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2002年11月23日 ver1.0
【 警 告 】 前回、ちぐはぐな親子関係と、自己満足のために子供を利用する親のことについて書きましたが、こういった過去の体験がどのような形で職場の人間関係を通して再現されるのかということについて、順を追って書いてみることにします。新しい職場になれてくるころに出現する行動パターンの中に、仕事がスムーズに進むようにと、合理的なシステムを考えたり、業務マニュアルの制作にこだわったりするというのがありますが、なぜこのような行動パターンが出現するのかといいますと、これはちぐはぐな親子関係の反動から来ているのです。過去のすれ違いだらけだった親子関係ではなくて、それとは反対に、心の通じ合う世界を作りたいという私の願望そのものなのです。お互いに理解し合い、心が通じ合い、業務が合理的に処理されて、仕事がスムーズに進んで行って、絶対にすれ違いや誤解が生じないような関係、そういう完璧なシステム、つまりそういう親子関係だったら良かったのになぁ、という私の願望が職場の人間関係の中で現れてくるのです。この願望は、ちぐはぐな親子関係の中で、私が描いていた理想であり、親との関係では実現することが出来なかった理想なのです。この抑え込まれていた理想を、なんとか実現したいという願望が行動となって出現するのです。 ここで、ふと、子供のころに見たアメリカ映画のことを思い出しました。ある家族を描いた映画だったのですが、その家庭では子供も家族の一員として、一個の人間として扱われていたので、私は未知の世界を知ってしまったように、強いショックを受けたのです。私の家族とはまったく別の世界でした。私の親のように、「お前なんか、うちの子じゃない」と言って、ゴミを投げ捨てるようにして、私を体ごと窓から外に投げ捨てたり、都合のいいときだけ「親子じゃないか」「家族じゃないか」と言って私を利用しようとしたりするような関係とは、まったく違う世界があるのだということを知ったのです。 もう一つ、エスキモーが荷物を運ぶ時の話も思い出します。氷が溶けて船が荷物を積んで村にやってくると、たとえば江戸っ子のように、「女こどもは、引っ込んでろ」てんで、威勢のいい若い衆が、ねじり八巻をして荷物を運ぶのではなくて、一人一人が、それぞれ自分の能力にあった荷物を運ぶのだそうです。たとえばヨチヨチ歩きの子供でも、コップを一個だけ持たされて、それを運ぶという役割を与えられるのです。こうやってみんなが、それぞれの能力にあった役割を与えられることで、村の一員であるという意識を持つのです。しかし、私には家族の一員であるという意識は育ちませんでした。親の都合のいいように利用されるだけなら、こんな家族の一員にはなりたくありませんでした。ですから、おなじように、会社という組織への帰属意識も持てないのです。しかし、私には理想があります。家族が有機的に機能して欲しいという、実現できなかった理想があるのです。 しかし、実現できなかった理想を、職場で実現させようとすると、いろいろな問題が発生することになるのです。もともと人間はそれほど完全な存在ではありませんから、私が理想を実現しようとしても、思い通りに行かないことがたくさん発生することになるのです。そして、職場でもちぐはぐな状況が発生してきて、それがつまり過去の親子関係とまったく同じように見えて来るのです。そして、私は仕事がスムーズに流れていかない、ちぐはぐな状況に対して強い心理的なこだわりを持つようになるのです。職場には、ばかばかしいことや無駄なことがたくさんありますが、私の関心は否応なくそういうものに釘付けになっていくのです。見当違いな仕事の進め方、無意味な仕事、的外れな仕事、こういったものは、すべて、かつてのすれ違いだらけの親子関係そのものを意味しているのです。ですから、私はこういうバカな仕事のやり方をしている人たちに対して、親に抱いていたのと同じような苛立ちをつのらせていくのです。そして、私が問題点を指摘しても、それを理解せずに、毎日無駄なことばかりしている職場に、かつて親子関係で感じていたのと同じような閉塞感を抱くようになっていくのです。特に、自分でも気の進まないような仕事をやらされたりすると、かつて親に利用されていたときと同じように、会社に利用されているという意識がよみがえってくるのです。私は会社の利益のために利用されている。私の利益はどこにもない。私は剥奪されているのだ。誰も私のことを理解してくれない。私は搾取されているのだ、と思うようになってくるのです。このように、利用されているという意識が拡大していきますと、たとえば、「君は会社にとって必要な存在なんだ」と言われても、これは私を利用するための罠に違いない、というふうに受け取るのです。「君が今辞めたら、みんなが困ってしまうじゃないか」と言われても、これも私の罪悪感を利用して、私を会社に縛り付けようとする罠なんだ。こうやって、ずっと私を利用し続けようとしているのだ。結局私の親と同じじゃないか、と受け取るのです。職場の人たちからいろいろなことを言われても、私は絶対に素直には受け取れなくて、私は他人の利益や自己満足のために一方的に利用されているのだという疑いが、果てしなく拡大していくのです。そうなってくると、「もうこれ以上私を利用しないでくれ!」という叫びが、やがて行動となって現れるのです。 このように、何を言われても素直になれないというのも、かつての親子関係と同じなのです。たとえば、親子げんかのときに、「それが親に向かって言う言葉か!」と言われたら、私の方も「それが自分の子供に向かって言う言葉か!」と言い返したりするのですが、こうやってまさに「子は親の鏡」ということわざを、そのことわざ通りに実行して来たのです。こうやって、相手の行動や態度を映し出す鏡のようなことをやっていますと、私は親に利用されているという意識がありますから、親の悪い面だけを映し出す、非常に歪んだ鏡になってしまうのです。親に、自分はひどい親なんだという自覚を持ってもらいたいがために、親の悪い面だけを拡大コピーしてその醜さを見せつけようとするのです。ですから、言われたら言い返すという、口答えばかりして屁理屈を言う、非常に扱いにくい子供だったのです。 しかし、これも心理操作という視点から見てみれば、私は知らぬ間に親から操作されて、鏡の役をやるように誘導されていたのだというふうに見ることもできるのです。そして、この鏡の役が板に付いてくると、私はもはや相手の良いところを映し出すことが出来なくなってしまうのです。そして、どちらが挑発しているのか分からなくなってしまい、目には目を、歯には歯をという状況がエスカレートしていくのです。しかし、どんなにもがいても、私の気持ちは通じないのです。すると私は、こんな出口のないような迷路からは抜け出したくなるのですが、もはや状況を打開するには、すべての人間関係をリセットするしかないのです。 こういう心理状態のときに、周囲の人たちを見渡してみますと、みんななんて大人しいのだろうと思うのです。まるで、感情を失った奴隷のように、きわめて従順に仕事をしているのです。なぜこの人たちは思っていることを口に出さないのだろうか。なぜ不満に思っていることを行動で示さないのだろうか。なぜ実力行使に出ないのだろうかと思うと、実に不思議な気がしてくるのです。そして、同僚たちが、まるで飼い慣らされた家畜のように見えてくるのです。私は親子関係によって、不満がつのると、すぐに口に出したり、すぐに手を出したりして親と争うという訓練を積んできましたから、ほかの人たちを見ていると、余りにも間抜けな人間に見えてくるのです。そして、こういった感受性が鈍くて、鈍感で間抜けで小心で卑怯な俗物たちに対する軽蔑の気持ちも、徐々に強くなっていくのです。 こんな風にして、閉塞感や苛立ちがつのってきて、最後にはキレて会社を辞めることになるのです。もはや希望を見いだすことの出来なくなった人間関係は、きれいさっぱりと脱ぎ捨てて、まったく違う世界に行こうとするのです。しかし、新しい職場でも、結局は同じことを繰り返すことになるのです。 ではどうしたらいいのかと言いますと、その答自体は実に簡単なのです。つまり、過去と現在の区別を付けることと、未処理のまま残っている親に対する感情を処理すること、----ということになるのです。しかし、これをいざ実際にやるとなると、なかなか一筋縄では行かないのです。 過去の特定の人に対する感情が、現在の人間関係の中でそのまま再現されてしまう現象を、精神分析では「転移」といいます。そして、精神分析的な治療では、患者とセラピストの間に発生する転移を使って治療を進めていくのです。たとえば、今現在セラピストに向けているその感情が、実は過去に親に向けていた感情と深い関係があることに気付かせるのです。そして、自分自身でも気付かなかった、さまざまな転移に意識を向けさせていって、その背後にある、埋もれたままになっている感情を、適度にコントロールしながら発散させて処理していくのです。実際には、ほかのいろいろな技法、たとえば明確化、直面化、解釈、支持的サポート、セラピストによっては夢分析、などといった技法を組み合わせて使ったりするのですが、基本的にはこのような転移を利用した技法を使って、今まで気付かなかったことを気付かせて行くのです。そして、支持的に患者をサポートしながら、未処理の感情を、根気よく、ひとつずつ処理していくのです。こういうやり方で、心を縛り付けている目に見えない重い鎖を外していくのです。 ですから、私たちにとってまず最初に必要なことは、現在と過去がダブっていることに気付くこと、つまり精神分析的な言い方をすれば、転移が発生していることに気付くことが必要になるのです。しかし、通常は、自分で転移に気付くというのはなかなか難しいことなのですが、転職を繰り返すという問題を抱えている人の場合には、職場での行動パターンと、親子関係のパターンとを冷静に比較して見れば、そこに共通する部分があることを、比較的容易に見いだすことが出来るでしょう。あの日、あの時、親に対して抱いた、あの感情が、今、この憎たらしい上司に抱いている嫌悪感とまったく同じであるとか、あるいは、職場の同僚からこんな事をされたときに、こんな反応をしてしまったのは、かつて親からあんな事をされたとき、あんな反応をしたのとまったく同じだ、といったような過去と現在のダブりをいくつも発見することでしょう。そして、いまの人間関係の中にも、かつての親子関係が幾重にもダブって入り込んでいることに気付くことでしょう。 まずは、こうしてダブりに気付くことです。そうすると、どうなるかというと、埋もれていた感情が表面に出てきて、精神的なバランスを崩したり、がっくりと落ち込んで鬱状態になったり、あるいはトラブルを招くような行動をとったりする可能性が出てくるのです。こういう混乱した状態になっても、セラピストから治療を受けているのであれば、精神的なサポートを受けたり、薬の投与を受けたりすることも出来るのですが、たった一人で自己分析をしているとなると、場合によっては自分でも収拾がつかなくなって、感情の嵐にもみくちゃになってしまうかも知れません。もしこうなってしまったら、ためらわずに治療を受けることを考えてください。自殺したくなるような精神状態では、とても自己分析どころではありません。一人でもがいているよりは、薬を飲めばそれで一時的にでも解決することがあるのです。自己分析をやって行くには、体力と気力と集中力が必要です。ですので、混乱したり落ち込んだりしたときには、自分をそれ以上追いつめないで、取りあえず、落ち込んだ状態から抜け出すことを優先させてください。このように、適切なサポートが受けられないという点が、自己分析をやっていく上での宿命的な問題点なのですが、自己分析にはこういう危険性があることを十分承知しておいてください。 では、次にその埋もれている感情とはどんなものなのかと言いますと、問題行動の背後にあるのは、やはり、見捨てられ感であり、見捨てられたときの果てしない寂しさなのです。キレて悪態をついたりするその背後には、気持ちが通じない事への怒りと、耐えるにはあまりにも辛すぎる、底なしの寂しさが潜んでいるのです。この果てしない寂しさと向き合うことが出来ないからこそ、無意識的に怒りをつのらせる方向に逃げてしまうのです。こうやって相手を憎んで攻撃してさえいれば、理解してもらえない寂しさや、気持ちが通じない寂しさとは向き合わずに済むのです。誰からも振り向いてはもらえない、孤独で惨めな自分とは向き合わずに済むのです。そして、他人の問題点を批判したり攻撃したりしてさえいれば、とりあえず自分は、相対的に相手よりは善人になることが出来ますし、憎しみや攻撃性によって、表面的ではあっても問題を解決する事が出来れば、そのことでますます攻撃性をつのらせていって、攻撃性による万能感を獲得するようになっていくのです。まさに攻撃は最大の防御となるのです。このようにして、耐え難い寂しさというのは、攻撃性やそのほかのさまざまな行動とすりかえられたりして、実に巧妙に自分で自分をごまかしてしまうのです。そして、自分でも気付きたくないようなことは、気付かずにすむようにしているのです。 このようにして憎しみをつのらせていくと、やがて、悪質で愚鈍で無神経な人たちを抹殺したなってくるのですが、このような殺意というのは、自分自身の存在をも危険にさらすことになってしまいます。しかし、安全に相手を抹殺する方法があるのです。それは、自分が職場から消えてしまうという方法なのです。自分がいなくなれば、邪魔なやつらが、相対的に自分の目の前から消えますので、こうすることで、とりあえずは自分の目の前から抹殺できるのです。こういった、自分を消すことで、相手を目の前から消すというやり方は、自殺の行動パターンに似ている面があります。自殺願望というのは、死にたいと言うよりも、消えてしまいたいという感情に近いものがあって、心の中にある激しい攻撃性が、出口を失って自分自身に向かうとき、自分自身がこの世から消えることで、相対的に、この世のすべてを抹殺しようとすることがあるのです。そして、このような激しい攻撃性の背後には何があるのかというと、やはり、耐えられないほどの果てしない寂しさがあるのです。出口のない激しい怒りと、果てしない寂しさが、感情を麻痺させて鬱状態を作り出し、自分をこの世から消してしまおうとするのです。 話が長くなってしまいましたが、このような「寂しさ」の内部構造については、また別のところで書いてみたいと思います。要はこの見捨てられた寂しさや惨めさと、少しずつでも向き合うことが出来るようになることであり、この果てしない寂しさに耐えられるようになることではないかと思います。そして、未処理のまま埋もれている寂しさを、少しずつ処理していけば、このみじめな寂しさというのは、実際にはそれほど悲惨なものでも、みじめなものでもないんだと思えるようになってくるのではないかと思います。そして、寂しさに耐えられる自分というものが確立してくれば、今まで見捨てられと感じたり、存在を無視されたと感じていたようなことでも、実はそれほど大げさなものではなかったんだ、と受け流すことが出来るようになるのではないかと思います。 次回は、「問題の多い人のための転職講座」ということで、私が体験したことや、職場で出会った問題の多い人たちのことを書いてみたいと思います。 ホーム > 思考と行動の問題点 > 転職を繰り返す > 転職行動の分析(2) 【 境界例と自己愛の障害からの回復 】 |