心の病が作られる現場 Ver 1.0 1999/12/23
ロンドンにあるタビストック・クリニックでは、分析家の感受性を養うために、乳幼児観察という手法をとっています。これは、ごく普通の健康な家庭に、毎日一時間だけ入り込んで、その間に見た赤ちゃんと母親の行動を、後で文章にして報告し、みんなで討論するという訓練です。これを延々と何ヶ月もやり続けるのです。このような訓練を続けることによって、赤ちゃんの心の動きや、母親の心の動きを読み取る感受性が培われていきます。そして、この訓練を受けるために、世界中からセラピストたちが集まってくるのです。このような訓練は、たとえば子供を二人も育てて、もう育児のことは十分知っているという女性にとっても、実際に訓練を受けてみますと、毎日が驚くべき発見の連続だったりします。それだけ、この乳幼児観察という手法は魅力的で効果的な訓練方法であると言えるでしょう。また、こう言った訓練の他にも、タビストックでは精神分析の理論の学習や、実際に自分自身が分析を体験する、教育分析なども行なわれています。
さて、タビストック・クリニックでは訓練のために、普通の家庭の赤ちゃんの観察をしますが、このような観察を精神病の家庭で行なうとしたら、はたして観察者の目の前にどのような光景が展開するでしょうか。私は不思議に思うのですが、このような研究は今までほとんど行なわれていないようなのです。精神病の研究と言えば、一昔前は遺伝の問題から家系の調査が行われたり、あるいは病院内での治療や研究などばかりでした。赤ちゃんの心が作られて行く「家庭」という現場で、実際にどのようなことが起こっているのかということについて、なぜもっと調べようとしないのか不思議です。
たとえば、もし乳幼児期に何があったのかを伏せたままで分裂病の患者を見てみれば、分裂病の原因は脳の病気であるとか、遺伝が原因であるとか考える研究者がいても不思議ではないでしょう。中には、分裂病はウィルスの感染によるものではないかと考える研究者もいますが、乳幼児期に何があったのかを不問にしたまま、症状のみを研究対象にしていれば、まあ、こういったいろいろな考えが出てくるのも無理はないでしょう。しかし、実際に心の作られて行く現場である家庭に入り込んで、その育児のありさまを観察してみれば、目の前で心の障害が作られて行くのを目撃することになるのです。このようなことは、みなさんにもなんとなく理解できるのではないかと思います。たとえば「あんな育て方をしていたら、将来子どもがおかしくなってしまうだろうな」というようなケースを周囲で見聞きしたことがあるのではないでしょうか。そういった「あんな育て方」というものが、子どもの将来に影響を与えるであろうことはなんとなく常識的に理解できるのですが、では具体的にどのような影響を与えて、それが大人になるとどういう結果となって現われるのかという実証的な研究は、どういうわけかまだ不充分なのです。
しかし、育児の現場である家庭の内部では、育ちのいい研究者には想像し難いような「あんな育て方」が赤ちゃんに対して行なわれているのです。分裂病が脳の病気であるとか、遺伝が原因であるとか考える人たちに、狂った環境で育てられている赤ちゃんの実態を観察させたら、はたしてそれをどう思うでしょうか。「あんな育て方をしたら、子どもがおかしくなってしまう」という常識感覚は通用するでしょうか。では、その「あんな育て方」の様子を、実際に家庭の中に入り込んで観察した例がありますので、いくつか引用してみましょう。
「K夫人は赤ん坊を赤ちゃん用の高い食卓椅子に座らせて、前と同じように、すごい速さで食べさせ始めた。赤ん坊はがっかりした顔をしていた。母親はどんどん速くさじを運んだ。さじを一度おくと、すぐにまたさじを運んだ。赤ん坊は食事の終わり近くになると、食べ物を口から吐き始めた。母親は金切り声を上げて、そんなことする必要はないでしょう、と子どもに言った。食事の終わりに彼女はミルクを無理やり飲ませた。赤ん坊ががぶりとミルクを飲み下す音が聞こえた。そして、喉がつまるみたいになってしまってK夫人は『ママがあんたを窒息させようとしてるみたいに思うじゃない』と言って笑った。彼女にはとてもおかしく思えたのだ。食事の終わりに赤ん坊はお盆の上に全部吐き出してしまった。母親は汚したことをひどく嫌がり、ドレスがどれだけ汚れちゃったかを言った」
これは、分裂病にかかっているK夫人の家庭の、日常の一コマです。この観察者の報告を読んで分かるように、母親と赤ちゃんの間には、何のコミュニケーションもありません。二人の心はバラバラです。普通の健康な親子であれば、情動調律とか情動マッチングとか呼ばれている、感情の共有が発生します。たとえば、赤ちゃんがじっとなにかを見ていると、母親も赤ちゃんが見つめているものをじっと見つめ、赤ちゃんと視線を共有しようとします。そして、赤ちゃんが嬉しそうに声を上げると、母親も一緒になって嬉しそうな声を上げて応えたりします。こう言う行為を通じて、母親と赤ちゃんが感情を共有していくのです。お互いに与えたり与えられたりすることで、赤ちゃんは愛されているとか、受け入れられているとか言う感情を育てていくのです。
しかし、K夫人の食事風景には、このような、赤ちゃんと感情を共有しようなどという様子はまったく見られません。赤ちゃんが何を感じているかなどということには全くお構いなしに、機械的に食べ物を口に押し込んでいます。赤ちゃんにとって食事とは、楽しいものとは程遠いもので、非常に苦痛に満ちたものとなっています。本来であれば、満腹感などの快感が赤ちゃんに与えられ、それがその後の人生のあらゆる場面での満足感や快感の基礎となっていきます。しかし、K夫人の赤ちゃんには、食べることの楽しみもなければ、自分の気持ちを理解してくれる母親もいません。無理やり食べ物を押し込まれて、後でそれを全部吐き出すという、なにか接触障害を連想させるような、惨めで悲惨な状態に置かれています。
K夫人にしてみれば、K夫人なりに一生懸命子育てをしているのでしょうが、母親と赤ちゃんの心は分裂しています。このような家庭というのは、独特の雰囲気を持っていて、観察者が初めてこの家に入ったときに、すぐに、「嵐が起きようとしている」ような不安感を感じとっています。そして、観察を続けるに従って、徐々に冷静な精神状態ではいられなくなってくるのです。そのうちに観察者自身も、自分の心がバラバラになるような精神的な苦しみを味わうようになっていき、また夢でもうなされようにもなりました。この観察は短い期間だけ行なわれたものでしたが、それでも観察者にこれだけの精神的な影響を与えるのです。二十四時間この環境で生活している赤ちゃんには、当然のことながら観察者以上の深刻な影響があるものと思われます。
私たち境界例の場合は、分裂病になるほどではありませんが、これと似たような、親とのちぐはぐな関係を経験していることが多いのではないかと思われます。求めているのに与えられず、求めていないものばかり与えられるとうような状態です。こういったちぐはぐな関係は、もとはと言えば乳幼児期から始まっていることなのです。
その後、K夫人のお母さん、つまり赤ちゃんの祖母が代わりに食事を与える場面がありました。これはK夫人よりひどいものであり、おそらく同じようにして育てられたであろうK夫人が分裂病になったのも、このような間違った食事の与え方にあるのかもしれません。
「それから祖母は赤ん坊の鼻をつまんで、手ではさんで、赤ん坊が息をしようとしたのか、叫ぼうとしたのか、いずれかは分からないけれど、口を開けたとたんにベビーフードを一さじ口に押しこんだ。すぐにシャロン(赤ん坊の名前)の頬は、食べ物のたまった部分がふくれあがったので、祖母は鼻をつまんだまま、両頬をきつく押しつけた。赤ん坊は、ゲボゲボしながら飲み込んで、食べ物がすこし唇の間からにじみ出した。赤ん坊は無理に飲み込まされ、その目はひどくこわがっていた。私には窒息しそうな感じがしているように思えた。でも赤ん坊は吐かなかった。祖母は『この子は食べたくなったり、食べたくなくなったりするから、すこしおどかしてやる必要があるのよ』と言った。私には拷問のように見えた」
たしかに赤ちゃんにとっては拷問そのものでしょう。殺されるのではないかという恐怖と戦いながらの食事です。この赤ちゃんの心の中では、どのようなことが起きているのでしょうか。そして、この赤ちゃんは、この世というところを、どのように理解しているのでしょうか。おそらく赤ちゃんにとってこの世とは、自分の気持ちとは全く関係なく、いろいろな出来事が発生する世界なのです。それはつまり、自分の気持ちを理解してくれる者が誰もいない孤独の世界であり、突如として拷問のような恐怖に襲われる、支離滅裂な世界なのです。赤ちゃんは、それでもこのような状況を生きていかなければなりません。外界に対して心を閉ざし、あるいは外界と同じように、自分の心をバラバラに解体させることで、この支離滅裂な現実に適応しようとするのです。K夫人自身もそのようにして、乳幼児期を生きてきたのでしょう。ですから、自分の赤ちゃんを育てるときも、突然金切り声を上げて怒ったかと思うと、次の場面では全く何ごともないかのような平静さをみたり、赤ちゃんが激しく泣き叫んでいるのに、全く無関心だったりして、その行動は全く予測不可能な支離滅裂さを見せます。そして、このような育児行動によって、心の病が世代間を伝わっていくのです。
私は、こういった家庭の内部で何が行なわれているのかという、育児の現場に関する研究がもっとなされてもいいのではないかと思います。たとえばテレビ朝日の夕方のニュース番組の中で「現場へ行け」というコーナーがありました(現在は「現場へ走れ」というタイトルになってます)。やたらと事件が発生した現場に中継車を出して、そこから生中継をするというもので、「ここで犯人が、あんなことや、こんなことをして、それから、あそこのタバコ屋まで走って行って、こういうことになりました。ここがその現場です」とやるわけです。私も精神医学の研究者に対して、同じことを言いたいのです。「現場へ行け」と。赤ちゃんの泣き叫ぶ声と、母親の金切り声が交錯する「現場へ行け」と。その現場で人間の心が作られているのです。そして「踊る大捜査線」の青島刑事の言葉を借りるならば、「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」ということです。
さて、K夫人のケースでは分裂病的な支離滅裂さが見られましたが、このような親子関係のちぐはぐさは、母親が精神病でなくても出現します。次に引用するケースは、虐待の問題を抱えた家庭に医師が出かけていったときに目撃されたシーンです。
「私がいる間に、彼女は子どもに食事を与えていた。彼女はとてもうまく与え始めた。腕の中であやしながら、しきりに欲しがる子どものあいた口にスプーンで食べ物を優しく入れていた。しかし、子どもが飲み込む前に彼女はもう一杯スプーンで口にすばやく押しこもうとした。子どもは頭をそむけ、スプーンをいやがった。彼女は急に立ち上がって、子どもをベットの上に荒々しく投げ出し、怒って、『見てください。この子は食べようとしないんです』と言ったのだった。ときどきこのようなことがあり、彼女は子どもを突き放し、ひどくぶって傷を作ってしまった」
赤ちゃんが食べ物を飲み込む前に、次の食べ物を口に入れさせようとしても嫌がるのは当然のことです。しかし、この母親には赤ちゃんが食べ物を飲み込んだかどうかということが全く見えていないのです。こういう、赤ちゃんに対する配慮のなさや、母親の自分勝手な押しつけがましさによって、「食べようとしない」悪い赤ちゃんに仕立て上げられているのです。そして、母親は言うことを聞かない赤ちゃんに対して怒りを覚え、虐待行動に出るのです。しかし、虐待する一方で、部分的にではありますが、赤ちゃんと良好な関係が築かれているように見える部分もあります。こういったところが、虐待をしているからといって、すべての赤ちゃんが精神に問題を抱えるのだというふうに単純化できない部分でもあります。赤ちゃんによっては、「分裂病の母親に育てられた赤ん坊の研究」のところに書きましたように、支離滅裂な扱いを受けているにもかかわらず、逆に優秀だったりするケースもあるのです。しかし、大部分の赤ちゃんは何らかの発達障害を見せます。たとえば、この虐待された赤ちゃんが成長してからどうなかったか見てみましょう。
「この小さな男の子は、この分野で仕事をしているものならば誰でもよく見たことのある、宿なし子のようなうつろな顔つきのままであった。彼は、17歳になった現在でも、ストレスのもとで、ときどきそうした表情を見せる。彼の母親もまた、自分自身の母親との不幸な幼年時代について話すときに、しばしばこの顔つきをした」
このようにして、心の問題が世代間を伝達されていくのです。このように、家庭の中で何が起こっているのかを観察することで、いろいろなことが分かってくるのではないかと思われます。たとえば子供が母親を叩いたりして怒りをぶつけているときに、それを持て余した母親が手をつかんで、子供の口の中に突っ込むようなことをした例もあります。母親の何気ない行動ですが、この行為の意味していることは、母親を叩く代わりに自分自身の手を噛みなさいということです。つまり、攻撃性を他人に向けずに自分自身に向けないさいということです。そんなに怒っているのなら勝手に自分で自滅しなさいというメッセージです。日常生活の中での、母親が自分を守るためのちょっとした行為によって、この子は将来自傷行為に発展する可能性があるような自虐性を教え込まれたことになります。大人になって、母親への憎しみが表面化しようとしたときに、もしかしたら手首を切ったり、あるいは自分の手に噛みついたりするようになるかもしれません。
このような、母子関係のちくはぐさは、さまざまな悪影響を子どもに与えますが、母親は自分の行動の問題点に気づいていないことが多いようです。母親からすれば、自分なりに一生懸命育児をしているのですが、赤ちゃんが言うことを聞かないので苦労しているというふうに理解されます。赤ちゃんは手に負えない悪い赤ちゃんなのです。わがままで自分勝手で、可愛いところなど全くない赤ちゃんなのです。そして、こんな憎たらしい赤ちゃんはどうしても好きになれないのです。この原因はといえば、母親の歪んだ育児行動によって作り出されたものなのですが、だからと言って母親を責めても何の解決にもなりません。母親自身も、自分の母親からそのようにして育てられてきたからです。母親自身も幼いころの歪んだ育児行動によって植えつけられた、さまざまな問題に苦しんでいるのです。
では、このようなひどい育児の状況に救いはないのかというと、救いはあるのです。歪んだ育児行動に対する治療技法が考え出され、目覚ましい成果をあげているのです。この治療においては、冒頭に書いたタビストック・クリニックでの、家庭の中に入り込んで行なう母子関係の観察訓練が生きてくるのです。詳しいことは次の項目で書きます。
【参考文献】 「乳幼児精神医学」 J.D.コール他 岩崎学術出版 1988.11.19 「乳幼児:ダイナミックな世界と発達」 渡辺久子 他 安田生命社会事業団 1995.4.1 |