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誰も私のことを分かってくれない(上)
    
2004年 3月28日  ver1.0

 私たちは時々「誰も私のことを分かってくれない」という、惨めな失望感を味わうことがあります。そして、「どうせ私なんか、どうなってもいいんだ」というような投げやりな気持ちになって、自分で自分を見捨てたり、あるいは自分で自分を傷つけるような行動を取ったりします。

 今回は、このような「誰も分かってくれない」という状態の分析と、境界例的な症状が回復するにつれて現れてくる、考え方の大きな変化について書いてみたいと思います。

 そこで、まず最初に、なぜ私たちは「分かってもらいたい」と思うのか、ということから考えてみましょう。私たちが、このような「分かってもらいたい」という気持ちを抱くのは、当然の事ながら、どこかに私のことを分かってくれる人がいるはずだという思いがあるからこそ、分かってもらいたいと思うのです。あるいは、身近にいる人たちは、私のことを当然分かってくれるはずだという思いがあるからこそ、もっと分かってもらおうとして、いろいろとプライベートなことを話したりするのです。ですから反対に、分かってくれる人なんか誰もいないんだ、と確信している人は、そもそも最初から、分かってもらおうなどとは思わないのです。

 では、分かってくれる人がいるということは、どういうことなのでしょうか。そして、そもそも「分かってもらえた」という状態というのは、一体どういうことを言うのでしょうか。

 まず、分かってもらえたという状態というのは、自分の生き方や、考え方に賛成してくれて、支持してくれたということです。そして、私のことを分かってくれるなら、当然の事ながら、私が困っているときには、助けてくれたり、励ましてくれたりするはずだ、と言う期待も背後にあるのです。ですから、分かってくれているはずの人が、助けてくれなかったりすると、裏切られたような思いを抱くのです。

 そして、分かってくれる人がいると言うことは、つまり私を支援してくれる人がいると言うことですから、私が困難な状態になっても、それを克服しやすくなるのです。反対に、誰も支援してくれる人がいないときには、たった一人でなんとかしなければならなくなるわけです。ですから、もし自分の力でなんとか出来なくなったときには、危機的な状況に陥るわけです。特に、精神的に不安定な人にとっては、このような状況というのは、まさに自分の存在そのものが危機に直面するかのような、非常に恐ろしい一面を持ってくるのです。

 ですから、私たちは出来ることなら、分かってくれる人に囲まれながら生きていたいと思うのです。ところが、現実というのは、なかなか自分の思うようにはいきません。特に境界例の人は、分かってもらおうと訴える、その内容自体が非常に混乱していたり、あるいは自分でも、いったい何を分かってもらいたいのかよく分からないままに分かってもらおうとしたりしますので、周囲にさまざまなトラブルが発生することになるのです。

 私たちはいったいを何を分かってもらいたいのでしょうか。それはおそらく、「本当の自分」であり、「ありのままの自分」なのでしょう。しかし、本当の自分とは何なのかと言われると、自分でもさっぱり分かりません。「ありのままの自分」を分かってもらったり、励ましてもらったりした体験がないために、それがどういうものなのか分からないのです。しかし、自分で分からなくても、分かってもらえない苦しさだけは、いやというほどよく分かるのです。そして、誰かに分かってもらおうとしては、傷付いて、あてもなくこの世をさまようことになるのです。

 では、こういったことを、もう少し具体的に考えてみましょう。たとえば、それなりに健全な環境で育った人というのは、親から「ありのままの自分」を大切にしてもらったという体験がありますし、親からさまざまな支援のメッセージを受け取りながら育ってきていますので、自分を支えてくれた親のイメージが心に定着しているのです。ですので、困難な状況に陥っても、励ましてくれた親のイメージが、そのまま自分で自分を支えてゆく原動力となって、困難な状況に耐える能力が育ってゆくのです。

 こういった、支持してくれて、励ましてくれる親のイメージがあまり十分はでない人であっても、困難に直面したときには、親の代わりになるようなイメージを作ったりすることもあります。たとえば、全知全能の神というイメージを持ってきて、誰も分かってくれる人がいない状況のときでも、「こうして苦しんでいる私を、きっとどこかで神様が見守っていてくれるんだ」と自分に言い聞かせて、「本当の自分」を分かってくれる人が、きっとどこかにいるはずだという願いを満たそうとしたりします。あるいは、「ヤクザなオレだけど、背中に彫った観音様のイレズミが、不器用なオレの生きざまを、ずっと見守っていてくれるんだ」と言い聞かせて、心の支えにしようとしたりします。

 しかし、もっと精神的に不安定で、支持的なイメージをほとんど持っていない人たちは、ちょっとした困難に出会っても、すぐに、この世のすべてから見放されたような絶望感に陥ってしまいます。こういう人たちにとっては、もはや神様も、背中のイレズミも、なんの役もにたちません。心の支えとなるものを、何一つ持ち合わせていないために、なにかあると、すぐに存在の危機に直面してしまうのです。そして、誰も分かってくれる人がいないという、果てしない寂しさと、寒々とした絶望感におそわれるのです。かすかな光も消えてしまい、薄暗い世界が訪れて、陰鬱な死のイメージが、心に重くのしかかってくるのです。

 しかし、人はそう簡単に絶望しきれるものではありません。「オレは、もうダメなんだ」と思っても、それでも、すがりつく物を必死に求めたりするのです。そして、裏切らずに私のことを分かってくれるような、まがい物の理解者を見つけだしたりするのです。たとえば、焼酎を胃に流し込めば、酔いが回ってきて、沈んだ心が少しは癒されるのです。注射器で覚醒剤を静脈に流し込めば、一時の快楽を得られるのです。アルコールや薬物は、確実に分かってくれるのです。誰も自分のことを理解してくれなくても、薬物は自分の心に直接働きかけて、いっときの慰めを与えてくれるのです。見捨てられた人たちにとっては、もはや、こういう物しか、分かってくれて、慰めてくれる人がいないのです。

 人によっては、ギャンブルにのめり込んで、運命の女神に自分のことを分かってもらおうと、必死になったりします。そして、目の前のパチンコ台が、突然七色の光を点滅させて、華々しい祝福のファンファーレを鳴り響かせたとき、まさにこの時こそが、自分のすべてを分かってもらえた瞬間なのです。なかには、性行為にのめり込む人もいます。妖しげな官能の刺激と性的な興奮、そして、イク時の快感だけが、自分のことを分かってくれるのです。行きずりの人と裸で抱き合って、体がひとつに繋がっているときだけが、誰かに分かってもらえるときなのです。

 しかし、このような刺激によって、分かってもらえたという錯覚を得ることが出来たとしても、それはまがい物でしかありません。心の支えを持ち合わせていない人というのは、常に心が崩れ続けていますので、自分の存在がすべて崩れて、無くなってしまわないように、常に刺激を与えていなければならないのです。

 そして、私たちが「誰も、分かってくれない」と感じたときにありがちな行動というのが、自分で自分を見捨てるというパターンです。考えてみれば、人から見捨てるようなことを言われたからと言って、なにも自分で自分を見捨てることはないと思うのですが、心の支えを持っていない人というのは、「見捨てる人」以外には仲間がいませんので、しかたなく、見捨てる人と一緒になって、自分で自分を谷底に突き落とすのです。「私なんか、どうなってもいいんだ」と言って、自分で自分をダメにしてしまうのです。

 人から見放されたからと言って、自分で自分を見放す必要は全くないのです。逆に人から見放されたときに必要なことは、自分で自分を支えて、自分で自分を励ますことなのです。しかし、境界例の人はそうはならないのです。誰かに分かってもらえないきには、自分でも自分のことを分かろうとしなくなるのです。自分で自分を支援する事が出来ないので、見捨てられた惨めさと敗北感に浸ってしまい、その泥沼の中で溺れてしまうのです。そして、誰も分かってくれないのなら、誰にも理解できないような生き方をしてやる、と決心してしまうのです。たとえば、食べることを拒んで、すでにガリガリに痩せているというのに、さらにもっと痩せたいなどという、普通の人にはとうてい理解できないような事を考えたりするのです。あるいは、手首をカッターで切って血だらけになったりして、普通の人から見れば、さっぱり分からないような行動をとったりするのです。なぜこんな行動をするのかと言えば、誰も分かってくれない事への怒りであり、当てこすりなのです。すべての責任は、なにも分かってくれなかったお前たちにあるんだと言って、ボロボロになった自分を見せつけるのです。あるいは、ひとりきりになって、分かってもらえない寂しさに浸りながら、傷だらけの自分を見つめて、冷たく笑ったりするのです。

 しかし、このような破滅的な行動も、回復するに従って、思考パターンにある種の大きな変化が現れてきます。そして、分かってもらえない状況への対処の仕方が変わってくるのです。次回は、このような大きな変化について書いてみます。

つづく


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【 境界例と自己愛の障害からの回復 】