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誰も私のことを分かってくれない(中)
    
2004年 6月22日  ver1.0

 前回は分かってもらえないときの心理状態について考察しましたが、境界例の人たちも、やがて回復して来るにつれて、徐々に見捨てられるような状況にも耐えられるようになってきます。治療などによって、支持的な体験を積み重ねたり、セラピストにサポートされたりしながら、少しずつ「見捨てられ感」を直視できるようになってきます。人によっては、社会生活の中でさまざまな人生経験を積み重ねて、少しずつ自分というものが分かるようになってきます。自殺願望もなくなってきて、破壊的な過剰反応も減少してきます。かつては、まるで真っ暗な谷底に突き落とされるように感じていた出来事も、回復するにつれて、それが踏み台から落ちた程度のダメージで受け止められるようになってきます。ダメージを受けても、かつてのような絶望感にとらわれることもなくなってきます。そして、少しずつ現実というものが見えてきます。

 このように、全体的な状態が改善して行くと、ある時点で思考パターンが大きく変わることがあるのです。このような思考パターンの変化は、私の経験から言って、だいたい二つのパターンがあるように思います。ひとつは、自己愛が膨らんでくる「自己愛型」で、もうひとつは、親との心理的な分離が進んで、自己中心的な思考パターンから抜け出す「分離型」です。この二つのパターンは、はっきりと区別できることもありますが、両者が混在しているようなパターンもあるように思います。

 この二つのパターンについて説明をする前に、ここでひとつ注意しておきたいことがあります。自己愛型にしても、分離型にしても、これはあくまでも回復に伴って自発的に現れてくる変化なんだということです。ですので、まだ自殺願望のある人や、うつ状態を抱えている人は、まだこの文章を読まない方がいいと思います。精神的な基礎のできていない人が、こういう思考パターンを真似しようとすると、逆に傷が深くなってしまいます。ですので、そういう人は、もっと回復してから読んでください。それでも、どうしても読みたいという人は、自己責任で読んでください。

よろしいですね。

 では、まず自己愛型から書いていきましょう。精神的な状態が回復してきたころに、「なぜ、誰も私のことを分かってくれないのだろうか」と、自分に問いかけてみたとき、ここにひとつの明快な答えが浮かび上がってくるのです。それは、「みんなが、バカだからだ」ということです。あいつも、こいつも、みんなバカだから、私のことを理解できないのです。どいつもこいつも、みんな頭の足りないバカだったのです。バカというのは、どこまで行ってもバカです。たとえ宇宙の果てまで行ったとしても、バカはバカのままなのです。ですから、どこまで行っても、絶対に私のことを理解できないのです。こんなバカな連中に分かってもらおうとしていた私も愚かだったのです。もう、こんなバカな連中を相手にするのは止めよう。ゴミみたいな、カスみたいな連中に分かってもらう必要はないのです。「バカとハサミは使いよう」という諺があるように、これからはバカなやつらの利用方法を考えていこう。

 読んでいて不愉快になったり、腹が立ってきたり、あるいは自分がバカにされているように感じて、傷ついたりたりする人もいるかも知れませんが、自己愛型の思考パターンは、こんなふうに展開していくのです。境界例の専門家の中には、「境界性人格障害が治るということは、すなわち、自己愛性人格障害になることである」というような極端なことを言う人もいますが、これはあながち的外れとも言えないのです。すべての人ではないと思いますが、何割かの人にとっては、回復して行く過程で、自己愛が大きく膨らんできて、程度の差はあるかも知れませんが、なかには自己愛性人格障害に移行して行く人もいるようです。

 今までは相手の理解力などを考えずに、分かってもらいたいという衝動だけで行動していました。そして、分かってもらえるはずのない人に分かってもらおうとして傷ついていたのです。この繰り返しだったのです。しかし、精神的な状態が良くなって来るに従って、相手のことが以前よりも良く見えるようになってきます。そして、人を見下すという形ではありますが、相手の能力の限界というものが、実感として理解できるようになるのです。それと同時に、分かってもらいたいという気持ちも、ここである程度吹っ切れるのです。これからは、もう分かってもらえなくても、以前のように深く傷つくことはないのです。そして、人を見下すという形を取ることで、分かってもらえない寂しさを中和するのです。

 今までは悲劇の主人公でした。理解してくれない親に傷つき、分かってくれない無神経な人たちに傷ついてきました。さらに、分かってもらえないという絶望感に浸るために、自分で自分を傷つけて、悲劇の演出効果を上げていたのです。今までは、こういった被害者意識の支配する自己中心的な世界に浸っていたのです。しかし、これからは人を見下すことで、自己愛的な自己中心の世界が開けてくるのです。両者は表面的には大きな違いですが、自己中心性という点ではよく似ているのです。

 私のことを理解できる人だけがマトモな人間であり、理解できないやつらはすべてバカなのです。そう考えると、まわりの人たちがみんなバカに見えてきます。テレビを見ても、新聞を見ても、世の中はバカばっかりです。あちこちで山猿みたいな連中が盆踊りをしています。もうこんな、足りない奴等の相手をするのは、やめたのです。脳味噌が、髪の毛の肥料にしかなっていないような連中は、もう相手にしないことにしたのです。もしも、周りの人たちがみんな便所虫のような存在に見えるのであれば、そんな便所虫どもに私の気持ちが分かるはずがありませんし、分かってもらう必要もないのです。そして、そんな便所虫どもに向かって、わざわざ悪態をつく必要もないのです。

 こうやって人を見下すようになったからといって、自分が急に優秀な人間になったわけではありません。能力的には今までと同じなのですが、ただ考え方が変わったのです。私は、こんなバカな奴等とは違う特別な人間であって、私のことを理解できるのは特別な人たちだけなのです。そして自分が、特別な、選ばれた存在になったという空想に浸ることで、まだ少し残っている、分かってもらいたいという気持ちを中和させるのです。こうすることで、分かってもらいたいという気持ちも吹っ切れるのです。もうバカな奴等と分かり合う必要はないのです。

 ここでちょっと話が脱線しますが、ある小さな会社にいたころ、こんなことがありました。仕事のことで職場のみんなと話し合っていたときに社長が来て、不愉快そうに「オイ、ちょっと来い」と言って、私を隣の部屋に呼んだのです。そして、こう言ったのです。
「分かり合う必要なんかないっ! 自分の言いたいことだけ言っていればいいんだ。まあ、あまり言い過ぎると問題だけどな。だから、お前もこれからはそういうふうにしろ!」
 これを聞いたときは、さすがに唖然としましたが、あとで考えてみれば、なるほど、こういう考え方もあるのかなと思いました。企業の経営者というのは自己愛型の人が多いですから、人間的に分かり合うよりも、いかに他人を利用するかということを中心に考えるようになるのでしょう。経営者の立場としては、「オレが作った会社」ですから、自分のやりたいようにやって、それが嫌な奴は勝手に辞めていけばいいのです。

 話を元に戻しますと、このようにして、これからは自分の利益のために他人を利用するのです。そして、自己愛を補強するために、他人を利用するのです。もし「利用」するという言い方が引っかかるのであれば、「利用」を「起用」と言い換えてもいいでしょう。つまり、自分の利益や自己愛を補強するために、他人をうまく「起用」するのです。

 かつては自分を過小評価して、自分の存在を抹殺してしまおうとまで考えていたのですが、その反動として、今度は自己愛が大きく膨らんでくるのです。そして、人によっては、自分がかつて境界例であったにもかかわらず、これからは境界例の人をバカにするパターンを取る人もいるのです。自己愛が膨らんできた状態で、境界例の人たちを眺めてみますと、愛情に対するあまりの卑しさや、貪欲さが、妙に鼻についてくるのです。そして、ちょっとしたことで絶望したり、自分の不幸をひけらかしたり、すぐに感情的になって破滅的な行動をとる人たちが、バカに見えてくるのです。自分自身も、以前はそういう状態であったにもかかわらず、そんなことは、すぐに遠い過去の出来事になってしまうのです。実際に読者の方からも、「いつまで境界例をやっているんですか。私なんかもうとっくに卒業しましたよ」というようなメールをいただくこともあるのです。しかし、なかには境界例から足を洗いきれずに、自己愛を補充するために、境界例の人をパートナーにする人もいます。まだ残っている自分の心の影の部分を、パートナーに演じてもらうのです。

 このようにして自己愛が膨らんでくると、いろいろなパターンで人を見下したりするのですが、ここでは「人を見下してはいけません」というような、無邪気な道徳の話をしているのではありません。たしかに、人を見下すということは、いろいろな問題を抱えてはいますが、これもひとつの前進なのです。歪んだ状態ではありますが、今は守るべき自分というものが存在するようになったのです。以前は自分を投げていました。自分で自分を見捨てていました。しかし、今は守るべき自分というものがあるのです。

 私たちは普段、あまり意識しなくても、人を見下すことで自分を守っている部分があるのです。自分よりも不幸な人を見て、口には出さなくても、ああはなりたくないという思いが、現在の生活のレベルを維持していくための心の支えになっている部分があるのです。道徳的なきれい事ではなくて、これは生きていくために必要な自己防衛でもあるのです。今までは、自分というものが無くて、自分が無いということにさえも気付かずに、自分と他人の境界が混乱したまま生きてきました。しかし、人を見下すことで、歪んではいますが、自分のというものの輪郭が多少は描けるようになったのです。ですから、自己愛の膨張は、人によっては、かなり行き過ぎてしまう面はあるものの、回復して行く過程で通らなければならない通過点のひとつであると考えることもできるのです。

 最後にもう一度書きますが、これはあくまでも自発的に現れて来る思考パターンの変化のひとつですので、まだ心の基礎ができていない人が真似しようとすると、さらに状態が悪化するかも知れませんので十分注意してください。
 次回は、思考パターンが自己中心性から抜け出していく「分離型」について書きます。

つづく


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【 境界例と自己愛の障害からの回復 】