ホーム思考と行動の問題点


しがみつき Ver 1.0 1999/05/29

 治療場面で、治療時間が終わっても、なかなか部屋を出たがらない人がいるという。セラピストと別れるのが、まるで奈落の底に突き落とされるかのように感じるのだろう。椅子から立ち上がろうとしなかったり、ドアの所に立ち尽くしたまま、部屋を出ようとしなかったりするようだ。冷静に考えてみれば、治療時間が終わったら帰宅して、また次の治療の時に来ればいいだけのことなのだ。ただそれだけのことなのだが、見捨てられる恐怖に囚われている人にとってはそうは行かない。まるで明日という日がないかのような絶望感に陥ってしまう。このまま部屋を出てしまったら、もう二度とセラピストに会うことが出来なくなるかのような悲壮な恐怖感にとらわれている。もし優しい言葉でもかけてやれば必死になってしがみついてくるだろう。まるでおぼれている人が必死になって何かにつかまろうとしているかのようだ。もし部屋を出て行くことを拒み続けていると治療に混乱を来たしてしまう。患者は部屋を出なければならないという現実と、見捨てられる恐怖感とを直視しなければならないのだ。もし、セラピストが甘い態度を見せると、患者は脈ありと読んで自殺をほのめかしたり、セラピストが冷酷な人間であると非難してみたりと、際限のない泥沼に引きずり込もうとする。(患者を単に突き放せばいいというものではない。直面化と支持。ここが治療の難しいところだ)

 これほど極端でなくても、我々の日常生活の中に似たような出来事がある。インターネットをやっていると、なかなかパソコンのスイッチを切れなくなる心理がそうだ。パソコンのスイッチを切ることが、見捨てられるような寂しさと結びついてるからだ。この寂しさに直面するのが嫌でネットの中をさまよい続けているとインターネット中毒といわれる状態になってしまう。生活に必要なことをすべて放棄して一日中パソコンにしがみついているようなってしまう。

 寂しさを紛らすためにテレビを長時間見続けることもある。スイッチを切った後の寂しさと空虚感に耐えられないのだ。この寂しさはどこから来るのか考えなければならない。たしかに面白い番組がたくさんあって、見ていると楽しい。面白い番組がなくても、それなりに見れる番組を探して見続けたりする。いったい何を避けようとしているのだろうか。スイッチを切った後の静けさは、それほど苦痛なんだろうか。先ほどの患者のように、永遠にテレビが見れなくなるわけではないし、永遠にインターネットが出来なくなるわけではない。スイッチを切って、明日の仕事のために夜更かしせずに寝床に就かなければならない。見たい深夜番組があったら録画すればいいし、インターネットは次の日に続きをやればいい。スイッチを切るときに寂しさを感じるのは仕方がないとしても、その寂しさによって行動が阻害されてはいけない。

 我々は寂しさを紛らわすためにあらゆる物にしがみつく。知的な優越感、ペット、アルコール、薬物、助けてくれそうな人、同じ悩みを抱えた人。ある人は医者からもらった薬の名前を誇らしげに語り、ある人は手首を切りつけた傷跡を数える。なにもしがみつくことが出来なくなった人にとっては、おぼれる者がつかもうとするワラのようなはかないものであっても、必死になってしがみつく。極限状態まで行った人にとっては、一本のワラであっても自分にとってはかけがえのない救命ボートに見えてくる。その一本のワラを失ったら生きてゆくことさえ出来なくなってしまう。

 これは、最初に紹介した、部屋を出て行くことの出来ない人と同じだ。見捨てられる恐怖が解消しない限り、問題は解決しない。そして、この恐怖感はそんなに簡単に消えるものではない。少しずつ、少しずつ、進んでゆかなければならない。治療時間が終わって部屋を出ることが、見捨てらてしまう事とは何の関係もないのだということに気付くまで。少しずつ、少しずつ。テレビを切って独りぼっちになっても、インターネットの接続を切っても、それは見捨てられることとは何の関係もないことに気付くまで。みんなから無視されても、それがすべてではないことに気付くまで。虐待されて孤立無縁の状態になっても、自分で自分を見捨ててはいけない。自分と他人を区別し、他人から送られてくる間違ったメッセージを拒めるようになるまで、少しずつ、少しずつ、進んでゆくしかない。自分と他人の区別がついて、他人がなんと言おうと、自分は自分なのだということが感覚的に理解できるまで、少しずつ。過去の悲惨な体験があったにしても、自分は自分なんだということが理解できるまで、少しずつ。そして、個の確立に向かって少しずつ、少しずつ。恐怖感によって盲目になってしまった目が少しずつでも開いてくれば、いろいろなものか見えてくる。いままで恐れていたものが、それほどのものでないことに気付くようになる。絶望的になるほどのものでないことが理解できるようになる。

 泳げない人が水に落ちるとパニックになって必死になってもがく。少しでも泳ぎのわかる人は、なにも恐くないし、あわてることもない。この両者の差はなんだろうか。それは、自分の身体はなにもしなくても浮力で浮くんだということを体験的に知っていることだ。見捨てられる恐怖に囚われている人も同じだ。急に泳げと言われても泳げるわけがない。でも、なにもしなくても身体が自然に浮くから、もがく必要はないんだということを、少しずつ、少しずつ学んでゆくしかない。おぼれる心配がないんだということを、そして、恐怖感に囚われる必要はないんだという事を、少しずつ理解していかなければならない。刷り込まれた恐怖感を見つめ、それとこれとは別の事だということを理解していかなければならない。

 やがて、寂しさ、空虚感、孤独、絶望感、そう言ったものが、お化け屋敷の仮装人形でしかないことに少しずつ気付くようになる。それに伴ってしがみつきも無くなってくる。


診断基準
1.現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気違いじみた努力。



  ホーム思考と行動の問題点