as if 状態と境界例感
かのようなパーソナリティ ( as if personality ) について
2002年01月08日 ver1.0 これは境界例の特徴の一つなのですが、あたかも正常であるかのように見える事を言います。つまり、正常そのものなのではなくて、正常である「かのように」見えるところが、ミソなのです。境界例の人には、いろいろなパターンがあって、鬱状態が強かったり、やつれ果てていたりして、ひと目で問題を抱えているのが分かるような人もいますが、そうでない人の場合には、まるで何も問題がないかのように見えることが多いのです。このような as if(アズ・イフ)状態というのは、ちょっとしたことがきっかけでバランスが崩れてしまい、キレて暴れたり、悪態をついたり、かと思うと急に泣き出したり、手首を切ったり、あるいは突然自殺未遂をしたりするのです。しかし、このような混乱状態はずっと続いているわけではないのです。感情の嵐が通り過ぎれば、再び何も問題がないかのように振る舞ったりするのです。ですので、境界例の人が入院したときに、「この人、本当に病気なの?」と言いたくなるくらい正常に見えたりすることがよくあるのです。 このような as if 状態がさらに高度に発達しますと、いわゆる高機能型境界例と呼ばれるようなタイプになります。これは、高度な適応能力を持っている人たちでして、まったく正常な人として社会に溶け込んでいるのです。そして、社会人としての役割を担い、社会人としての責任感も持って生きているのです。しかし、その一方で境界例としての一面も持っていて、強いストレスにさらされた時や、ある種の特定の状況にさらされた時などに、突然、境界例的な混乱状態が発生して、破滅的な行動を取ってしまうのです。 このような、 as if 状態というのは、アメリカの精神科医で、ドイチュ(H.Deutsch)という人が、 as if パーソナリティという概念を提唱したことに由来しています。 この as if パーソナリティというのは、境界例と深い関係にあるのですが、境界例の人は自分というものが確立していないために、その時々の状況に合わせて、仮の自分を演ずるということなのです。これは、あくまでも仮の自分でしかありませんので、どうしても不安定なものになってしまうのです。そして、仮の自分が維持できなくなると、突然感情の嵐が吹き荒れたりするのです。 しかし、境界例の人は、常に感情が荒れ狂っているわけではないのです。嵐が収まれば、とりあえずは普通であるかのように振る舞うこともできるのです。境界例の人は、たしかに精神的に混沌とした一面はありますが、正常な判断力も持ち合わせているのです。そして、自分が何を演ずべきなのかということも理解できますし、ある程度であれば、その役割を表面的に演ずることも出来るのです。この状態を、他の人が見ると、あたかも正常で「あるかのように」見えるのです。 正常であるかのように見えるとは言っても、見る人が見れば、なんとなくピンと来るものがあるのです。これは、精神科医の森省二氏が、精神分裂病で使われている「プレコックス感」というものにちなんで、「境界例感」という表現を提唱しています。プレコックス感というのは、分裂病の人と会ったときに、自分の心に誘発される、ある種の独特の感情のこと言いまして、分裂病の診断をするときの参考にされるのですが、境界例の人と接したときにも、同じように境界例特有の雰囲気を感じることがあるのです。これを、森省二氏が境界例感と名付けたのです。 この境界例感を、私流の言葉で表現してみますと、境界例の人には、いわゆる根無し草というか、糸の切れた凧というか、そういった、どこか漂うような雰囲気があるように思います。表面的には明るく見えても、どこかしら影が薄いようなところがあったり、あるいは、傷つきやすさや、ガラスのような壊れやすさを漂わせていたりするのです。表面的には普通の人のように見えたとしても、少し話をしてみますと、話の内容が、どこか地に足が着いていないようなところがあったり、あるいは自分と他人の境界が曖昧だったりして、侵入的な言動を取ったりしますので、それで、この人も境界例なんじゃなかろうか、と直感的に感じたりするのです。 このような as if 状態とか、境界例感とかいうのは、あくまでも境界例の人を外側から観察したときに言えることなのですが、では、境界例の人を、内側から見たらどんな風になるのかについても書いてみたいと思います。 私たちは、自分がいったい何者なのか分からなくなることが時々あります。ふと「私は、なぜここにいるのだろうか」とか、「こんな所で、いったい何をしているのだろうか」という疑問がわいてきて、今まったく場違いなところにいるように感じたりするのです。そして、急に「帰りたい!」と思ったりするのですが、いったいどこへ帰ったらいいのか、まったく分かりません。そして突然パニックになって、「誰か、助けてくれー!」と叫びたくなったりするのです。しかし、叫べば叫ぶほど、声は暗闇の中に吸い込まれていって、まるで自分が暗黒の谷底へとすべり落ちて行くような絶望感に襲われたりするのです。 あるいは、心の底に広がっている果てしない虚しさや空虚感が、いっこうに解消しないことに苛立ってきて、本当の自分になりたいと思うのですが、本当の自分とはいったいなんなのか、さっぱり分かりません。「私はいったい何者なのか」「私はこれからどこへ行こうとしているのか」と、自分に問いかけてみても、心の中を風が吹き抜けて行くだけなのです。そこで、まわりの人に八つ当たりして、大声を上げて悪態をついたりしてみても、なんの答えも出てこないのです。 こうやって、泣いたり叫んだりしていると、やがて疲れてしまうのです。そうすると、いつの間にか自分の顔が、普通の顔に戻るのです。普通の顔をしていれば、世間の人は、あたかも普通の人であるかのように接してくれるのです。世間の人が、普通の人として接して来るのであれば、とりあえず、相手に合わせて、相手の望むような普通の人としての反応をしておくのです。ここで場違いな暗い話をしても、どうせ理解してもらえないでしょうし、変な話をして見捨てられてしまうのもいやことです。そこで、とりあえず相手に合わせておくのです。このようにして、 as if パーソナリティというものができあがるのです。でも、こんなことをしていると、やがて精神的に窒息しそうになってきて、それが臨界点に達したときに、再び爆発するのです。 いろいろと問題はあるにしても、とりあえずまわりの人たちに合わせていれば、自分をごまかすことができます。その場、その場でいい子を演じて、他人が吹く笛の音に合わせて踊っていれば、心の中の暗黒の世界を覗かなくて済むのです。自分を見つめるなどという、そんな陰気くさいことをするよりは、耐え難い空虚感には目をつむって、相手に合わせて、何も考えずに気楽に踊っていた方がいいのです。 しかし、ときには自分がどんな仮面をかぶったらいいのか分からなくなることもあります。そんなときには、みさかいもなく、まわりの人に同調していって、その人と同じようになろうとしたりします。これは自分というものが無いために、とりあえず目の前にいる人と同じになることで、心の空白を埋めようとするのです。こうなると、周囲の状況に応じて、まるでカメレオンのように、自分というものがめまぐるしく変わってゆくことになります。なんの一貫性もないまま、ただ、その時々の状況に自分を合わせているだけなのです。 その時の状況に合わせて、仮の自分を演じるということは、本人にとっては、セルフイメージがコロコロと変わるということでもあります。その時その時で、自分が優秀な人間に思えたり、あるいは出来そこないのように思えたりするのです。そして、それだけではなくて、今の自分は本当の自分ではないというような感覚や、いつも場違いなところにいるような感覚につきまとわれることになるのです。空虚感に目をつむって、気楽に踊っていられるうちはいいのですが、そのうちに突然足もとが崩れて、自分がなんなのか、さっぱり分からなくなってしまい、虚無の谷底へと落下してしまいそうな恐怖感を抱くこともあります。これは、私も時々夢に見たことなのですが、本当に足もとが崩れて、足の下に何もなくなってしまって、暗闇の中へ落下してしまう夢を見るのです。そして、恐怖感で、思わず叫び声をあげながら目が覚めてしまうのです。これは、自分が立っている足もと、つまり精神的な拠り所が突然なくなってしまうという恐怖感であり、自分の存在がまったく無意味なものになってしまうことへ恐れなのです。このような恐怖感への反動として、自分に完全性を求めるようになったりすることもあります。正常な人間という仮面を、完全に演じようとするのです。そして、絶対にボロが出ないようにと、必死になって自分を取り繕うのですが、時々、自分でも手に負えなくなってしまい、境界例的な混乱が発生したりするのです。 境界例の人は、時として、今被っている仮面が自分に合わなくなったと感じて、新しい仮面を求めて、自ら行動に出ることもあります。ちょうどパソコンのリセットボタンを押すように、今の人間関係をすべてご破算にして、もう一度最初からやり直そうとするのです。たとえば、仕事を頻繁に変えて、人間関係を何度もリセットしてみたり、さまざまな職種を体験することで、そのつど新しい仮面を被ってみたりするのです。あるいは、宗教団体に入ってみたり、なにかの講習を受けてみたり、どこかのサークルに加入してみたりするのですが、どの仮面も自分には合わないのです。そして、果てしない自分探しが、いつまでも続くことになるのです。 相手に合わせて仮の自分を演じているときには、表面的な人間関係しか作ることが出来ないとかいった、本物の自分ではないがゆえに、さまざまな問題を抱えることになります。しかし、仮の自分を演ずるということは、別の視点から言えば、これは自分を助けることでもあるのです。仮の自分を演じていれば、たとえそれが不安定なものであったとしても、ある程度は社会に適応することができるからです。ですので、さまざまな苦労はするものの、それでもなんとか生活していけるのです。さらに、高機能型の境界例になりますと、社会的な地位を獲得して、高収入な生活ができたりもするのです。 このような as if 状態というのは、境界例と深い関係にありますので、問題の解決としては、境界例の症状が改善して行くのを待たなければなりません。時間はかかるとは思いますが、心に潜んでいる見捨てられ感などを解消して、分離─個体化を達成していくことで、少しずつ仮の自分から、本当の自分へと移行していくことになるのです。 【関連ページ】 社会的に自立できなかった原因 --- 回復のための方法論 > 私の分析体験6 【参考文献】
「青年期境界例」 清水将之・森省二 金原出版 1984年4月30日 \1,500- I Hate You - Don't Leave Me Understanding the Borderline Personality Jerold Jay Kriesman,M.D., and Hal Straus February 1991 $5.99 精神医学事典 弘文堂 |