失敗することで問題を解決しようとすることです。とは言ってもわざと失敗するわけではなくて、本人の意識としては何とか成功させようとしているのですが、無意識的なレベルにある失敗したいという願望によって、不成功に終わってしまうというものです。
これは境界例にとっても重要な意味を持っています。つまり、自立を妨害する母親によって刷り込まれた分離不安や見捨てられ感が、不成功防衛そのものになってしまうのです。本人にとって自立を意味するあらゆるものが、分離の不安や恐怖に彩られてしまい、このようなものに直面すると、不安や恐怖に耐えることができず、無意識的にものごとを失敗させてしまいます。
本人の心の中では意識が二重構造になっています。成功したいという意識的なレベルでの願望と、失敗に終わらせたいという無意識的なレベルでの願望です。たとえば、幸福になりたいと思っているのに、いざ現実に幸福が実現しそうになると、妙な居心地の悪さを感じたりします。あるいは、幸せになると、その後で何か恐ろしいことが起きるのではないかという、得体のしれない不安感に襲われます。こういった、妙な居心地の悪さこそが分離不安そのものなのです。幸福になったり、社会的に認められて周囲の人達から祝福を受けるような状態が苦痛になるのです。自分で望んでいながら、いざそれが実現しそうになると、無意識的に身を引いたり、今まで築いてきた成果を無にするようなことをしたり、何か問題を引き起こしたりして、望んでいたことが実現しないようにします。もちろんこれは無意識的なものなので、自分ではなぜ失敗したのかという、本当の意味を知りません。本人の意識としては、何とかして目標を達成しようとして努力しているのです。しかし、このような失敗や挫折によって、分離不安から来る居心地の悪さを回避することができます。幸福になるよりは、不幸で、惨めで、貧しい生活の方が、精神的になんとなく落ち着くのです。本人の意識としては、不幸で惨めな自分を嘆いて、絶望的な気持ちになったりしているのですが、そういったダメな自分の姿こそが、無意識的なレベルでは自分が自分であるという感覚を与えてくれるのです。挫折を嘆き、惨めな敗北感に浸り、絶望のどん底でうめいている状態こそが、自分の本来の姿であるという、なんとも傷心に満ちた、自虐的な満足感を与えてくれるのです。そして、こういった挫折を繰り返す自分とは、乳幼児期に母親から、見捨てられ、置き去りにされ、無視された状態そのものなのです。自立に失敗する事でしか、自分の存在を認めてもらえなかったという状況が作り出した、刷り込みなのです。乳幼児期に無力感を親にもてあそばれ、親の寂しさや空虚感を満たすために利用されたことによって、親から精神的に分離して自立するということが、まるで罪深いことであるかのような感覚を植えつけられたのです。こうして精神的に自立することへの居心地の悪さや、恐怖感といったものが、長年にわたって刷り込まれて来たのです。そして、この間違った刷り込みの教えに従って、挫折を繰り返すのです。どうせ何をやってもダメなんだ、無能な人間なんだという烙印を、自分で自分に押してしまうのです。何も達成することができず、何者にもなれず、何をやっても中途半端なまま、人生の海を、あてもなく漂い続けることになります。
太宰治の「人間失格」という小説があります。この小説の物語も、刷り込まれた挫折感と敗北感に支配されています。この作品を、覚めた目で読んでみれば、わざわざ不幸になる必要は無いのに、無理やり自分から不幸な状況を作り出して、その不幸な状態に浸ることで満足しているように見えます。こういった刷り込みは、洗脳と言ってもいいくらいに強力なものなのです。つまり、幸福とは、あまりにも居心地の悪い状態であり、いたたまれないような不安感を招くものにされているのです。そのように洗脳され、条件付けられているのです。それだけのことなのです。そういった洗脳によって植えつけられた不安をごまかすために、文学や哲学による知性化という防衛機制が動員され、挫折が美化されたりします。
このような不成功防衛によってもたらされる敗北感や挫折感を補うために、自己愛を肥大化させて、誇大妄想的な夢を抱くこともあります。そして、現実離れした目標を設定して、それを実現しようとするのですが、現実離れしているがゆえに失敗し、万が一うまくいきそうになったとしても、不成功防衛によって挫折することになります。本人は目標に向かって必死に努力しているのですが、どういう訳か努力の仕方が的外れなものだったりして、結局は失敗に終わってしまいます。このような成功への努力と失敗は、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなもので、本人の心に激しい葛藤を引き起こしたりしますが、結局は分離不安を克服することができずに、失敗に終わってしまいます。あるいは人によっては、努力することを無意識的に放棄することで、首尾よく「失敗」を達成しようとします。さまざまな言い訳を作り出して努力を怠り、失敗するべくして失敗するのです。
こういった不成功防衛は、何かを達成しそうになったり、何か望んでいたものが手に入りそうになったときに感じられる、妙な居心地の悪さや、何か恐ろしいことが起きるのではないかという漠然とした不安感となって現われます。そして、さらにこの妙な居心地の悪さや恐怖感を感じること自体も、自我を不安定にさせますので、うまく隠されてしまうこともあります。たとえばAかBかという選択を迫られたようなときに、もしAの方が選ばれるべく正当化されたとしても、無意識的なレベルでは、わざとダメなAの方を選択しているのです。男運が悪いといって離婚を繰り返している女性が、意識レベルでは理想的な男性を選んでいることになるのですが、無意識的なレベルでは、近い将来離婚することになるであろうダメな相手を選んでいるのです。本人は結婚を正当化しているので、居心地の悪さもなにも感ずることなく結ばれて、やがて遠からず予定通りの破局を迎えることとなります。
自分の過去を振り返ってみると、幸福を望んでいながら、不幸への道を選択していることがわかったりします。不幸の方が居心地がいいのです。慣れ親しんだ世界なのです。まず、こういった出来事を洗い出し、そこに隠れている、幸福になることへの居心地の悪さや恐怖感の正体を見つめなければなりません。そこに隠れている分離不安を見つめなければなりません。そして、不幸で惨めな自分を正当化するような思考パターンを洗い出して、現実的に検証してみる必要があります。――とは言っても、刷り込みが強力な場合は、他人の助言がないと、客観的に自分を見つめることが困難ですので、かなり難しい作業になるでしょう。時間をかけて、少しずつやっていくしかありません。
ここまで不成功防衛を、分離不安の視点から書いてきましたが、他の原因から不成功防衛が動員されることもあります。エディプス・コンプレックス的な敵意を抱いていることによって、報復を受けるという恐れを抱くような場合です。たとえばインポテンツになることで、性交を不成功に終わらせて、去勢不安を回避するような場合などです。ですから、ケースによっては分離不安だけではなくて他の要素も考慮した方がいいでしょう。