ホーム > 思考と行動の問題点 >


誰も私のことを分かってくれない(下)
    
2004年 11月18日  ver1.0

【 警 告 】
 ここに書かれている文章は、精神的な状態が回復してきたときに「自発的に」現れてくる思考パターンを説明したものです。ですので、自傷行為や自殺願望がまだ残っているような人は、この文章を読まないでください。心の基礎がまだできていない状態で、この思考パターンを真似しようとすると、精神状態が悪化します。結果的に、自分を苦しめることになりますので、もっと回復してから読んでください。

 よろしいですね。

 さて、前回書いたように、境界例の人が回復してくると、自己愛が徐々に膨らんできます。すると、ここでもうひとつ、分離型という新しい思考パターンが発生するのです。

 話をわかりやすくするために、前回と同じように、「なぜ、誰も私のことを分かってくれないのだろうか」と、自分に問いかけるところから始めてみましょう。すると、分離型の場合、ここで「ちょっと待てよ」となるのです。そして、「じゃそういう私は、他の人のことを、どこまで理解することが出来るのだろうか」、と自分を振り返ってみるのです。すると、他の人のことについて、ほとんど分っていない事に気付くのです。そして、私がこの程度にしか他の人のことを理解できないのであれば、もしかしたら他の人も、私のことを同じ程度にしか理解出来ないのではないか、という事実に気付くのです。そうすると、他の人とお互いに分かり合うには限界があるのだ、ということになります。

 つまり、私が他人のことを完全に理解できないのであれば、他の人も私のことをすべて理解するのは不可能なのです。つまり、人間関係というのは必然的に、分かり合うことの出来ない部分が含まれているのだ、ということになります。そうすると、この分かり合うことが出来ない部分については、どうしたらいいのかというと、結局は自分一人で背負って行くしかないのだということになるのです。

 話せば分かるという言い方がありますが、たしかに話せば分かる部分はあります。しかし、それは相手次第であって、話してもまったくらちのあかない人もいれば、部分的に分かり合うことのできる人もいれば、かなり分かり合うことの出来る人もいます。しかし、すべてを理解し合うなどということは、最初から不可能なことなのです。私が他の人のことを完全に理解することができないのであれば、他の人も私のことを完全に理解することは出来ないのです。つまり、私たちは皆、部分的な理解の中で生きているのです。完全な理解などあり得ないのです。みんな、範囲と限界の中で生きているのです。

 かつて、境界例の混沌した世界で生きていたころは、次のように考えを抱いていました。「なぜあなたは、私が私を理解しているのと同じ程度に、私のことを理解してくれないのか」。こんな風に考えて、理解のない人に対して激しい怒りをぶつけていました。しかし、これは最初から不可能なことなのです。私が私を理解しているのと同じ程度に、他の人にも理解してもらうことはできないのです。なぜならば、それは他人だからです。当たり前のことですが、他人は自分ではないのです。自分と他人は別の生き物なのです。完全に理解し合うことは不可能なのです。ですから、理解し合うことのできない部分は、自分一人で背負って生きて行くしかないのです。

 こういった、客観的な事実に気付いたとき、ここであらためて、一人で生きて行くことの寂しさに直面することになります。しかし、今は精神的な状態が回復してきているので、自分で自分を支えることができるようになりつつあるのです。ですから、一人で生きる寂しさと向き合っても、かつてのように心がボロボロになったりせずに、正面からこの寂しさを見つめることができるようになったのです。

 かつては、果てしない寂しさに耐えきれずに、必死になって何かにしがみつこうとしていました。しかし、いまは同じような状況に遭遇しても、それほど寂しさを感じなくなったのです。

 かつては、日常生活の気の滅入るような煩わしさに押しつぶされて、「なんで、自分で自分のことをしなければならないんだ」と、一人で泣き叫んだこともありました。しかし今は、自分と向き合って、ある程度は自分のことを支えられるようになってきたのです。そして、自分のことは、結局は自分の力でなんとかしなければならないんだ、ということが分かってきたのです。

 境界例の人の中にはドクター・ショッピングをする人もいます。「あのセラピストは、なにも分かってくれない」「このセラピストも、私のことを分かってくれない」と言って、セラピストの間を転々として行くのです。しかし、いくらセラピストを換えてみても、私のことを完全に分かってくれるセラピストはいません。こうやってセラピストの間を転々としているうちに、「この世には、私のことを完全に理解してくれる人はいないんだ」という事実が分かってくるのです。そして結局は、自分の問題は自分でなんとかしなければならないんだということに気付いて行くのです。ベテランのセラピストであっても、患者のことをある程度は理解できたとしても、完全に理解することはできないのです。私たちの生きている世界は、こんなふうに部分的な理解によって成り立っているのです。ですから、理解してもらえない残りの部分は、自分の力でなんとかしていくしかないのです。

 私たちは、他人を激しく非難して攻撃することがよくあります。相手の欠点や間違いを指摘して、無限の責任を追及していくのです。こうやって、他人の不完全さを追求している時は、自分の存在が消えているのです。相手の欠点しか目に入らない時には、自分の存在は、いっさいの責任を免除された、無色透明の存在になってしまうのです。国会の審議などでも、政府の無策ぶりを極めて激しい口調で批判する議員がいますが、立場が変わって、自分が追求さる側になると実にもろいものです。自分自身の問題と向き合わなければならなくなると、自分の能力の限界を思い知らされて、自分の無能さをさらけ出すことになってしまうのです。

 ここで、もし素直に自分を見つめることができるなら、こういうことに気付くでしょう。「私は完全な人間ではない。無限の責任を全うすることなどできない。私がこんな不完全な人間でしかないのなら、もしかしたらあの人も私と同じように、不完全な人間なのかも知れない」、ということに気付くのです。自分の不完全さを振り返ってみれば、相手に向かって無限の責任を追及することなど、現実的ではないということに気付くのです。私が間違いを犯す不完全な「人間」であるならば、あの人も私と同じように、間違いを犯す不完全な「人間」なのです。あの人は、神ではないのです。人間なのです。

 私たちは、完全な愛情を求めることが良くあります。そして、この願いが叶わないときは、「私のことを愛してくれない」と言って、相手を激しく責めるのです。しかし、ここでちょっと考えてみましょう。果たして完全な愛なんてあるのでしょうか。四六時中、誰かのことを愛しているなんてことが、果たして出来るのでしょうか。

 たとえば、プロ野球の中継を見ているときには、好きな人のことは考えていません。部屋の掃除をしているときには、好きな人のことは考えていません。友達と話に夢中になっているときには、好きな人のことは考えていません。私たちは、自分の時間を生活のために使ったり、娯楽のために使ったりします。そして、愛している人がいるなら、その愛している人のために時間を使うこともあります。しかし、決して二十四時間、愛している人のことを考え続けているわけではないのです。そんなことは不可能なことなのです。現実には、私たちは、「時々」愛している人のために時間を使うのです。だからといって、その人のことを愛していない、ということにはならないのです。

 こんなふうに、私が誰かを完全に愛したり、四六時中誰かのことを思い続けたりすることが出来ないのであれば、あの人も私のことを四六時中思い続けていることは出来ないのです。あの人も自分の生活のために時間を使ったり、自分の気晴らしのために時間を使ったりするのです。そして、その合間に、時々私のために時間を使うのです。これが愛というものなのです。完全な愛なんてないのです。私たちの人間関係は、部分的な理解と、部分的な愛情によって成り立っているのです。ですから、残りの理解してもらえない部分や、愛してもらえない時間については、自分で自分を支えて行くしかないのです。世の中は、こうやって動いているのです。

 ここで、これらの思考パターンをまとめてみますと、だいたい次のような構文に要約できるのです。「まてよ、私がこんなふうに●●●ならば、もしかしたら、あの人も私と同じように●●●なのかもしれない」ということになるのです。そして、この構文に沿って、いくつもの思考パターンが生まれてくるのです。

★まてよ、私がこの程度にしか他の人のことを理解できないのであれば、もしかしたら、他の人も私のことを同じ程度にしか理解できないのかも知れない。

★まてよ、私が理解してもらえなくてこんなに苦しんでいるのであれば、もしかしたら、あの人も私と同じように理解してもらえなくて苦しんでいるのかも知れない。

★まてよ、私の愛情能力に限界があるのであれば、もしかしたら、あの人も私と同じように、愛情能力に限界があるのかも知れない。

★まてよ、私がこんなふうに自己中心的な世界を作りたいと思っているのであれば、もしかしたら、あの人も私と同じように自己中心的な世界を作りたいと思っているのかも知れない。

 こんなふうに色々な思考が展開して行くのです。ほかにも、いろいろなパターンが発生すると思いますが、こうやって、物事をより現実的に、より相対的に理解することが出来るようになって行くのです。

 いままでは、母親的なものとの無条件の一体感を求めていましたが、回復に伴って、母親的なものに対して、心理的な「分離」が心の中で発生したのです。そして、母親的なものと分離しても、なんとか自分で自分を支えてゆけるようになったのです。その結果として、物事を相対的に、現実的にとらえることが出来るようになったのです。ですから、私はこの思考パターンを「分離型」と名付けたのです。

 メンタルヘルスの世界に「自己実現」という言葉がありますが、この本当の意味は、自分の願望を実現するという意味ではないのです。自分の限界を知り、不完全な自分を受け入れ、不完全な他人を受け入れ、不完全な現実を受け入れ、部分的な理解と、部分的な愛情の世界でも生きていけるようになるということなのです。理想的な自分になるということではなくて、範囲と限界の中で生きている不完全な自分を受け入れて、ありのままの現実的な自分になるということなのです。

 最後に、ひとつ注意しておかなければならないことがあります。何度も書いていることなのですが、この思考パターンはあくまでも回復に伴って「自発的に」現れてくる思考パターンですので、まだ問題を抱えている人に対してこの思考パターンを押し付けるようなことは、決してしないでください。ますます問題がこじれてしまうでしょう。

 そして、まだ自己愛が育っていない人も、この思考パターンを真似したりしないでください。自己愛が貧弱で、自分の輪郭が無いような人が、この思考パターンを真似しようとすると、ますます自分が無くなってしまって、泥沼にはまってしまいますので注意してください。


ホーム > 思考と行動の問題点 > 誰も私のことを分かってくれない(下)

【 境界例と自己愛の障害からの回復 】