私の分析体験 6 社会的に自立できなかった原因
2003年01月13日 ver1.0今回の内容は、新年の挨拶をしているときに、ふと過去のある体験が現在とだぶっていることに気付きまして、いわゆる「ああ、そうだったのか体験」をしたのですが、それを詳しく分析していきましたら、意外な広がりを見せていって、やがて私が社会的に自立できなかった原因はこれだったのだということが分かりましたので、そのいきさつについて、順を追って書いてみたいと思います。 今年最初の仕事の日に、まず事務所で新年の挨拶をしまして、それから事務所を出て駐車場に向かったのですが、その途中で、取引先の社長さんと出くわしまして、お互いに立ち止まって、かしこまった感じで新年の挨拶をしたのです。まあ、これ自体はごく普通の挨拶だったのですが、その社長さんとすれ違った後で、歩きながら、「どうも、こういうのは苦手だな」などと考えていたのです。私はどういうわけか、こういう儀式ばった行為が苦手なのです。何となくぎこちなくなって、居心地が悪いような、誰かにそばにいてもらいたいような、そんな感じになるのです。人の後にくっついて行く分にはどうという事はないのに、自分一人でこういう儀礼的な行動をとるのは、やはり苦手なのです。では、なぜ一人のときはぎこちなくなるのだろうかと考えていると、ふと、幼いころの体験を思い出したのです。そして、「そういえば、このぎこちない感覚は、あのときの、あの感覚と同じだ」ということが、突然、頭の中でひらめいたのです。 それは、靴屋さんでの体験でした。私が何歳のころだったのか分かりませんが、幼い私は店の奥で、母と並んで椅子に座っていたのです。母と靴屋の奥さんが、そこで世間話をしていたのですが、私が二人の話に加わって、何かをしゃべったときでした。背後から母の手がすっと伸びてきて、いきなり私のお尻をつねったのです。私が何を言ったのかはまったく覚えていませんが、おそらく何かまずいことを言ったのでしょう。母を見ると、大げさに笑いながら、私の言ったことを、必死になって取りつくろっているのでした。この時の私の戸惑いと困惑は、はるかな時空を越えて、たった今、新年の挨拶をしたときの、このぎこちない感覚と、ピッタリ一致していることに気付いたのです。そして、幼いころの靴屋さんでの体験を、たった今、そのまま繰り返したのだということに気付いたのです。いや、新年の挨拶だけではなくて、人生のあらゆる場面で、母の手が背後から伸びてきて、不意にお尻をつねられるという、「あの感覚」を、幾度となく繰り返して来たことに気付いたのです。しかし、ただ「あの感覚」というだけでは自己分析になりませんので、あのときの、「あの感覚」を、出来るだけ言語化して、言葉で表現してみようと思ったのです。 その後、数日かけて、「あの感覚」を分析してみましたところ、そこには、いくつもの意味が含まれていることが分かったのです。まず、「あの感覚」には驚きの意味が含まれています。私が安心して大人の会話に加わっているときに、母親から、不意にお尻をつねるという形で警告が発せられたのです。しかも、私には何がいけなかったのか理解できなかったのですが、ひどい失敗をしてしまったという脅えがあるのです。そして、「なんで裏でコソコソしなければならないのか」という不快感もあります。私がまずいことを言ったのなら、正々堂々とそれを指摘すればいいのに、世間体を取りつくろうかのように、背後から手を伸ばして来るのです。こういう、セコイやり方に対する不快感があるのです。しかし、どういうわけか、これとは反対に、母と裏側で繋がっているという、妙な一体感もあるのです。人から見えないところで、母が秘密の合図を送ってくるので、二人だけで秘密を共有しているような、共犯者的な一体感があるのです。実は、ほかにも似たような体験がいくつかあって、家にお客さんが来て、私も一緒に話をしていると、不意にテーブルの下でつま先を踏まれたり、あるいは不意にテーブルの下からハエ叩きのようなもので、膝をつつかれたりしたような記憶が、断片的に残っているのです。こうやって、私がまずいことを言ったりしたときに、母が秘密の合図を送ってくるのです。母の性格は、何よりも世間体を気にする人ですので、母が過剰に反応したのか、あるいは私があまりにも逸脱したことを口にしたからなのか、そのどちらかなんでしょうが、いずれにせよ、こうやって世間の人から見えないところで繋がっているという感覚や、裏側でコソコソやって、二人が繋がっているという感覚があったのです。そして、これは、お客さんが来たときなどの、家族以外の第三者の人を交えたときに発生することなのです。これはどう言うことなのでしょうか。 幼い子供にとって、第三者と接する場面というのは、社会的な自立の場でもあるのです。見知らぬ人が顔を近付けてきて、「ボク、いくつ?」とか、「名前は、なんていうの?」とか聞かれたときに、自分で答えることが社会的な自立に繋がるのです。親の方も子供に、名前や年齢を自分で言うように促します。あるいは、「ほら、コンニチワって言いなさい。ほら、よそ見しないで、ほら、おじさんの方を向いて、ほら、コンニチワ、って言うのよ」というふうに、人前で取るべき行動を指示するのです。これが子供にとっての「社会化」の第一歩であり、親から離れて、社会的に自立していく第一歩なのです。そして、第三者を交えた「社会」の場で、自分がどういう風に振る舞ったらいいのかという、自分の演ずべき、より高度な役割を学んでいくのです。 私も、社会化の初歩的な段階はクリアしたのでしょう。よく近所の肉屋に使いに行かされていましたから、こういうことは出来るようになったのでしょう。しかし、親と一緒に親戚の家に行ったときや、家に来客があったときなどに問題が発生するのです。つまり、親がいると、第三者の前でどう振る舞ったらいいのか分からなくなるのです。意味も分からないままに、不意につねられたりする体験が重なると、やがて私は脅えてしまって、人前でどういう役を演じたらいいのかが分からなくなってしまうのです。そして、行動がぎこちなくなってしまうのです。やがて、私は主体的な行動を控えるようになっていって、社会的な場面では、母に依存するようになっていったのです。こんな状態でしたから、成長するに従って、徐々に社会的な場面を回避するようになっていって、その結果、社会性を学習する機会を失っていったのです。 私は、いままで、儀礼的な場面でぎこちなくなるのは、ただ単に社会性を学習できなかったからなのだ思っていたのです。そして、自己分析だけでは社会性の問題は解決できないのかも知れないと思っていたのです。しかし、それは間違いだったのです。学習の欠如だけではなかったのです。あの日の、「あの感覚」が、社会性の学習を妨げ、社会への参加を妨げていたのです。 そして、私はずっと社会的な場面で失敗を重ねてきました。背後から母の手が伸びてきて、不意につねられるのではないかという不安が、社会的な役割を演ずる事への不安となって、人前で一人前の人間を演じることに失敗してしまうのです。こうして、私は失敗することで問題を解決しようとしてきたのです。そして、社会的に自立せずに、失敗を重ねることで、裏で母と繋がっているような、歪んだ一体感を得ようとしていたのです。 そして、私の依存心の問題も、ここに原因があるのです。ある状況になると、どういうわけか、身を引いてしまって、人にやってもらおうとするのです。自分で出来るのに、他人に依存してしまって、人にそれをやってもらおうとするのです。これも、母につねられるのではないかという脅えから、自分でやらないで、母に全部まかせようとする心理が働いているからなのです。 あの感覚が、だいたいわかってくると、私は自分自身に向かって、こう言いました。私はもう大人なんだ。もう、私のお尻をつねる人は誰もいないんだ。膝をハエ叩きでつつく人もいないんだ。私は自由なんだ。もう、脅えなくてもいいんだ。自分の意志で、自由に行動してもいいんだ。もう、裏で繋がっていなくてもいいんだ。もう、あんな歪んだ密着なんて必要ないんだ。私は、自由に行動していいんだ。と、こんなふうに自分に語りかけてみましたら、急に、とめどもなく涙があふれてきて、思わず声を上げて泣いてしまったのです。 こうやって延々と泣いて、やがて泣き疲れて、涙が出なくなった目をこすりながら自分の過去を振り返ってみますと、私自身の境界例的な問題というのは、結局は、「あの感覚」に支配されていたことが原因だったわけで、あまりにもあっけないような、拍子抜けしたような気持ちになりました。 振り返ってみれば、お尻をつねられた時の、あの感覚に、その後もずっと縛られてきたのです。ホームページに、「自分への語りかけ」という詩のような、散文のような文章を書いたのは、自分の感性にしたがって書いたのですが、その背後には、実はこういう心理的なメカニズムが潜んでいたんだということが、今になって分かったのです。 > 幼いころに間違った考えを刷り込まれたお前は、 という文章を書いたのは、まさに「あの感覚」のことだったのです。この文章は、ずっと「あの感覚」に支配されていた、私自身のことだったのです。 そして、境界例の原因とされている、子供の自立を妨害する親というのは、私の場合には、まさに「あの感覚」を植え付けた親のことだったのです。おそらく、親の方にも、社会的な場面で子供に自立してもらいたくないような、子離れの不安とでもいうような、そんな心理状態があって、知らぬ間に子供を間違った方向に誘導してしまったのでしょう。そして、母親自身も、テーブルの下で私をつついて世間体を取りつくろいながら、裏で子供と繋がっているような、妙な一体感の感覚を持っていたのでしょう。私の記憶に残っているのは、靴屋さんでつねられたことなどの、断片的なものでしかありませんが、おそらくほかにも似たような体験がたくさんあったのではないかと思います。そういう記憶にも残らないような、ささいな出来事が幾重にも積み重なっていって、やがて刷り込みが定着していったのでしょう。 こうやって、私は人前で何者かになることが出来なくなっていったのです。私はいったい誰なのか、何者なのか、社会的にどんな役割を受け持っているのか、さっぱり分からなくなってしまったのです。これは、不意にお尻をつねられときの、その混乱した心理状態そのものだったのです。そして、ホームページの「as if 状態と境界例感」のところに書いた、「かのようなパーソナリティ」そのものだったのです。その混乱の原因は、意外にも、こんなところにあったのです。 私は、社会的な場面で、自分の演ずべきモデルを見いだせないまま、徐々にそういう場面を回避するようになっていって、やがて私は社会に背を向けて生きるようになったのです。ホームページの「夢分析」のコーナーに書いた、「バスケットボールの夢」の意味が、まさにこれだったのです。社会的に評価されることを拒否して、歪んだ自己愛の世界に入り込んだのは、今になって思えば、背後に「あの感覚」があったからなのです。あの夢を分析した、最後のところで、 > 私はいま、臆病なヤドカリのように、 と、書きましたが、今になって振り返ってみれば、社会的な評価というゴールに向かってシュートするときの、あの不安や脅えというのは、実は靴屋さんで不意にお尻をつねられたときの「あの感覚」のことだったのです。不意にお尻をつねられるのではないかという、あの不安や、脅えのことだったのです。 私は、今までこういう不安や脅えを回避するために、社会的な自立に失敗するという方法を使ってきました。もう隣に母がいるわけでもないのに、社会的な場面では、自ら失敗をすることで、不安や脅えを回避してきたのです。つまり、社会的な自立がうまく行きそうな場面になると、みょうな居心地の悪さを感じて、どういうわけか失敗をやらかして駄目にしてしまうのです。これも、「不成功防衛」のところに書いた内容そのものなのです。こういう失敗の原因というのは、結局は、あのときの「あの感覚」であり、あのときの、あの居心地の悪さだったのです。こうやって私は、一人前の人間になることを回避し続けてきたのです。 こうやって振り返ってみますと、今までのいろんな事が「あの感覚」に繋がっていきますが、これは、幼いころの、育児の方向付けが、ちょっとだけズレてしまっただけのことなのです。そのズレが、途中で修正されることもなく、どんどん拡大していって、やがて手に負えないような深刻な問題になってしまったのです。そして、私は、暗黒の嵐の中を、あてもなくさまようようになったのです。しかし、タマネギの皮を一枚ずつむくようにして、心の謎をひとつずつ解いていったら、最後には、「なんだ、こんなことだったのか」という、実にあっけないような、拍子抜けしてしまうような、単純な原因が出てきたのです。 いや、まだ、これで終わりというわけではありません。「あの感覚」だけでは解決できない問題もまだ残っていますので、これからも意外な展開があるかも知れません。でも、人間の心って、本当に面白いものですね。ひと山越えるたびに、そう思います。 追記 1 ------- 追記 2 ------- 【関連ページ】
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