私たちは、親に対して、様々なことを望みます。しかし、子供の精神的な自立を、無意識的に妨げようとする境界例的な親とは、意思の疎通がうまく行きません。それでも私たちは、なんとか親に自分の気持ちを理解してもらおうとして、様々な働きかけをします。そして、その結果として、ダメなんだという絶望感に陥ったりします。
私たちの親に対する働きかけを、第三者的に冷静な目で見てみますと、そこにひとつの構図が浮かんで来ます。ある人は親に、自分の気持ちを理解してもらおうとします。ある人は親に、よそよそしい態度を改めてもらおうとします。ある人は親に、過保護な行動をやめてもらおうとします。ここに共通しているのは、一方的に親に対して変化を求めているという点です。自分は今のままでいて、親に対しては一方的に変化することを求めているのです。幼い子どもであれば、「〜をしてくれない」親に対して、してくれるように要求することは当然のことだと思います。しかし、私たちは子供ではないのです。親に対して、一方的に要求を突き付けるのは、覚めた目で見れば、それは自分勝手でお気楽な要求に見えます。
人間はそんなに簡単に変われるものではありません。大人同士の関係であれば、言ってもダメな人には言いませんし、注意してもダメな人とは一定の距離を取るようにします。しかし、相手が自分の親となるとそうは行かないようです。冷静になって考えてみれば、そんなことを親に言っても、親の性格からいって理解するはずがないじゃないかと思える内容であるにもかかわらず、それこそ必死になって訴えたりします。そして、その結果、当然予想されるようなことが起こるわけです。つまり親の的外れな反応に失望して傷つくのです。親とは、長い間一緒に生活しているのですから、こういう事を言えば、それに対してどういう反応が返ってくるのか予想がつきそうなものですが、私たちは、そこまで冷静になることが出来ません。大人なのに、まるで幼い子どものように、親に自分のすべてを理解してもらおうとします。親だけではなくて、身近な人に対しても、自分のすべてを理解してもらおうとします。相手の理解力などは考えずに、一方的に自分の気持ちをぶっつけたりします。私も自分を振り返ってみれば、理解してくれるはずのない人に向かって、最初から無駄だと分かっていることを訴え続けていたこともありました。仕事中に他の人から「言ってもダメなんだから、あんな人放っておけばいいのに。なんでそんなにこだわるの?」と言われて、初めて自分のしていることに気付いたこともありました。その時、まるで自分がわざわざ無理解な人を求めているような、あるいはそういう無理解な人を必要としているような気がしました。相手の仕事上の無能さを非難し、攻撃しながらながらも、逆にそういう無能な人を求めている自分に気付いたのです。しかも私は、自分のことをすべて棚に上げて、一方的に相手の無能さを非難していたのです。
たしかに、私は親に自分の気持ちを理解してもらいたいという、切実な思いがあります。そして、私のことを理解してくれない親に対する、凄まじい怒りがあります。何としてでもこの気持ちをぶつけずにはいられないほどの激しい感情もあります。しかし、そういうこととは別に、なにも変わろうとしない自分もそこにいるのです。自分は今のままの性格でいて、親に対してはその性格を変えるようにと一方的に要求するのです。私たちが自分の性格をそんなに簡単に変えることが出来ないのと同じように、親も自分の性格を簡単には変えられないのです。自分を一個の人間として尊重してくれるようにと親に対して要求しても、じゃ自分はどうなんだと振り返ってみると、私たち自身が親を一個の人間として見ようとしていないのです。私たちは、親の個性を認めようとせず、親を私たち自身の延長のような存在であると考えていますので、一方的な要求になってしまうのです。しかし、親は私たちの延長のような存在ではありません。私たちとは別の、まったく違う人間なのです。
私たちは、自分を宇宙の中心のように考えがちです。あらゆる座標軸の中心に自分を据えるのです。まるで宇宙が自分を中心にして動くかのように、周囲の人にも、自分を中心に動いてくれように要求します。周囲の人がすべて自分に合わせてくれるように求めるのです。しかし、このような周囲の人に対する操作は、自分ではほとんど意識されていません。本人の意識としては、ただ、ただ、必死になって自分の気持ちを訴えているだけなのです。そして、それが結果として、境界例の特徴である、周囲の人に対する「巻き込み」や「操作」となって現われるのです。
このような自己中心性は、被害者であることの万能感となって現われたりすることがあります。親の間違った育て方によってこんなふうになったのだ、というように、被害者として親を非難し続けていればいいのです。自分は被害者ですから、自分はなにも変わる必要がないのです。加害者である親が自分に謝罪し、過去の罪への償いをすべきなのです。しかし、これではいつまでたっても救われません。親に対して、「コイツは元々こういう奴なんだ」という、ある種のあきらめのようなものが生まれて、親との間に距離を置くことが出来るようにならなければなりません。親を「コイツはこういう奴なんだ」というふうに、たとえひどい人間であったとしても、それはそれで自分とは別の一個の人間なんだというふうに、その存在を認めることが出来るようになるまでは、問題が解決しないのです。つまり、どんなに恨みつらみがあるにせよ、最終的には、自分が変わるしかないのです。しかし、これは言うのは簡単ですが、なかなかこの通りに行くものではありません。激しい憎しみがあるからです。私がこんなに苦しい思いをしているというのに、親は自分のやったことに何の自覚もないままに、のうのうと生きています。こんな事があっていいのでしょうか。なぜ被害者である私だけが変わらなければならないのか。あいつにも、私が味わったような苦しみを味あわせてやりたい。この苦しみを百倍にして返してやりたい。そういう思いがくすぶり続けています。ですから、大人になってからも、わざわざ親の身代わりとなるような無理解な人や無能な人を探し出して、そういう人を非難し続けようとするのです。親との関係を、職場での不条理な人間関係の中で再現しているのです。あるいは、心の問題に無理解な人や社会に対して、自分の親に抗議するかのように抗議し続けたりするのです。
軽症の人の場合は、このような問題は年齢が進むことによって自然に解決することがあります。自分が人生経験を積むことによって、知らず知らずのうちに自分が精神的に成長していって、少しずつ自分が変化してゆくのです。そして、親というものを、自分の要求を無限に突き付ける相手としてとらえるのではなくて、親も限界の中で生きている一人の人間として理解できるようになるのです。どんなに出来の悪い親でも、どんなに下らない親でも、コイツはコイツなりの主体性を持った一個の人間なんだと言うふうに、自分とは違う人間として、精神的に距離を置く事ができるようになります。つまり、これは、自分自身が親から精神的に分離できた結果得られた認識となるわけです。親に求めるのではなくて、自分自身に求めることで、状況が変わるのです。ひどい親でも、その人を一個の人間として認めることで、自分自身をも一個の人間としてとらえることが出来るようになるのです。
親に一方的に要求を突き付けようとする態度は、時には結婚相手を選ぶときにも反映されたりすることがあります。親の態度を変えたいという思いが、そのまま、親と同じような人をパートナーとして選んだりするのです。無理解な親に反発して、独立して新しい家庭を作ったはずなのに、何のことはない、親との関係がそのまま夫婦の関係の中に生きていたりするのです。たとえば、アル中のだらしない親に失望しているにもかかわらず、自分が選んだ相手も、同じようにアル中になったりするのです。あるいは、暴力的な親に反発していたにもかかわらず、自分の選んだパートナーも、どういうわけか暴力的だったりするのです。あるいは、過保護な親をあれほど嫌っていたにもかかわらず、どういうわけか親と同じような人を選んでしまうのです。つまり、親と同じような素質を持った人を、無意識的に求めてしまうのです。そして、親を変えることが出来なかったので、今度はこの人を変えてやろうというわけです。親に対する抗議が、そのまま配偶者に対する抗議として再現されるのです。このような状況から抜け出すには、世代間連鎖に気付くことが必要です。今抱えている問題の背後に、親に対する自分の一方的な要求がそのまま再現されていることに気付く必要があります。そして、このような問題の連鎖を断ち切るためには、相手や周囲の人を変えるのではなくて、自分自身が変わらなければなりません。相手や周囲の人に対する自分自身の態度が変わらない限り、この問題は解決しないのです。