私は小学生のころ、大人たちをひどく憎んでいた。親だけではなく、大人一般を憎んでいた。そして、自分は絶対に大人になりたくない、と本気で考えたことがある。今から振り返ってみれば、ばかばかしい考えだが、自分のこの感情に気づいたときのことを今でも憶えている。大人の持っている欺瞞性に対する激しい憎しみから生まれた感情だった。
そして、大人になったころ、ある人から、こんなことを言われた。「お前はまだ精神的にこの世に生まれていない」と。言われたときは「そうかなぁ?」と思う程度だったが、これも今から振り返ってみれば、実に的確な指摘だったと言える。
精神分析の本を読んで自己分析を続けているうちに、胎内回帰願望に目覚めたことがあった。本気だった。本気で子宮に帰りたいと思った。現実は現実として、そのようなことは不可能であることはわかっているのだが、内面的にはどうすることもできないような強い願望だった。バカバカしいとは思いながらも、無性に「おしゃぶり」が欲しくなったこともあった。恥ずかしい思いをしておしゃぶりを買ってきてくわえてみたこともあった。
このような退行が意味するものは、おそらく赤ん坊のころに何かあったに違いない。出産外傷なのか、あるいは母親の話によると産まれたばかりのころ乳首を強く噛まれて、ひどく痛い思いをしたそうなので、そういうことが原因なのか。しかし、私には何の記憶もない。
授乳期という共生状態を理想化するということは、そうせざるを得なかった事情があったのだろうが、これが精神的な面で自我の誕生を阻害することとなったようだ。そして、私の退行願望を邪魔しようとするものを激しく憎んだ。精神的な自立や分離は、私にとって死の恐怖にも等しいものだった。死に物狂いで「なにか」との一体感を求めていた。「なにか」とは、共生状態そのものであり、胎内にいるような一体感のことだった。そして、それは当然のことながら現実離れした願望であり、実現するはずのないものだった。しかし、私は必死だった。
やがて、当然のように絶望が訪れる。音を立てて崩れるという表現そのもののように、心の中で何かが音を立てて崩れてゆくのがはっきりとわかった。そして、私は抜け殻になった。もともと、かなうはずのない願望なのだから、絶望するということも回復のための一つの通過点なのかも知れない。今なら多少冷静になってそのように振り返ってみることができる。私はあの時、いったい何に絶望したのか、理解できる。そのメカニズムも理解できる。つまり、私は産まれたくなかったのだ。元いた場所に戻りたかったのだ。この世があまりにもひどいところだったので、この世に出てくる前の状態に戻りたかったのだ。本気で戻りたいと、そう思っていたのだ。それがかなわないと知ったとき、「絶望」という名の心の崩壊が起きたのだ。
客観的に見てみれば、これは甘えであり、自己中心的で、わがままで、未熟な精神構造から来たものだった。それが現実というものにぶつかって崩壊しただけのことなのだ。ただ単にそれだけのことだったのだ。いまなら、そのように振り返ることができる。バカバカしいことだが、かつては退行することが生きる目標だったのだということを、理解することができる。絶望は死に至る病ではない。間違った願望が現実というものにぶつかって、方向がわからなくなっただけのことなのだ。
だが、当時は自分が何を求めているのかも理解できず、訳も分からずに包丁を振り回して叫んだりした。自分が手に入れたいと思ったものは、たとえ何を犠牲にしてでも手に入れなければならなかった。あのころはそう思っていた。実際、あらゆるものを犠牲にしてきた。そして、挫折を繰り返してきた。私を打ち砕いた絶望とは、昼の光が決して知ることのできない、真夜中の暗黒の世界だと思っていた。精神的に窒息してしまうような、希望のない世界だと思っていた。この絶望の暗闇の深さは、誰にも理解することができないと思っていた。そして、「我が青春は暗黒の嵐」そのものだと思っていた。しかし、背後にあったのは、実にたわいもない単純なものでしかなかった。そして、その単純な退行への執着を捨てることができずに、「未練」を引きずりながら絶望体験を繰り返してきた。
自分の心の底にある、隠された本当の願望を理解するにつれ、少しずつ絶望の構造が見えてきた。絶望して当然の、間違った願望を抱いていたのだということを、少しずつ理解できるようになっていった。そして、それを受け入れるにしたがって、少しずつ心が囚われから離れていった。
長い時間がかかった。本当に長い長い時間がかかった。だが、まだ問題はたくさん残っている。
もちろんこのような退行機制はすぐわかるような形で現われることは少なくて、いろいろなものに形を変えて我々の思考の隙間に潜んでいる。自分でそれに気付くのは困難かもしれない。まさか、自分がそんなグロテスクで馬鹿げた願望を抱いているなんて、……というわけだ。しかし、もし絶望的な精神状態になることがあったなら、その時の精神状態そのものではなくて、その背後にある隠れた願望を見つけようとすることによって、もしかしたら、何か発見があるかもしれない。「本当は何に絶望しているのだろうか」と自問自答してみることで、意外な願望が絶望の背後にあることを理解できるかもしれない。