境界例とユーモア
2002年06月04日 ver1.0 これは、元プロスキーヤーという人から聞いた面白い話です。彼は若いころ、スキー場でインストラクターの仕事をしていたことがあるのだそうです。この仕事は、雑用などがたくさんあって、ほとんどテレビも見れないような毎日だったのだそうです。それで、スキーシーズンが終わって東京に帰ってくると、今までの不自由な生活の反動もあって、女の子たちに片っ端から電話をかけて、みんなを誘って飲みに行ったのだそうです。そして、飲み屋でスキーの話をしながら冗談を言っていたときに、女の子たちから一斉に「サイテー」と言われて、彼はがくぜんとしたのだそうです。その場は何とか取りつくろったものの、サイテーと言われたことのショックはきわめて大きかったようで、「オレは、人間として最低なのだろうか」と悩んだのだそうです。そして、日がたつにつれて心が暗くなっていって、やがて食事もノドを通らなくなってしまい、夜も眠れなくなったのだそうです。そして、「オレは、死んだ方がいいのだろうか」とまで思いつめるようになったのだそうです。そんな鬱々とした精神状態の時に、つけっぱなしにしていたテレビをぼんやりと眺めていたら、明石家さんまというタレントが、みんなから「サイテー」と言われてヘラヘラしているのが映っていたのです。彼はそれを見て、「ああ、このことだったのかぁ!」と、やっとのことですべてを理解したのでした。つまり、女の子たちは彼が人間的に最低だという意味で言ったのではなくて、単なる流行語として「サイテー」という言葉を使っただけなのでした。冬の間、ほとんどテレビを見ることができなかった彼は、そういう言葉がはやり始めたことを知らなかったために、サイテーという言葉を、文字通りの意味に受け取ってしまい、深刻に悩んでしまったのです。彼は、サイテーの意味がわかると、これで頭上を覆っていた暗雲が吹き飛んで、一気に元気を取り戻したのだそうです。 彼がどんな冗談を言ったときに、サイテーと言われたのかは分かりませんが、もともと明るい性格の彼であったとしても、サイテーという言葉によって、ここまで深く傷ついてしまうのです。このことは、人間がいかに傷つきやすい存在なのかということを思い知らされます。しかし、それと同時に、明石家さんまというタレントについても考えされられてしまうのです。芸人というのは、自分の欠点をウリにして笑いを取ることが良くありますが、それにしても、まあ、どういう神経をしているのか分かりませんが、自分が「最低の人間」であるという、人格を否定されるようなキャラクターであることを、逆に自分のウリに変えてしまうのです。普通の人間であれば、それこそ心がボロボロに傷ついてしまうようなことで笑いを取って、それを自分にウリにしてしまい、さらにサイテーという言葉を流行させてしまうのです。そして、サイテーであるにもかかわらず、タレントの好感度ではトップクラスに入り込んでしまうのです。考えてみれば、これは並大抵のことではないのです。ここに、明石家さんまという人の、芸人としての優れた才能を感じてしまうのです。 私たちは、芸人ではありませんので、明石家さんまのような真似はできませんが、自分の欠点を笑いに変えてしまうという点においては、考えさせられることがたくさんあります。まずここには、送られたメッセージをどう受け取るのかという問題があります。たとえば、人によっては「調子のいいやつだな」と言われて、さっと青ざめてしまうような人もいるでしょうし、侮辱されたと感じてキレてしまう人もいるでしょうし、中には「どうもすいません。エヘヘ」と言って、笑ってやり過ごす人もいるでしょう。たしかに、これは相手の言い方が受容的な言い方なのかどうかということも重要な要素ではありますが、受け手側の要素としては、自分がどういう人間なのかという、自分のセルフイメージの問題が関係してくるのです。つまり、自分の欠点やみっともないことを、それでも肯定的にとらえることができるかどうかという問題です。「たしかに、自分には調子のいいような一面があるな」と、自分の欠点を素直に受け入れているのであれば、「エヘヘ」という対応もできるのです。こうなると、これは欠点と言うよりも、個性というものになってしまうのです。 このような欠点の受容というのは、さまざまなケースで見られます。たとえば、世の中には髪の毛が薄いことに引け目を感じてカツラを付けている人もいれば、反対にハゲていることに誇りを持っていて、さらに頭を輝かせるべく毎日ハゲ頭に磨きをかけている人もいるのです。これは、髪の毛がなくなってきたことを恥ずかしいことととらえるのか、個性のひとつであるとして肯定的にとらえるかの違いなのです。ここに、ユーモアが成立するのに、不可欠な要素があるのです。つまり、ユーモアとは、自分の欠点を受け入れる能力なのです。まず最初に開き直って、「私はハゲだ。ハゲでどこが悪いのだ」と、自分で自分の現実を受け入れるのです。そして、次に周囲の人にも「私は、ハゲだ」と言って自分の現実を売り込むのです。そうすれば、「おい、写真を撮るときは、オレの頭をフラッシュ代わりに使ってくれ」というような冗談も言えるのです。 さて、ここで境界例とユーモアの関係についてですが、境界例の治療場面において、ユーモアの効用が指摘されているのです。なぜユーモアが効果があるのかと言いますと、それは距離の取り方と関係してくるのです。本人がひどく悲観的になっていたり、絶望的な気持ちになっていたとしても、第三者から見れば、まったくたいした問題ではないように見えたり、時には滑稽に見えたりすることもあるのです。しかし、本人は自分の問題にとらわれてしまって、まわりがまったく見えなくなっているのです。そんなときに、第三者が、ちょっとししたユーモアを交えて、笑いの視点を与えてやれば、今まで深刻に考えていた問題も、ちょっと距離を置いて眺めることができるようになるのです。自分自身の抱えている問題を、多少の冷静さと、多少の余裕を持って、ユーモアの視点から見つめることができるのです。悲劇と喜劇は紙一重と言いますが、ほんのちょっと視点を変えるだけで、絶望的なことも、なにか滑稽な面を持っているように見えてきたりするのです。そして、深刻な問題も、笑いに変えて受け入れることができるようになるのです。 これは、境界例の人だけではなくて、セラピストや、支援者についても言えることでなのです。こういう人たちにとっても、ユーモアが言えるということは、精神的に余裕があって、心の健全性が保たれているということなのです。つまり、境界例の人と一緒に泥の船に乗り込んで海の底に沈んでしまわないように、境界例の人とは適度な距離を保って、時には笑いの視点から自分たちの状況を眺められるくらいの余裕が必要なのです。 こんなふうに、ときにはユーモアの視点が必要だとはいっても、なかなか難しい面もあります。深刻に悩んでいる人にとっては、とてもじゃないですが、ユーモアどころの話ではありません。自分では頭の切り替えができないからこそ悩んでいるのです。そういうときには、第三者のちょっとした機転の利いた言葉が必要になります。しかし、これが的を得たユーモアでないと、逆効果になってしまうという問題もあります。その場の雰囲気と、相手の気持ちを良く理解していなければなりません。特に、うつ病の人に対しては逆効果になってますます落ち込んでしまう危険性がきわめて高いので、この点だけは十分な注意が必要です。 自己分析をするにあたっても、高すぎる理想は絶望と背中合わせとなりますので、適度にセルフイメージを緩めてみて、自分の抱えている問題をユーモアの視点から見てみるというのも、ひとつの方法なのです。たとえば、野球の松坂投手は、ホームランを打たれたときにペロッと舌を出す癖がありますが、あまり自分に完全性を求めずに、すこしくらい失投しても、ペロッと舌を出してやりすごすような余裕が欲しいものです。 ここでちょっと話は変わりますが、かつて芝居の世界に首を突っ込んでいたころに、ある女優から聞いた話を紹介しましょう。彼女が芝居の自主公演を計画して、その資金集めをしていたときのことでした。財界に顔のきく人から、ある大企業の社長を紹介されたのだそうです。この大企業というのは、日本の基幹産業を担うような巨大な大企業なのですが、彼女は寄付金をもらうためにこの大企業の本社ビルへと出かけて行ったのです。そして、秘書の人に案内されて、ふかふかの絨毯が敷いてある、だだっ広い社長室に一人で入っていったのだそうです。すると、ここで驚くようなことが起きたのです。社長さんは彼女の姿を見ると、突然靴を脱いで机の上にあがったのです。そして、机の上にちょこんと正座すると、人差し指を頬に当てながら、かん高い声で、「ぼく、アッちゃんだよー。アッちゃんと呼んでー」と叫んだのだそうです。彼女は、社長さんのあまりにも意表を突いた行動に、あ然としたのだそうですが、アッちゃんが「戦争ごっこしよー」と言うと、彼女もすぐに頭を切り替えて、二人で戦争ごっこを始めたのだそうです。指でピストルの形を作って応接用のソファーの陰に隠れながら、口で「バーン、バーン」と言って撃ち合いをしたのだそうです。やがてアッちゃんが、「いま撃った弾がお前に当たったから死ねー」と言うと、彼女は「うぁー、やられたー」と叫んで、大げさな死に方をしたのだそうです。そして、倒れたまま十数えると、また生き返って撃ち合いをしたのだそうです。この戦争ごっこが、ひととおり終わってから、やっとのことで、なにがしかの寄付金をもらってきたとのことでした。 私はこの話を聞いたときに、「へー、あの会社の社長さんがねー」と思ったのですが、社長さんにしてみれば、寄付金を、ストレス発散のための遊び代くらいに考えていたのかもしれません。こういう巨大な企業で社長の地位までのぼりつめるには、きれい事ではすまないような、し烈な競争を勝ち抜いてきたはずですが、それでもこの社長さんは羽目を外した遊びが出来るという、それだけの心の余裕を持っていたのかもれません。あるいは逆に、ただ単に頭の壊れたアブナイ社長さんだったのかもしれません。いずれにせよ、もしもこの会社の第一線で働いている社員たちが、社長室で若い女性と戦争ごっこをしている社長を見たら、これはもうたまったものではありません。それこそ、社長は気が狂ったのかと思うことでしょう。しかし、まあ、世の中、案外とこんなものなのかもしれません。何事も、ただ真面目に考えるだけではやっていけないようなこともたくさんあるのです。そんなときには、笑いの視点からとらえてみるのもひとつの方法なのです。 私たち境界例も、訳の分からないことをやって、いろいろなトラブルを起こしているのですが、この訳の分からなさも、ただ真面目に自己分析するだけではなくて、ときには笑いの視点から眺めて見てみてはいかがでしょうか。 |