先日テレビを見ていたら、レスリングの選手たちが度胸をつけるために自衛隊でパラシュート降下訓練をしたと言うニュースがあった。レスリングとどういう関係があるのかよくわからないが、いきなり高いところから飛び降りるとなると、やはり足がすくんでしまって、なかなか訓練用の塔から飛び出すことが出来ないようだ。高さは十メートルか二十メートルくらいしかない塔である。身体には飛び降りた後で吊ってくれるヒモが取り付けられているのだが、そんなことは頭でわかっていてもなんの役に立たない。何もない空中に飛び出して行くためには、ある種の勇気が必要となる。その勇気とは分離不安に直面したときに必要となる勇気と似たようなものではないかと思った。
どんなに勇敢な人でも、訓練も無しにいきなり飛行機に乗せられて、千メートルの高度から飛び降りろと言われても、なかなか出来るものではない。知識としてパラシュートの操作方法を理解していても足がすくんでしまう。頭ではパラシュートを背負っているから大丈夫なんだとわかっていても、身体が言うことを聞かない。飛行機の飛び降りるステップの向こうには、足の下に何も無いのである。眼下には小さく見える地上が広がっている。一歩踏み出してしまえば、自分の命を守ってくれるものはパラシュートしかない。こんなときに哲学や宗教などで自分を勇気づけようとしても何の役にも立たない。たった一人で飛び降りなければならないのだ。誰も助けてくれない。周囲の人の励ましの言葉があったとしても、その一歩を踏み出す決意をするのは自分自身である。たった一人で、何もない空中に飛び出さなければならないのだ。
どんなに勇敢な人でも、やはり訓練は必要だ。地上で訓練を積んで、何もない空中に飛び出しても大丈夫なんだということを、少しずつ身体で学習してゆかなければならない。だんだんと高いところに慣れていって、やがて飛行機から飛び降りられるようになる。いきなり飛行機から飛び降りるのではなく、段階的な訓練で、ちょっとした勇気を積み重ねていくのである。その過程で、自分の命を守ってくれるパラシュートへの信頼感が獲得されてゆく。
これは分離不安と似ている。母親が見守っていてくれるという安心感や、母親との信頼関係が確かなものであれば、母親から離れることに不安を持つことはないだろう。赤ん坊も、最初は不安になるものだが、発達過程の練習期などを通して、母親と離れても大丈夫なんだということを学習してゆく。そして、良い母親のイメージが心に定着すれば、それがパラシュートへの信頼感と同じようなものになり、たった一人でも人生の大空へ飛び出してゆくことが出来るようになる。そして、人生のスカイダイビングを楽しむことが出来るようになる。
境界例の場合はそうはいかない。子供の自立を妨害しようとする母親の存在があるからだ。見捨てられ不安などを刷り込まれてしまうことで、境界例の人が背中に背負っている母親というパラシートは、穴だらけで実に頼りないものである。地上に設置された訓練用の塔からであっても、恐怖感に囚われて飛び降りることなど出来ない。特に恐怖感の強過ぎる重症の人は、パニックに陥ってしまうだろう。なんとか飛び降りずに済ます方法はないものかと、死に物狂いでありとあらゆる言い訳を考えるだろう。そして、周囲の人たちに、必死になって訴えるだろう。あるいは錯乱状態になって、暴れたりするかもしれない。飛び降りることを回避できるなら、どんな卑怯な手段でも使うだろう。病気のふりをしたり、ときには死んだふりさえもやりかねない。あるいは、死の恐怖感から思考が狂ってしまい、逆にパラシュート無しで飛び降りようとする人もいるかもしれない。これらの行動は、すなわち、重症境界例の症状そのものである。
私自身も、偉そうなことを言っていても、実際はひどく気の小さいところがある。過去を振り返ってみると、いざという時にびびってしまい、情けない思いをしたこともある。「頼りない人」などと言われたこともある。こんな情けない過去は見たくもない。だからハムレットの台詞を口ずさんだりして、格好つけて自分をごまかしたりする。
「こうして反省というやつが人間を臆病にする。乾坤一擲(けんこんいってき)の大事業も、ここぞというときにその勢いを失い、すべて水の泡と消えてしまうのだ」
ハムレットもいい年をして精神的に自立できなくて、ああだこうだと迷いに迷うのである。「人間のやることなら、何だってやってやる」などと口では威勢のいいことを言っても、なかなかふんぎりが付かないのだ。「弱き者よ、汝の名は女なり」などと母親に向かって格好いいことを言っても、じゃ自分はどうなんだということになる。恋人に向かって「なぜ男と連れ添うて罪深い人間どもを産みたがるのだ」などと訳のわからんことを口走ってみたり、「尼寺へ行け」などととわめいてやつ当たりしてみても、自分を振り返ってみれば自己嫌悪に陥り、「このような男が天と地の間を這いずり回って、いったい何をしようというのだ」ということになる。
では、我々は、ハムレットみたいに天と地の間を這いずり回りながら、いったい何をどうしたらいいのだろうか。やはり我々は、分離の不安や恐怖と向き合うしかないのだ。いきなり高いところから飛び降りることは出来ないので、低いところから始めて、ゆっくりと高いところに進んでゆくしかない。小さな勇気があれば出来るような高さから始めてゆくのだ。この小さな勇気の積み重ねが大切なのだ。
人生のあらゆる場面に飛び降り台が設置されている。しかし、我々はその飛び降り台を、避けて通ろうとしている。あるいはそんなものは見ないで通り過ぎようとする。まずは、そういう卑怯な自分と向き合わなければならない。分析によってなんとか防衛機制を突破することに成功して、そういう卑劣な自分を発見したりすると、ひどい自己嫌悪に陥ったりする。しかし、そういうものを少しずつ乗り越えていかなければならない。急にできることではない。少しずつゆっくりと進んでいくしかないのだ。
飛行機から大空へ飛び出して、スカイダイビングを楽しめるようになるには、普通の人とは違って、長い長い年月がかかるだろう。だが、少しずつでもいいから高いところから飛び降りる不安と向き合い、少しずつでもいいからそれらを克服してゆくしかない。だが、人生には、急に高いところから飛び降りなければならなくなることもあるだろう。そして、不安や恐怖に耐えられずに逃げ出してしまうこともあるだろう。もし、恐怖感が強くなったら、また低い台に戻ればいいのだ。マイペースでやっていくしかないのだ。
「言葉の終わり、そして、行動のはじまりだ」
―― ピーター・シェファー 「自分の耳、他人の目」 より