私の分析体験 5 出かけるときの確認強迫
2001/10/10 ver1.0数年前の、ある日の朝ことでした。会社に出勤するために、いつものようにバタバタと身支度をして、あわただしくマンションを出たのですが、二、三十メートルくらい行ったところで、ふと玄関の鍵をかけ忘れたような気がして、もし泥棒に入られたら大変だと思って、すぐに引き返して、玄関のドアノブを手で引いてみて、鍵がかかっていることを確認したのです。その時、ふとガスの元栓のことも心配になってきて、ドアを開けて中に入ると、ガスの元栓が閉まっていることを確認しました。そして、再び急いで出かけたのですが、またもやマンションを出て少し行くと、ふと電気毛布のスイッチのことが気になってきたのです。スイッチは切ったような気もしましたが、あまり自信がありませんでした。もし、切り忘れていたら、そして、もしも火事になったらと思うと、いたたまれないような気持ちになってきて、再び引き返したのです。走って階段を上がって行って、部屋に飛び込むと、スイッチの状態を確認して、すぐに部屋を出たのです。しかし、マンションを出て二、三十メートルくらい行くと、たった今玄関の鍵をかけてきただろうかという事が気になってきたのです。あわてていたせいか、どうも記憶が曖昧です。そして、もしも泥棒にでも入られたら大変だという思いが募ってきて、やむなく引き返すことにしました。玄関まで戻ってきて、鍵がかかっていることを確認すると、走って階段を降りて行きました。こんな事をしていると、会社に遅刻してしまいそうです。私はマンションを出ると、駅の方に走って行ったのですが、またもや二、三十メートルくらい行くと、今度はガスの元栓のことが気になってきたのです。さっっき確認したはずなのですが、もしかして、あわてていたので見間違えたのかもしれないと思えてきたのです。そして、記憶をたどってみても、たしかに元栓が閉まっていたという自信が持てないのです。そして、もしもガス漏れ事故でも起きたらと思うと、もういたたまれなくなってしまいました。そこで私は、やむなくUターンして、またもやバタバタとマンションの階段を駆け登って行って、部屋に飛び込んでガスの元栓を確認すると、再び駅に向かって走っていったのです。しかし、二、三十メートルくらい行くと、いま鍵をかけてきたのかどうか、自信が持てなくなってきたのです。もしかしたら、鍵をかけ忘れた可能性があるのです。しかし、記憶をたどってみても、鍵をかけたという確信が持てません。それと同時に、こんなバカげたことを繰り返している自分が、情けなくなってきました。何回も、マンションから出たり入ったりを繰り返していますので、近所の人から変な目で見られているかもしれません。しかし、泥棒に入られたらと思うと、もういたたまれなくなってくるのです。しかし、私は会社に行かなければなりません。そして、私は、行くべきか、戻るべきかの葛藤に苦しみながら、やむなく部屋に戻って確認することにしたのです。そして、全力疾走で階段を駆け登って行って、鍵を確認すると、再び駅に向かって走ったのです。しかし、またもや二、三十メートルくらい行くと、今度は電気毛布のスイッチのことが気になってきて……。 こんな風に、行ったり来たりを、全部で七、八回くらい繰り返したのです。その間中、息を切らしながら走っていたのですが、もう遅刻は確実ですし、このままではいつまでたっても会社に行けません。ですので、最後には、もしも火事になったとしても、泥棒に入られたとしても、もうどうにでもなれと思って、後ろ髪を引かれるような切ない思いを振り切って、なんとか駅に向かって走って行ったのです。そして、電車に飛び乗って吊革につかまると、荒い息を整えながら、いったい私に何が起こったのだろうかと思いました。たしかに、以前にも、戻って鍵を確認したりすることはありました。出かけるときの確認には少し神経質になっていた事もあったのですが、それでも、行ったり来たりは、一回か二回くらいでしかなかったのです。七回も、八回も行ったり来たりするというのは、明らかに異常です。ですので、この問題は、後でじっくりと原因を考えてみなければならないと思ったのです。 夕方、帰宅すると、机の上にノートを広げて、この問題に精神を集中してみました。そして、なぜ何回も確認のために戻るのかと考えたとき、ふと、精神分析でよく言われていることが思い浮んだのです。それは、その場を去りたくないときに、人は何かをそこに忘れることがある、ということです。去りたくないという願望が、無意識的に忘れ物をしてしまい、それを取りに戻るという形で、そこに留まっていたいという願望が表現されることがあるのです。そこで、ひょっとしたら、私の場合も、もしかしたら出かけたくないという、そういう無意識的な願望があるのではないかと思ったのです。そして、そういう視点から自分を見つめてみますと、まさにその通りの、思い当たるものがあったのです。そこで私はどうしたのかと言いますと、「会社になんか行きたくないー」と叫んで、無意識の願望を発散させてみたのです。次の日の朝も、支度をしながら、意識的にブツブツと愚痴をこぼしてみたのです。顔を洗うときや、靴下を履くときに、「あーあ、会社なんか行きたくないなぁ」とつぶやいてみたり、ネクタイを締めるときに、「家でのんびりしていたいなぁ。でも、仕事だからしょうがないよな」とつぶやいてみたりしたのです。そして、これで確認強迫はピタリと治まって、何の問題もなく出かけることができたのです。 とは言っても、やはり精神的に不安定な状態の時には、確認に戻ることもありました。しかしこれは、一回か、二回くらいであって、正常な範囲内のものでした。そして、確認に戻ったりするようなときには、ああ、今日も会社に行きたくないんだなと思って、心の中でブツブツと愚痴をつぶやけばいいのです。 その後も、玄関を出るときに自分の心の動きを観察していますと、実に面白いことが分かってきたのです。それは、精神的に不安定な時というのは、確認をしている、まさにその時に、どういうわけか自動的に集中力が低下してしまうということです。確認をするときには、駅員が指差し点呼をするのを真似て、たとえばガスの元栓を指差しながら、「ガスの元栓、よーし」と言ってみたりしていたのです。しかし、精神的に不安定な時というのは、「ガスの元栓、よーし」と言っている、まさにその時に、どういうわけか雑念がわいてくるのです。上の空とまではいかなくても、それに近いような状態になるのです。ですから、玄関を出てから、「あれ。ガスの元栓は閉めたっけ」と、記憶をたどってみても、何も浮かんでこないのです。そして、もしもガスが漏れたらどうなるだろうかという、そういう破局的な想像が急激に膨らんできて、もう戻らざるを得なくなってしまうのです。このようにして、会社に行きたくないという願望によって、いま書いたような一連の流れが、無意識の世界ですべて自動的に行われるのです。これとは反対に、精神的に安定して落ち着いている時というのは、いちいち大げさな確認行動を行わなくても、スッ、と頭の中に入っていくのです。そして、何の問題もなく、すんなりと出かけることができるのです。 その後、さらに分かったことは、無意識の世界に潜んでいるのは、ただ単に会社に行きたくないという願望だけではなくて、その背後には、分離不安が潜んでいたということです。なぜ玄関を出るときに後ろ髪を引かれるような思いがするのかというと、体が玄関から外に出ても、心がまだ「部屋」の中に残っているからなのです。そして、この「部屋」というのが、私にとっては、胎内を意味していることに気づいたのです。以前にも書いたことがあるのですが、私には子宮の中に戻りたいと、真剣にそう思ったことがありました。この願望が、確認強迫の背後に潜んでいたのです。私にとっては、部屋の中に閉じこもっているということは、部屋という子宮の中で、電話線という臍の緒を通じて、ネットの世界という母胎とつながっていることを意味していたのです。そして、朝、仕事に出かけるということは、子宮の中から外に出る事を意味していたのです。これは夜中にコンビニへ弁当を買いに行くのとは、意味がまったく違うのです。仕事に行くということは、社会に向かって出て行くという事であり、心理的にこの世に生まれ出て自立するということだったのです。ですから、玄関を出るときに、子宮から出て心理的に自立しなければならないことへの不安感に襲われる事になったのです。 今から振り返ってみますと、私の最初の自己分析は、すこし不十分なのものでした。おそらく、あの日に突然症状が出たという事は、何かきっかけとなるような、もっと具体的な出来事がその日にあったのではないかと思うのです。たとえば仕事上のトラブルとか、なにか会社に行くのがいやになるような具体的な何かがあって、さらにその上に分離不安が重層的に重なってきて、それが確認強迫の症状となって出てきたのではないかと思うのです。しかし、今となっては、その具体的なきっかけが何だったのかは、もう分からなくなってしまいました。 このようにして私は、抑圧された願望が症状を作るという、精神分析の理論そのものを体験したわけです。以前に書いた、慢性疲労の時には、弟に対する屈折した感情が原因だということが分かった時に、あっという間に鉛のようなだるさが取れたのです。しかし、このときには、なぜ屈折した感情が体のだるさという形で現れるのかという、その原因と症状の因果関係がよく理解できませんでした。しかし今回は、抑圧された願望と確認強迫という症状とのつながりがよく理解できたのです。 精神分析的な視点から、もう少し整理してみますと、症状が出るためには、まず最初に願望が抑圧されなければならないのです。当時の私は、時間に追われながら、書類を抱えて都内を走り回っていましたし、私の売り上げも伸びていましたので、自分では張り切っていたつもりだったのです。しかし、もう一人の自分が、もうこんなのはイヤだと心の奥で叫んでいたのでしょう。しかし、張り切っているつもりの私としては、こんな怠け者の自分を、絶対に受け入れることができなかったのです。そして、そういう願望が意識レベルに登ってこないようにしていたのです。このようにして無意識の世界に追いやられた願望は、出口を求めて、症状を作り出したのです。ですから、問題を解決するためには、まずそういった抑圧された願望を、意識のレベルで知ることが必要になってくるのです。そして、その次に抑圧された願望を解放してやることが必要となってくるのです。ということは、つまり、最初から願望が抑圧されことなく、あるがままに解放されていれば、そもそもこんな症状は発生しないのです。しかし、人によっては、受け入れがたいような願望に直面すると抑圧が働いて、そういうものを無意識の世界へと追いやってしまうのです。そして、心の中の臭い物には、フタがされてしまうのです。 このような抑圧された願望を探し出すために、精神分析的な手法があるわけですが、このようなやり方で強迫性障害を分析していきますと、一見症状とは関係のないような、まったく意外な願望が出てきたりして、まるでパズルを解くような面白さがあるのです。たとえば、手洗い強迫などでは、意外なことに性的な願望が出てきたりするのです。しかし、精神分析的なアプローチで、すべての強迫性障害が解決するのかというと、現実的には少し難しい面もあるのです。この点について、私のほかの強迫体験を例にして、少し説明してみたいと思います。 あれは、うつ状態から回復したころのことでした。うっとうしい気分を追い払うひとつの方法として、私は無差別殺人の空想に耽っていたことがあったのです。武装した装甲車に乗って、私が群衆に向かって機関銃を乱射するのです。片っ端から無差別に人を殺してゆくという、その快感が、うっとうしい気分を解放してくれたのです。つまり、この空想というのは、当然のことなのですが、私の心の奥に、そういう無差別殺人の願望が潜んでいるということなのです。このような危険な願望というのは、空想の中で発散しているだけならいいのですが、現実の世界で実行するとなると、きわめて危険な状態になってしまいます。ですので、日常の生活をしていくためには、このような願望は、当然のことながらしっかりと抑圧されなければならないのです。しかし、この抑圧によって、いろいろな強迫的な症状が出てくることになるのです。たとえば、人とすれ違ったりするときに、突然その人を殴りたい衝動に駆られたりして、自分でもびっくりすることが時々ありましたし、あるいは、しゃがんで仕事をしている人のそばを通ると、突然、その人をサッカーボールのように蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られて、自分が怖くなったりしたこともありました。手に金槌などを持っている時などは、必死になって金槌で殴りつけたくなる衝動を抑えなければなりませんでした。このような衝動というのは、自分の意志とはまったく無関係に、突然現れたりするのです。 このような突発的な衝動のほかにも、妙な強迫観念にとらわれたりもしました。それは、人を紹介するときに、「こちらの方が、○○さんです」という風に、私がその人の名前を言って、相手の人に紹介するのですが、その時に、名前を言い間違えてしまうのではないかという不安感に襲われるのです。もしも、名前を言い間違えてしまったら、その人に対してとても失礼なことになると思って、絶対に間違えないようにと、異常なくらいに神経を使っていたのです。まず前もって頭の中で何回もリハーサルをして、いざその場になると、今度は不自然にならないようにと、必死になって気を使って自然な雰囲気で人を紹介しようとしていたのです。普通の人が見れば、何でもないような日常のひとコマなのですが、私にとっては、かなりのストレスだったのです。 なぜこのような、ことが起こるのかと言いますと、抑圧された危険な願望が、症状を引き起こしているからなのです。そして、この願望というのは、殺人願望であり、すさまじい憎しみであり、すさまじい怒りなのです。このような危険な願望は、なんとしてでも抑圧されなければならないのです。もしも、金槌で人を殴ってしまったら、もう相手に対して失礼になるどころではないからです。 このような、抑圧された激しい感情は、そのほかにもいろいろな症状を招きます。たとえば、突然パニック発作が起きたり、人と視線を合わせた時に、私の険悪な感情が出てきそうになって、視線を合わせるのが怖くなったり、あるいは眉間に強い緊張が出てきて、ひどく人相が悪くなってしまい、そんなときに鏡を見ますと、まるで犯罪者のような顔付きになっていたりします。あるいは、唇の周りが緊張でこわばってきて、何かに噛みつきたいような衝動に駆られたりする事もありました。分裂病の人によく見られる表情に、「ひそめ眉」とか「すぼめ口」とか言われているものがありますが、おそらく、抑圧されたすさまじい感情が、このような表情を作り出しているのではないかと思うのです。 このような様々な症状は、原因が分かったとしても、根の深い問題を含んでいますので、すぐに問題が解決するというわけにはいきません。ですので、治療が長期に及んだり、なかなか問題の核心に迫ることができなかったりすることがあるのです。それに、精神分析的な技法ですと、あくまでも本人の自己洞察に依存しなければならないという、宿命的な弱点を持っているのです。患者としては、知りたくないからこそ抑圧しているのですが、精神分析では、その知りたくもない、抑圧された危険な願望を直視させようとしますので、患者の方としても、無意識的に自己洞察をはぐらかしたりして、いろいろな形で抵抗するわけです。たとえば、治りたいと思っているにもかかわらず、不成功防衛が働いて、治療を失敗させようとしたりするのです。 このように、すさまじいものが背後にあるような、根の深い問題は、ある程度ガス抜きが進まないと問題が解決しないと言う面があるのですが、ガス抜きをするといっても、すさまじいガスの圧力があるわけですから、安全にガス抜きをするためには、それなりに時間がかかるのです。ですので、日常生活に支障を来すようであれば、薬の力を借りて、とりあえず一時的にでも症状を抑えた方がいいのです。私の場合は、安定剤を使えば、ほとんどの症状は消えましたので、困ったときには、安定剤を服用していたのです。 では、なぜこんなに激しい感情が生まれたのかと言いますと、あまり因果関係を過去にさかのぼって書きますと、話が長くなってしまいますので、この問題は、また別の機会に書くことにします。しかし、自分の意志とはまったく関係なく、突然、人を殴りたいような衝動に駆られたりしますと、もしかしたら脳に原因があるのではないかと考える人も出てきます。そこで、たとえば脳の血流の状態を調べて、普通の人とは脳の活動状況が違うことを示して、だから脳の異常が原因なんだと主張したり、あるいは、脳内物質のバランスが崩れていることを示して、だから脳の異常が原因なんだとか言ったりする人たちもいるのです。しかし、こういう現象はごく当たり前のことなのです。抑圧された激しい感情が葛藤を生んでいるわけですから、脳の活動領域が普通の人と違ってくるのは当たり前のことなのです。そして、激しい葛藤が埋もれているわけですから、これによって脳内物質のバランスが崩れたりするのも、当たり前のことなのです。しかし、生物学的なものに原因を求めようとする人たちは、あくまでも脳が原因であると考えようとするのです。たしかに、抑圧された願望というのは、脳の特定の場所に記憶されているわけですから、脳のその部分が原因なんだと言えば、多少の無理はあるものの、そう言えなくもないわけです。しかし、原因に対する考え方は違っていても、生物学的なアプローチによって、脳内物質のバランスを取り戻す薬が開発されていますので、こういう面においては、十分に評価に値すると思います。 このような生物学的なアプローチというのは、患者にとっても、ある種のメリットをもたらすのです。それは何かというと、脳が原因なんだだということになれば、抑圧された願望に直面する必要がなくなるからです。自分にとって都合の悪い願望や、危険な願望は、なんとしてでも抑圧し続けなければならないわけですが、脳が原因だということにすれば、ずっとそのまま抑圧し続けていられるのです。しかも、薬によって症状が取れたり、緩和したりしますと、患者としても、ますます脳が原因なんだと考えたりするのです。これは、精神分析のように自分の心をほじくり返して、知りたくもない感情と向き合ったりするよりは、はるかに気が楽です。しかし、薬による治療には、どうしても限界があるのです。ずっと薬を飲み続けなければならなかったり、人によっては薬が効く人と、ほとんど効かない人もいるのです。 そこで、強迫性障害の治療では、薬物療法と平行して行動療法による治療が行われることがよくあるのです。この二つの治療を組み合わせたやり方は、治療効果という点では、ほかの治療方法に比べて、比較的高い数字を出しているのです。ですから、とにかく早く強迫性障害の症状を何とかしたいという人は、このような治療方法を試してもみるのもいいかもしれません。しかし、このやり方も万能ではありませんので、必ずしもすべての人に効果があるわけではないのです。 このほかに、強迫性障害の治療には、神経症の治療方法としてよく知られている森田療法というのがあります。森田療法では、思考の悪循環が原因であるとして、その悪循環を断って、あるがままの自分を受け入れさせるような、独自のシステムを用います。このようなやり方は、心の抑圧を解いて、ありのままの感情と向き合うことにもなりますので、人によっては、突然悟りを開いたようになって、神経症的な症状が消えてしまうことがあるのです。しかし、悪循環が原因だとは言っても、その悪循環の原動力となっている循環ポンプ、つまり抑圧された願望というものに直接切り込んだりはしませんし、心の防御システムである防衛規制というものに対する理解もまったくありませんので、ここに森田療法の限界があるのです。ですので、軽症の人にとっては治る可能性が高いのですが、そのほかの人にとっては、まったく効果がなかったりするのです。 私のホームページでは精神分析的な立場をとって、そういう視点から、いろいろな心の問題をとらえているのですが、精神分析というのは重厚長大なものになりがちです。しかし、精神分析には、心のパズルが解けたときに、「ああ、そうだったのか体験」と言われているような体験を得ることができるのです。今まで私自身の、自己分析の体験を書いてきましたが、問題が解決したときに、「ああ、こういうことだったのか」と、自分でも納得できるのです。そして、人間の心の仕組みの不思議さを思い知ることになるのです。 |