配に気付かれてしまうこともあるでしょう。このような性行為の露出は、子どもに非常に大きな影響を与えます。たとえば性に対する嫌悪感や、羨望、嫉妬、恐怖、あるいは自分だけが除け者にされて見捨てられたような感情などをあおったりするのです。そして、こういう強烈な感情が、子どもの性的な方向性をゆがめてしまうのです。

 しかし、こういったこととは逆に、表面的には性的な要素がまったく無いような形で子供が利用されることもよくあるのです。たとえば、父親が娘に接するときに、まるで妻であるかのようにして接するのです。親子ではなくて、夫婦のような心の親密さを娘に求めて来るのです。娘の方でも、父親の求めに応じて、まるで妻にでもなったかのように振る舞うことで、父親との間に、ある種の一体感のようなものを感じることが出来るのです。別に性的なことをするわけではありません。親と子の立場の違いをなくして、まるで夫婦のような対等な口のききかたをしたり、あるいは、妻ように父親の身の回りの面倒を見てやったりするのです。しかし、妻であるかのように振る舞ったとしても、現実には、父親には本物の妻がいるのです。父親が娘の方に寄りかかっているときはいいのですが、本物の妻の方へ寄りかかって行ったときには、娘はまるで見捨てられてしまったかのような寂しさと、母親への激しい嫉妬を覚えるようになるのです。そして、このような三角関係は、やがて性的な色彩を帯びてくることもあるのです。こうなると、親子の役割や境界が混乱したものになってくるのです。このような混乱は、娘を妻の代用品として利用しようとした父親によってもたらされるのです。娘はこのような混乱の中で、本来の子どもとしての自分を失ってしまうのです。

 このような関係は、母親と息子の間にもよく見られます。仕事などで父親の不在が長引いたり、夫婦関係が希薄なものだったりしますと、母親が自分の寂しさ紛らわすために、まるで夫に接するかのようにして息子に接していくのです。つまり、息子を夫の精神的な代用品として利用するのです。もし、息子が母親の期待に応えようとしても、本物の夫が帰ってくれば、代用品の夫はもう不要になってしまうのです。息子はその時、以前のような本来の息子の役に戻ることも出来ずに、自分が何者なのかという問題に直面することになります。そして、息子は母親との濃厚な一体感を失うこととなり、見捨てられたような喪失感を味わうのです。息子は、やがて父親に対して、「あいつさえいなければ」という思いを抱くようになっていくのです。父親さえ帰ってこなければ、いつまでも母親との、まるで夫婦であるかのような、密着した精神的な一体感を持ち続けることが出来るのです。さらに、母親が夫に対する愚痴や不満をこぼしたりしますと、息子にとっては、それが自分への誘惑に聞こえてきたりするのです。しかし、現実には父親が帰ってきて、母親を独り占めしたうえに、さらに性的な関係まで持ってしまうのです。そして、息子は激しい嫉妬を抱くのです。息子の心の中で、母親を独り占めにしたいという願望が次第に大きくなっていくのですが、このような願望は、父親との関係を危険なものにしてしまいますので、心の中に深く抑圧されることになるのです。

 このような、代用品としての夫や、代用品としての妻の役をやらされて、ずっと親から利用され続けていますと、やがて自分が何者なのか分からなくなっていきます。親としては、子どもを利用しているなどという意識はなくて、ただ寂しかったり、話し相手が欲しくて、子どもにべったりと寄りかかって行くだけなのです。子どもの方は、薄々自分が利用されているという持つこともありますが、何とか親の期待に応えようとして、代用品ではなくて、本当の夫や妻になりたいという願望を抱くのです。そして、現実にはかなうはずのないこのような願望が、さまざまな葛藤を作り出して行くのです。

 このように、性的な出来事が無くても、少しずつ「近親相姦」的な感情が、植えつけられていくのです。ですから、もしも、子どもの方から親に性行為を仕掛けていったとしても、それ以前の段階で、親からの長期間にわたる刷り込みが行なわれているのです。日々の暮らしの中で、境界が少しずつ緩んでいって、親に対して性的な願望を抱くようにと仕向けられて行くのです。表面的には「相姦」のように見えても、そこに至るまでの、代用品として利用され続けていた、長い長い日々の積み重ねがあるのです。

 このような、親からの性的な接近には、ほかにもさまざまなパターンがあります。親からだけではなくても、きょうだいの間でも、たとえば、お医者さんごっこなどがエスカレートしていって、性的な虐待になったりすることもあります。いずれにしても、性行為に至らなくても、家族内での役割が混乱したり、性的な境界があいまいなものになったりしますと、それがさまざまな影響を子どもに与えることになるのです。そして、もし実際に性行為にまで進んでしまった場合には、さらに複雑で強烈な影響を与えることになるのです。

 次回は、こういった問題の背景にある「近親相姦タブー」や、性的境界の意味について考えてみましょう。


【参考文献】
Abused Boys: The Neglected Victims of Sexual Abuse
 by Mic Hunter Ballantine Books 1999 $11.00 USA


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