現在私が抱いている原光景とは、次のようなものです。
赤ん坊の私は、暗闇の中に置き去りにされていた。離れたところが、ぽつんと、スポットライトに照らし出されていて、そこで両親が性交しているのが見える。しかし、彼等は夢中になっているため、私が泣いても叫んでも、振り向いてもくれない。このまま見捨てられてしまったらどうなるのか。私は暗闇の中に置き去りにされたまま、呆然としている。
この光景も、夢に表れたわけでもありませんし、自分の精神状態を説明するために作り上げたものでもありません。ただ、自分の心が反応する状況設定を追求していったら、このような光景になったのです。そして、結果として、いまの自分の抱えている問題が、この原光景によってほとんど説明がつくのです。そして、夢の分析の結果とも符合するのです。
私も太宰治の夢のように、団らんから締め出されたというような状況に強く反応します。除け者にされ、仲間外れにされた状況設定に強く共感するのです。そして、除け者にされた状況を、さらに追求してゆくと、両親の性行為から仲間外れにされたという状況設定にたどりつきました。両親は自分たちの快楽に没頭していて、置き去りにされた私の存在など眼中にありません。赤ん坊の私は暗闇の中に置き去りにされ、見捨てられたという絶望感に打ちひしがれています。惨めで、哀れで、誰からも振り向いてもらえない孤独な私がそこにいます。暗闇の中で、泣き疲れた私は、絶望すると言うことの意味を噛みしめているのです。どうせ、みんな自分のことしか考えていないんだ。誰も私のことなんか考えてくれないんだ。どうせ私は除け者なんだ。私なんか存在している意味が無いんだ。誰からも振り向いてもくれないのなら、このまま、ひとりで寂しく死んでやる……。
あるいは、なんとか私の方を振り向いてもらおうとする私もあります。「ママ、見て、僕こんなにすごいんだよ」と、自分を誇示することで、振り向いてもらおうとします。このような衝動が膨らんでゆくと、誇大妄想的なものになっていきます。性交に夢中になっている両親から、ただ振り向いてもらいたい一心で派手なパフォーマンスをします。ただ注目される事だけを目的とした、派手で、演技的で、どこか悲しいパフォーマンスです。それでも振り向いてもらえないとなると、実に惨めなものです。無視され続けるなら、たとえ嫌われていもいいから、かまってもらいたいと思うようになります。トラブルを起こしたり、変わり者と思われたり、わざと叱られるようなことをしてでも、自分の方を振り向いてもらいたいと思います。自ら好んで奇人変人になろうとしたりします。あるいは、空想の中で注目を浴びている自分を想像して、振り向いてもらえない自分の惨めさを補おうとします。
私の存在を無視して、強引に母親を横取りされたのなら、こちらも力ずくで奪い返そうとする私もいます。これが「私の原光景1」に書いた、父親への殺意です。私の存在が無視された事への怒り、私の母親を横取りされたことへの怒り、傍若無人にもすべてを独り占めにしようとする父への憤り、こういった感情が、キレた時の激しい殺意の源ともなっています。あの男さえいなければ、セックスで母親を奪われることもありませんし、私と母親の共生的で密接な関係が続いていたのです。生きることのすべてを他人に依存している赤ん坊にとって、母親を奪われるということは、死の恐怖にさらされることになるのです。ですから、生きるためには、奪われた母親を奪い返すしかありません。つまり、傍若無人に振る舞うあの男を殺せばいいのです。しかし、この願望は、あの男から復讐されるという激しい恐怖感を伴います。もしあの男の怒りをかってしまったら、幼くて無力な私は、なす術もなく殺されてしまうでしょう。このようにして、行き場のなくなった殺意は心の中に鬱積して、私の心を蝕み、前のページで書いたような、死体を引きずるという情景となって表現されるようになったのです。
あるいは、私を見捨てて、父に抱かれて喜んでいる母に対する憎しみもあります。裏切り者への復讐は、もちろん死です。母親を求めていながらも憎み、手に入れたいと願いながらも抹殺してしまいたいと思う、まったく正反対の感情が同時に存在しています。生きてゆく上で母親を必要としながらも、殺してしまいたいという願望を持つことは、他でもない、自分自身を殺そうとしていることにもなります。これは、目茶苦茶な葛藤を招きます。裏切り者の母親への復讐願望と、本来の母親への素直な愛情願望とがせめぎ合っています。
あるいは、母親に父を嫌いになるように仕向けようとする私もあります。父の悪口を吹き込もうとする私の姿は、影で他人をぼろくそになじる、卑しい私とだぶります。同じ敵意を持っている人を捜して扇動したりします。そして、私にとって父親を意味する人物を破滅に追い込もうとしたりします。こういった願望は、男性のパートナーを持っている女性に手を出したいと言う願望にもなります。ちょっかいを出して、女性にこちらを振り向かせることで、妙な優越感に浸ったりします。あるいは、このような遠回しの攻撃ではなくて、報復される恐怖を乗り越えて、父親を意味する人物へ直接に攻撃を向けることもあります。相手の欠点をあざけり、挑発的な態度を取り、さらに悪態をついて、相手を破壊しようとします。しかし、結果的に身を滅ぼすことになるのは自分自身なのです。
あるいは、このような敵意と憎しみに満ちた三角関係から逃れて、子宮の中にいたころを理想化したりすることもあります。じっとしているだけですべてが満たされる状態を求めて、部屋の中に閉じこもります。嫌なことから逃れて、自分の殻の中に閉じこもることで、傷つくことを避けようとします。閉じこもることによる生活上の不利益よりも、逃避によって得られる精神的な満足感の方を優先させるのです。
こんなふうに書くと、私という人間は、人格が破綻したような、どうしようもない、実に嫌な奴に見えるでしょうが、表面的には私は「温厚で、おとなしい人?」で通っていたりします。そして、表面的にはなにも問題のない人のように振る舞うことも出来るのです。しかし、私の心の底には、原光景から発生する、様々な暗い感情が渦巻いていて、その暗黒の嵐が、ときどき私の人生を狂わせてしまうのです。
しかし、今後、自己分析が進んでゆけば、私を置き去りにして振り向いてもくれなかった両親が、やがて、呼べば振り向いてくれるような情景へと変化してゆくかもしれません。実際、この原光景に、以前ほどには感情移入できなくなりつつあります。
さて、あなたの原光景は、どのようなものでしょうか。格好つけたりせずに、そして善悪の価値判断などもせずに、ありのままの心の情景を描くとしたら、それはどんなものになるのでしょうか。
「見つめている魂よ、炎の中の昼と、一物も持たない夜の、告白をしようではないか」