幻覚というと、なにか特殊な人しか体験しないものだと思われがちですが、案外と身近な存在なのです。普通の人が一番よく体験するものとして、たとえばこんなのがあります。
夜中にふと目が覚めると、誰かがドアを開けて入ってくる音が聞こえた。鍵を掛けたはずなのにおかしいと思って起き上がろうとしたが、身体が金縛りにあって動けなかった。侵入者は、恐ろしい顔をした体格のいい男だった。私の足元に立つと、いきなり私の足をつかんで、どこかへ連れていこうとして引っ張った。私は恐怖感から叫ぼうとしたが声が出なかった。しばらくすると侵入者はあきらめたようで、部屋から出ていった。その後私はウトウトと再び眠ったがすぐに目が覚めた。今のは何だったのだろうと、飛び起きてドアの鍵を確かめてみたが、間違いなくドアの鍵はかかっていた。もしかしたら、今のは何かの霊では……。
夏になると、よくテレビでこういう恐怖の体験談みたいな特集が組まれます。心霊現象として説明されることがほとんどですが、医学的には幻覚として知られた現象であり、原因もわかっていますし、治療方法も知られています。詳しいことは、半眠時幻覚のところに書きます。
普通の人は、こういった幻覚についての知識を持っていませんし、免疫もありませんので、幻覚体験をすると、いきおい心霊現象としてとらえがちです。オウム真理教みたいに、入信の時に幻覚剤を飲ませて、幻覚体験をさせられると、その体験を宗教的な神秘体験と勘違いして、すぐに信じ込んでしまいます。何を信じるかは人それぞれですので、神秘体験や心霊現象としてとらえるのもかまいませんが、ここでは、精神医学的な視点から幻覚を考えてみたいと思います。
幻覚とは、「対象なき知覚への確信」と言われ、何かが見えると言っても、そこに実体となるものがありません。部屋の壁にサソリが何匹も這い回っていると本人が言っても、他の人には見えません。向こうの方に、もう一人の自分自身が立っているのが見えると言っても、他の人には見えません。しかし、本人にはありありと見えているのです。たとえば、いま、あなたの目の前にディスプレイの画面が見えているのと同じように、幻覚も、そこに実際に物が存在するように、ありありと見えているのです。もし、あなたが、いま読んでいる「この文字」が、幻覚だと言われたら、そんなはずはないと思うでしょう。実際に、「この文字」がありありと見えていて、「この文字」を読んでいるのですから、これを幻覚と言うなのら、言っている人の方がおかしいのではないかと思うでしょう。幻覚を見ている人も同じように、自分の見ているものが真実そのものであると信じていますので、これを頭から否定されると、不愉快になります。
「自分が、この目で見たんだから間違いない」というような言葉は、幽霊を目撃体験した人がよく口にします。こういう場合は、周りの人が、そんなはずはないと言っても、なかなか納得しません。ここが難しいところです。たとえば「この文字」が幻覚かどうかは実際にディスプレイに触ってみれば、間違いなくディスプレイが存在することを確認できますが、もし、触った感覚自体も幻覚だったらどうなるのか。そこまで疑うとなると、自分以外の他の人にも見たり触ったりして確認してもらうしかありません。まあ、この辺は常識で判断してもらって……とは言っても、常識というのも人それぞれですから、厳密に突きつめていこうとすると、迷路の世界に入り込んでしまいます。幽霊のように、最初から触っても実態がないとされてるようなものをどう判断するかは、判断が分かれるかもしれません。しかし、合理的に考えてみれば、幽霊がなぜ服を着ているのか不思議です。服まであの世に行けるのか。どこのブランドの服なのか。服も化けて出るなら、金もあの世へ持っていけるのか。いや、そんなことはない。幽霊の正しい出方とは、一糸まとわぬ全裸で出てくるのが正しい出方ではないのか……。まぁ、どう考えるかは人それぞれです。ヌードの撮影中に不慮の事故で死んだモデルさんの幽霊なんかは、間違いなく全裸かもしれませんね。
人によっては、自分の見ている物が幻覚であるという自覚を持っている人もいます。たとえば、日本兵が、敵に追われて敗走を続け、飢えで苦しんでいるときに、洞窟の中に鬼が何匹もいて日本兵の死体を食べているのが見えたとします。しかし、本人はこれを理性的に考えて、鬼などこの世にいるはずがない、きっと自分は飢えがひどくて幻覚を見ているのだ、というふうに自分で幻覚を判断したりすることもあります。
幻覚の原因としては、精神的に不安定な時や、疲れている時などに普通の人が体験するものと、分裂病、てんかん、ヒステリー、薬物中毒、幻覚剤、脳や神経の損傷、など場合に発生するものがあります。境界例の場合も、重症のケースで一時的に見られることがあるようです。
原因は何であれ、幻覚は人間の心の不思議さを映し出しますので、文学のテーマになったり、推理小説のネタとして使われたりします。