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自己分析の可能性と危険性
 Ver 1.0 1999/06/24


 自己分析の基礎になるのは、精神分析です。フロイトはこの精神分析の理論の構築に多大な貢献をしましたが、どうしても時代の制約を受けざるを得ませんでした。ですから、思索に頼らざるを得ない面もありました。それが今になって間違っているところがあるとか指摘されたりしているのですが、これは時代的に言ってどうしようもない面もあると思います。

 精神分析の理論に対しても、フロイト自身への批判も含めてたくさんのものがあります。それらを全て検討することは、私の手に余ることですし、私の目的は、そう言った学問的な研究が目的ではありません。ですから、現在の状況をごく簡単に言いますと、現在の精神分析では「対象関係論」と言われているものが主流派となっています。これは児童分析の分野から出てきたものです。子供のおもちゃを使った遊びなどを分析することで心の中で何が起こっているのかを知ろうというものです。このような治療の過程で、子供の心の中に取り込まれた外界の対象が「良い」対象と「悪い」対象に分裂していることがわかりました。したがって、治療に際しては、この分裂した対象を統合しなければならないとしました。ただ、フロイトの理論を引きずっているために、ころ辺をどう考えるかで、いろいろ考え方が別れるようです。対象関係論の他には自我心理学派というのがあるようですが、これは省略します。

 戦後、フロイトの時代にはなかった、乳幼児の精神を取り扱う発達精神医学などの分野が発達し、いろいろな発見がありました。乳幼児の心の中でどんなことが起きているのか、あるいは、成長してからどういう影響が出てくるかという研究が注目されます。これからも、この分野から新しい理論が出てくるのではないかと期待しています。

 精神分析の入門書としては、やはりフロイトの書いた「精神分析入門」が一番いいでしょう。一般の人向けにわかりやすく書かれています。興味があったら読んでみてください。

 自己分析を進めてゆく際に、どのようにやったらいいかというと、基本的には自由連想ということになります。夢や出来事などについて、自由に連想を続けていくのです。自由連想とは言ってもなかなか自由に連想することが出来ません。特に性的なことになると、はしたないことを考えてはいけないという無意識的な検閲が働いてしまいます。しかし、夢の意味や行動の意味について自由連想を続けていると、そのうちに意味がわかる瞬間が来ます。これは知的な理解とは違い、実感として「ああ、そうだったんだ」と理解できるものです。そして、今まで間違った考えに囚われて支配されていた過去の自分を展望できるようになります。隠された自分の願望や、抑圧された憎しみなどを発見することで、囚われから解放されて、今までの自分とは違った新しい自分が誕生します。これは実際に体験してみるとよくわかります。時には劇的な変化をもたらすこともあります。このような劇的な変化の場合は、囚われから急激に解放されることで、まわりのものが今までと違ったように見えて来て、新しい自分に慣れるまでしばらくの間、戸惑いを感じたりします。ちょうど脱皮を終えたばかりの昆虫が、新しい皮膚が固まるまで、しばらくじっとしているような、新鮮な戸惑い感覚です。私は自己分析による、このような劇的な変化を、二回体験しています。

 しかし、このような劇的な変化はめったにあるものではありません。なぜなら、防衛機制という、自分を守るための強力なシステムが働いているからです。その防衛機制を一つずつ剥ぎ取っていって、その結果として成し遂げられるものなのです。このような劇的な発見ではなくても、小さな発見の積み重ねも大切です。少しずつ囚われから解放されてゆくことで、ゆっくりと自分が変化してゆくことでしょう。

 注意しなければならないのは、精神分析の理論に囚われすぎないことです。たとえば、男性の場合ですと、母親への性的な願望から父親を亡き者にしてしまいたいという願望、いわゆるエディプスコンプレックスという理論がありますが、自分を無理やりその枠に当てはめて考えることで、それ以外の重要な問題を見過ごしてしまうことがあります。たしかに基本的な理論の枠組みは大切ですが、それに囚われ過ぎて、観念的になってしまってはいけません。理論を振り回す人に「知性への逃避」傾向を見ることがよくあります。やたらに難しい言葉を並べるのですが、果たしてこの人は本質的なことをどこまで理解しているのだろうかと、疑問に思ったりします。感情や体験の裏付けのない言葉は虚しいものです。

 自己分析を進めてゆく上での危険性についても触れておきます。抑圧されていた感情を発見したのはいいのですが、その発見した感情を自分で取り扱いかねて、精神的にボロボロになってしまうことがあるということです。実は私はこういったボロボロ体験も経験しています。人間関係も仕事もなにもありません。全てがダメになってしまいます。完全な人生の行き止まりです。もうこうなったら病院に行くしかありません。治療場面でも、一見軽症に見える人が、治療を進めてゆくにしたがって抑圧されていたものが一気に噴き出して来て、ボロボロになるとこがよくあるようです。ですから、自分は軽症だと思っていても、何が起こるかわかりません。みなさんに自己分析を勧めておきながらこんなことを言うのもなんですが、このような危険性を承知のうえで、自分の責任において自己分析をやってください。私は結果については一切責任を持ちません。(^^;

 とは言っても、防衛機制が働きますから、ボロボロになるためには、それなりの自己洞察が必要になります。もし、ボロボロになるのが心配な人はセラピストから治療を受けた方がいいでしょう。精神療法にはいろいろなものがありますが、境界例の治療に最低限必要なことは、第一に、セラピストが、境界例という診断名が存在することを知っていること。信じられないかもしれませんが、「境界例? なんですかぁそれ」なんていうセラピストも結構いるのです。第二に、境界例のメカニズムと治療法を知っていること。第三に精神分析の知識を持っていること。境界例の概念そのものが精神分析の現場から出てきたものであり、ずっとこの分野で治療法が研究されてきたためです。そして、患者の行動の背後にある心理を洞察してゆくためには精神分析の知識がどうしても必要となるからです。患者の背後にあるものを分析して直面化させてゆくしか、根本的な治療はありません。

 この三つの条件を満たしているセラピストに出会うことは、特に地方に住んでいる人にとっては難しいことでしょう。適当なところで妥協せざるを得ないかもしれません。日本には薬物療法「しか」知らないセラピストがたくさんいますから、失望することの方が多いかもしれません。詳しいことは「医療とサポート」の所に書きます。

 最後に、自己分析は時間がかかります。セラピストから治療を受けていても何年もかかったりします。それを自分の力でやろうとするのですから、当然それ以上の時間がかかることを覚悟していた方がいいでしょう。自分で自分を治そうというのですから、迷路に入り込むこともよくありますし、途中で自己分析を投げ出してしまう人もいるでしょう。ある程度の改善があったとしても、本質的な解決がまったく得られないこともあるでしょう。ときには、何のために生きているのかわからなくなったりすることもあるでしょう。私も「いったい、いつになったら解決するのか」と、絶望的な気持ちになったことがたびたびあります。しかし、何もしないよりは、何かやった方が有効である――と思います。前進したり、後戻りしたりの繰返しですが、全体としては少しずつ良くなっていきます。



【考え方の違いについて】
 精神分析にはいくつかの学派があり、それぞれ考え方に違いがあります。精神療法についても、さまざまな療法があり、それぞれの考え方が「まったく」異なっていたりします。したがって、上記の私の説明に異論を持たれる方も当然いると思われます。私の考え方が必ずしも正しいというわけではありません。もし、私の考え方に疑問を持たれたなら、ご自分でいろいろな本を読み、「自分の考え方」を持たれることをお勧めします。