乳幼児期に、親から精神的に分離し、独立した自我が形成されようとするときに、その分離が見捨てられ不安に彩られてしまうと、成長のあらゆる段階が、非常に歪んだ形で認識されてしまいます。たとえば、自分の下にもう一人赤ん坊が生まれることになって、自分が兄や姉といった役割を担わなければならなくなったとき、それが親の仕掛けた罠のように思えたりするのです。なぜなら、兄や姉の役割を押し付けることで、親は私を遠ざけて見捨てようとしているように見えるのです。親にとって私なんかどうでもいいのです。私を見捨てて、赤ん坊だけを可愛がろうとしているように見えるのです。兄や姉の役割や責任とかいうものは、私を遠ざけて、見捨てるための程のいい口実にしか過ぎないと思えるのです。そういう親の仕掛ける罠に引っかからないように注意しなければなりません。自分が生きてゆくためには、親の陰謀を見抜き、見捨てられないようにしなければならないのです。そして、親の陰謀の裏をかいて、なんとか赤ん坊に戻る方法を探らなければならないのです。
この思考パターンはたしかにひどく歪んでいます。しかし、境界例的な環境で育った幼い子どもは、見捨てられる恐怖感から、あらゆるものを疑いの目で見るようになってしまうのです。身の回りの様々な出来事を、見捨てられる恐怖感に脅えながら見つめ、見捨てられることと関連付けて受けとってしまいます。その結果、現実の認識が非常に歪んだものになってしまうのです。このような歪んだ認識によって、私は見捨てられないように必死になって、以前の赤ん坊だったころの親との一体感のある状態に戻ろうとします。そして、親が私に向かって大人になるようにと促すと、それは見捨てるための陰謀であるかのように思えるのです。ですから、親の陰謀を警戒すると同時に、このような親の卑怯なたくらみに反抗したりもします。「大人になんかなるものか」と考え、なにがなんでも、むきになって赤ん坊に戻ろうとします。いわゆる天の邪鬼状態です。親が私を見放して、遠ざけようとするなら、逆に親への復讐として、親にしがみついて、親のすべてを根こそぎしゃぶり尽くしてやろう、などと思ったりします。そして、「私を生んでくれと頼んだわけではない」とかいう言いがかりをつけて、私を生んだ責任を取ってもらおうとします。そして、一生私の面倒を見てもらおうとします。これは精神的な成長の拒絶であり、自立への拒絶であり、社会人として一人前の人間になることへの拒絶なのです。この思考パターンは、成長のあらゆる場面で顔を出してきます。
小学生のころ、私は自由の女神の対極にあるものとして「責任の女神」というものを考えたことがありました。「責任感を持て」と言う言葉の裏にある意味は、責任感で私を縛りつけて、もう子宮の中にいるような満ち足りた世界には戻れないようにしてしまおうという罠なのです。そして、責任感を押しつけようとする親は、結局は自分のことしか考えていないのです。私を見捨てて、自分だけでうまい汁を吸おうというのです。この陰謀から逃れるためには、常に注意深くしていなければなりません。そして、いつでも赤ん坊に戻れるような状態にいなければなりません。もし、自分が社会的に何者かになってしまったら、もう戻れなくなってしまうからです。ですから、いつでも戻れるように、根なし草のような、常に何者でもないような状態にいなければなりません。
こういった退行欲求は、無意識レベルでも強力な力を発揮します。そして、自分でも訳も分からないまま、自分にとってマイナスなことばかりやってしまいます。もし、自分のやっていることがうまく行って、社会的に認められそうになると、無意識的にそれをぶちこわすようなことをやってしまうのです。いわゆる「防衛機制のパターン」のところに書いた「不成功防衛」そのものです。もし、社会的に自立してしまったら、私を見捨てようとする親の陰謀に乗ってしまうことになります。そうなったら、親の思う壷です。親への復讐ができなくなってしまいます。赤ん坊に戻るのだという、人生の目標が達成できなくなってしまいます。ですから、親の陰謀をくじくためにも、なにがなんでも社会的に自立してはいけないのです。ですから、社会的な自立や精神的な自立が実現しそうになると、どういうわけかタイミング良くトラブルが起こって、あるいはトラブルを起こして、すべてがダメになってしまうのです。このような自立の失敗は、親への当てつけでもあります。自分はもう大人なのに、そして親からも離れているというのに、私の記憶の中に居座っている卑怯な親に向かって、繰り返し復讐しようとしているのです。親にしがみついて、すべてをしゃぶり尽くそうとしているのです。
子供の分離不安をもてあそぶような親でも、時には自分勝手に甘やかしたりすることがあります。もしかしたら、このまま大人にならなくてもいいのかもしれない、と思わせるような甘やかし方をするのです。そうすると子供は、もしかしたら赤ん坊に戻ることが出来るのではないかと思えたりするのです。大人にならなくていいのかもしれない。いつまでも、赤ん坊のままでいることができるかもしれないと思ったりするのです。このような、子供をダメにするような甘やかしによって、親は子供が自分に依存するように仕向けるのです。親は子供の自立を妨害することで、自分に依存させ、自分の心の寂しさを紛らわそうとするのです。
そして、さらに重要な出来事として、両親の性行為の目撃があります。身体を繋いでいるペニスが、へその緒のようなもと誤解されて、両親は身体が繋がったままなのだと思い込んだりします。父親はいつまでも赤ん坊のように、母親と身体が繋がっているのです。父親はいつまでも大人にならなくてもいいのです。しかも、卑怯なことに、普段はそのことを子供に隠しているのです。これは激しい羨望を引き起こします。父親のことが、ひどく羨ましく思えて来て、嫉妬の感情が発生します。なぜ私だけが、肉体を分離させられたのか。なぜ私だけが子宮から追い出されて、大人にならなければならないのか。なぜあいつだけが赤ん坊のままでいられるのか。なぜあいつだけがうまい汁を吸っていられるのか。私もあんな風に、子宮と繋がったままでいたい。私もあんな風に、生きることのすべてを他人に面倒見てもらいたい。しかし、卑劣な両親は私を追い出して、自分たちだけでくっつき合って、楽しんでいるのです。これは親の卑怯な陰謀なのです。――このような、性行為の目撃による思考と認識の歪みは、「原光景」のところに書いたような激しい葛藤を招きます。家族の団らんから追い出された、哀れな自分というイメージを作り出すと同時に、退行欲求が非常に根の深い問題になってしまいます。
このような様々な状況の中で、親とへその緒で繋がったような状態に、強いあこがれを抱いたりします。子宮の中にいるような一体感へのあこがれ、完全に守られた世界へのあこがれです。へその緒によって、自分が生きるために必要なもののすべてが供給されて、自分は何もしなくても生きていられるような世界にあこがれます。あるいは、赤ん坊のように、周囲の人が自分の面倒をすべて見てくれるような世界にあこがれます。かすみを食べて生きているような生活にあこがれ、怠惰で快楽に満ちた生活にあこがれたりします。働かないで生活したいと思い、責任感に縛られる事のない、自由で気ままな人生を送りたいと思ったりします。放浪生活にあこがれたり、変化の多い人生にあこがれたりします。そして、いわゆるモラトリアムと呼ばれるような、大人になることを猶予する状態がいつまでも続きます。あるいは、ピーターパン・シンドロームなどとも呼ばれ、いつまでも子供のように遊び続けていたと思ったりします。このピーターパンの童話は、原作を読むと、子供に読ませておくのはもったいないと思うほどに、人間に対する優れた洞察力を持った作品です。特に、境界例人間には身につまされるものがありますので、良かったら読んでみてください。
このような、気ままで自由な生活への強いあこがれは、自分自身で意識されることもありますが、その背後にある、赤ん坊に戻りたいという欲求は強く抑圧されます。なぜなら、現実的には赤ん坊に戻ることが出来ないということを知っているからです。しかし、無意識レベルでは、赤ん坊に戻りたいという強烈な願望が生き続けているのです。ですから、もし自分が、無意識レベルの願望に気付きそうになると、現実との矛盾に直面することとなり、絶望感とともに、強い抑うつ感に襲われたりします。なぜなら、赤ん坊に戻れないという事実を受け入れようとすると、心の奥にずっと未処理のままで残っている、巨大な喪失の悲しみに直面しなければならないからです。ですから、退行欲求は深く隠蔽されるのです。我々のような境界例の人間にとっては、この悲しみたるや、実に巨大で膨大なものです。見捨てられる不安が強いので、この悲しみに対処するための精神的な能力が不足しています。赤ん坊のころの自己中心的な世界を失う悲しみは、不完全な精神状態の自分にとって、この悲しみはあまりにも巨大であり、我々を圧倒し、抑うつ状態へと陥れます。赤ん坊時代を失わなければならない絶望感と、喪失の苦しみに打ちのめされて、自分で自分がコントロールできなくなってしまいます。無意識レベルでは、見捨てられ不安から大人になることを拒絶し、さらに赤ん坊に戻ることにも絶望し、もうどこにも行き場が無くなってしまい、最後には死ぬことを考えるようになります。ひどいときには、死ぬ気力さえなくなるほどに、生きることのすべてに絶望してしまいます。
つまり、絶望の本質とは、無意識レベルでは、子宮に戻れないことの絶望なのです。あるいは、赤ん坊のころのような、自己中心的な世界に戻れないことの絶望なのです。絶望というものが哲学や文学によって装飾されたとしても、精神分析的に言えば、絶望の意味とはこういうことなのです。しかし、私の体験から言えることは、こういう状態を抜け出すことが出来て、初めてこのような構造を理解できたと言えるでしょう。それまでは、退行欲求の正体が見えないままに振り回され、無意識レベルの「赤ん坊に戻りたい」という間違った目標に向かって進もうとしていたのです。そして、当然の結果として現実の壁にぶつかって、絶望を繰り返していたのです。ですから、私が絶望に陥っている状態の時やうつ状態の時に、このような退行や絶望のメカニズムを説明されても、このような精神状態でどこまで理解できるか疑問です。ですから、もし皆さんが私の書いていることが半信半疑だとしても、一応知識として退行や絶望のメカニズムを知っておいてください。自己分析が進んでゆけば、こういうことがやがて体験的に理解できるようになるかもしれません。