ホーム思考と行動の問題点

人間関係の操作 1

人間関係の操作入門  まず基礎的なことから
    Ver 1.0 2000/10/24

【 警 告 】
 この文章は、あなたの精神的なバランスを崩して、症状を悪化させる可能性があります。重症の人や、うつ状態の人、自殺願望の強い人、空虚感に苦しんでいる人、精神的にひどく不安定な人は、今は読まない方がいいでしょう。症状が改善してから読んだ方がいいのではないかと思います。
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 人間関係の操作というのは、普通の人にも見られることでありますが、境界例の人の場合には、それが周囲の人を混乱に巻き込むような破滅的なものであったり、演技的でわざとらしく思えるようなものであったりします。しかし、ときには実に要領よく振る舞って、巧みに周囲の人を操るような場合もあります。このような境界例の人による人間関係の操作というのは、いろいろな本に断片的に書かれてはいますが、操作に関して総合的に書かれた資料が見あたらないため、私なりに、自分の体験もふまえた上で、基本的な事柄や、いくつかの類型的なパターンなどについてまとめてみました。このシリーズでは、これらのことについて、順を追って書いてみたいと思います。

 境界例の人の操作を、演劇にたとえるならば、この劇には三種類の登場人物が登場します。主役である「境界例の人」、操作に欠くことのできない脇役である「だまされる人」、そして、だまされることなくその演技性を「見抜いている人」の三種類です。これらの登場人物の特徴を、ひとつずつ見ていきましょう。

 まず最初に登場するのは、主役である境界例の人です。操作の動機は、見捨てられ不安や分離不安への防衛であり、それが直接的な形ではなくて、たとえば、かまってもらいたいとか、寄りかかりたい、注目されたい、関心を持ってもらいたい、面倒を見てもらいたい、誰かに助けてもらいたい、というような形で出てきます。これらの衝動はせっぱ詰まったような、あるいは叫び出したくなるような切実なものなのですが、同時に「どうせダメなんだ」「どうせ誰もかまってくれないんだ」「誰も私を理解してくれないんだ」という、はてしない失望感も併せ持っているのです。つまり、「誰かに助けてもらいたい」という切実な思いと、「どうせダメなんだ」という失望感の、二つの矛盾した思いがぶつかり合っているのです。そして、どうせマトモな形で訴えても相手にしてくれないのなら、ちょっと違った手段を使ってみようか、つまり、ちょっと卑怯でズルイやり方だけれども、少しばかり嘘の芝居をしてみようか。そうすれば、もしかしたらみんなが振り向いてくれるかもしれない。そして、もしかしたら自分の気持ちが分かってもらえるかもしれない。自分の望みがかなえられるかもしれない。と、そう考えるのです。

 ここで、その演技性についてですが、ひとくちに演技性とは言っても、自分で分かっていてわざとやっているものから、私が個人的に「意識の二重化」と呼んでいる、自分では演技しているという意識がまったくないようなものまで、連続的に存在します。もしも、わざと自分を傷付けて病気人を演じたりするような場合には、虚偽性障害のところに書いたようになるのですが、ここで私が取り上げたいと思っているのは、演技しているという意識がない、意識の二重化の方なのです。

 では、意識の二重化とはどういうことなのかということについて説明します。ことわざに「敵をだますには、味方から」というのがありますが、これと同じようなことが心の中で起こるのです。つまり、周囲の人をだまして操るためには、まず最初に自分自身をだまさなければならないのです。具体的に言いますと、たとえば絶望的な気持ちになって周囲の人に対して、さかんに「死にたい」というようなことを漏らしたとします。このときには、決して意識的に演じているのではなくて、本当に死にたくなるような精神状態なのです。本人は本気でそう思っているのです。しかし、この絶望感は、意識のレベルでは本当なんだけれども、無意識のレベルで言うと実際には嘘なのです。

 このような現象は、私が自分の演技性に気付いたときの体験を書いた方が分かりやすいかもしれません。私が絶望的に気持ちになっていたとき、周囲の状況が急に変わって、もう絶望する必要がなくなったことがありました。そして、そのとき突然、気付いたのです。だまされていたことに。それまでの私は、本気で絶望的な気持ちになっていたのです。まさか計算の上でわざと演じていたなどとは思いもよらないことだったのです。しかし、急に状況が変わって、演技の必要がなくなったとき、絶望感などはどうでもよくなったのです。では、それまでの絶望感はいったい何だったのかというと、嘘だったのです。私はだまされていたのです。では、いったい誰にだまされたのかと言えば、自分自身にだまされたのです。もう一人の、計算高くて卑しい自分にだまされていたのです。そして嘘に気付かないまま、本気で絶望していたのです。本気で悲観的になっていたのです。ですから、自分がだまされていたことに気付いたときには、それまで本気になっていた分だけ、非常に腹立たしい気持ちになりました。しかし、怒りの持っていきようがありません。なぜならば、自分をだましていたのは、ほかでもない自分自身だったからです。結局のところ、こんなバカなことをやっている自分というものが、あまりにも浅ましく思えてきて、自己嫌悪に襲われてしまいました。

 ではこのような状態のとき、心の中ではどのようなことが起きているのかについて少し整理してみましょう。まず最初に、自分に関心を持ってもらいたいとか、誰かに振り向いてもらいたいとか、そういう願望があります。こういう気持ちをもっとストレートに表現できればいいのですが、それまで育ってきた過程で、「どうせダメなんだ」ということを学習しているのです。自分のつらい気持ちや苦しい気持ちを理解してもらいたいと思っても、いままでに何回となく裏切られ、失望させられて来たという体験を持っているのです。だからといって、完全に失望しきってあきらめているわけでもないのです。もしかしたら、もっと大げさで極端な行動に出れば振り向いてくれるかもしれない、そして、私が苦しんでいるのだということを理解してくれるかもしれない、そういう希望を持っているのです。そして、演技的な行動をとることによって、自分の願望を満たそうとするのです。あるいは、過去において本当に事故にあったり病気になったりしたときに、それまで得られることのなかった親身な愛情や関心を獲得できた体験があったりすると、それに味をしめてしまい、その次からは演技的な行動によって、もう一度あのときのような周囲の人の関心を獲得しようとするのです。そして、実際に演技的な行動をすることによって、ある程度はうまくいくのです。そして、このような成功体験が得られると、さらに演技性が発達していくことになるのです。

 しかし、ここで一つの問題が発生することになります。それは、自分が演技をしている、つまり「嘘の芝居をしている」という罪悪感です。もしも、この罪悪感という歯止めが無かったりすると、嘘がどんどんエスカレートしていって、やがて反社会的人格障害の方向に行ってしまうのですが、罪悪感を感じてしまう場合には、何とかしてこの罪悪感を処理しなくてはなりません。なんとしてでも、自分が正当な「いい子」や正当な「善人」で居続けるための方法を探らなければなりません。そこで、邪魔な罪悪感を処理するために、ズルイ自分を意識から追い出してしまうのです。つまり、自分というものを二つに分割するのです。分割された二つのうちの一つは、演技の演出をしている自分です。周囲の人たちに与える影響を計算して、どのように嘘を演じたらいいのかということを考えているのです。さらにここには、「楽をして、うまい汁を吸おう」という計算も加味されてきます。通常ならば実現困難なことでも、ちょっとばかり芝居をして周囲の人を操作すれば、簡単に手に入れることができるからです。こういうことは、それまでの経験によって学習してきているのです。そして、楽をしてうまい汁を吸いたいという思いは、自分が赤ちゃん返りをして、周囲の人から赤ん坊のように扱ってもらいたいという、非常に切実な願望とも一致してくるのです。しかし、このようなやり方は、ズルイやり方なんだということも、直感的に理解しているのです。たとえば、みんなが額に汗して働いて手に入れているものを、自分だけがズルイ手段を使って手に入れようとしているかのような、なんとも後ろめたい気持ちがあるのです。そこで、どうするのかというと、こういうズルイ自分は、意識から切り離して、無意識の世界へ追いやってしまうのです。ですから、演技を計算しているズルイ自分というのは、意識のレベルには上ってこないのです。要するに臭い物にはフタをしてしまえばいいのです。こうすれば、罪悪感にとらわれることなく行動することができるのです。

 ですから、たとえば、リストカットの中でも周囲の人を巻き込むことを目的とした演技型のリストカットの場合や、あるいは薬の一気飲みをして自殺未遂をするような場合、無意識のレベルでは、手首を切るときの傷の深さを加減したり、一気飲みをする薬の量を計算しているのです。このようなタイプの自殺未遂の場合、本当の目的というのは、周囲の人を巻き込んで、自分の抱えている苦しみに関心を持ってもらうことにあるわけですから、決して致命的な傷や、致命的な薬の量にはならないように計算が働いているのです。かといって、傷が浅すぎたり、一気飲みする薬の量があまりにも少なかったりすると、周囲の人からどこまで本気なのかと疑われてしまいます。ですので、自分の置かれている状況に応じて、演出効果が期待できるような傷の深さや、それなりのダメージが得られるくらいの薬の量が、無意識的に計算されるわけです。

 このように計算高くて演出効果を考えている自分と、もう一人の自分、つまり演技や打算などを頭から否定して、本当に心の底から苦しんでいる自分というのが同時に存在するのです。つまり、無意識レベルの自分によって操られている、意識レベルの自分がいるのです。両方とも自分なのですが、無意識の世界へ追いやってしまった方の、ズルイ自分というのは、意識することができません。ですから、本人としては、これは演技ではなくて、すべて本当のことなのです。ですから、もし第三者が「わざとらしい」とか言ったりすると、本人はムキになって、本気で怒ったりするのです。あるいは、精神的に本当に傷ついてしまい、ボロボロになったりするのです。しかし、怒ったり、傷ついたりするという行動も、もちろん本人としては本気でそうしているのですが、無意識レベルでは残念ながら違うのです。これが、私が個人的に「意識の二重化」と呼んでいるものです。「敵をだますには、味方から」という諺そのものがここにあるのです。そして、このような屈折した形でしか自分の気持ちを訴えることが出来ない精神的な事情というのもあるのです。

 さて、そこで次に登場するのが、欠くことの出来ない脇役である「だまされる人」です。だまされるというと、ちょっと言葉は悪いですが、演技性に気付かないでいる人たちのことです。そして、この人たちには、さらにいくつかのパターンがあります。

 境界例の人の操作が、まず最初に自分自身をだますということから言って、周囲に第三者がいないような場合でも、操作性が自分自身に向かって行なわれていて、それが自分自身に対する言い訳や自己陶酔という形で現われることがあります。しかし、このような操作というのは、やはりだまされる第三者がいてこそ、その本領を発揮するのです。この操作に巻き込まれてしまう第三者というのは、最初は素朴な親切心で境界例の人のに接していくのですが、時間が経つにつれて、どうも変だと感ずるようになり、やがて、「見抜いている人」へと移行して行くパターンがあります。しかし、いつまでたっても演技性に気付かないまま、境界例の人に操られ続けている人もいるのです。

 困っている人を見ると助けてやりたくなったり、親切な態度で接してやったりするのは、普通の人が持っている人間的としての素直な良心です。ですから、最初のうちは演技的な操作に気付かないまま振り回されてしまうのも、ある意味では仕方のない面もあるのです。しかし、問題は、果たしてどの時点で演技性に気付くかということです。ある程度常識的な感覚を持っていれば、途中で、どうも変だとか、どことなくわざとらしいとか、不自然だとか、そういうことを感ずるようになるのです。しかし、もし境界例の人の操作が非常にうまかったり、あるいは、だまされる人の側にも、境界例的な傾向があるような場合には、なかなか演技性に気付かなかったりします。このような気付かない人は、境界例の人の演技に強く「共感」しているのです。たとえば私たちが劇場で芝居を見ているときに、登場人物に感情移入して涙を流すのと同じように、境界例の人の演技にも共感してしまうのです。へたな役者が主人公を演じていたとしても、観客によってはしらけずに強い共感を示す人もいるのです。そして、下手な芝居にも白けずに共感を示す人というのは、やはり境界例の人と同じような問題を抱えているか、あるいはその人自身も境界例だったりするのです。

 ここで、やっかいなパターンとして、操作しているのが実は主役である境界例の人ではなくて、脇役のだまされる人だったりすることがあるのです。表面的には、主役である境界例の人に振り回されてるように見えていながら、実はこの人が陰の主役なのです。境界例の人は、脇役の人の書いたシナリオに沿って、踊らされているだけなのです。こうなってくると、どっちが操作しているのか、どっちが巻き込まれているのか分からなくなってきたりします。

 最後に、第三の登場人物である「見抜いている人」のことを書きましょう。この見抜いている人というのは、先ほど触れましたように、だまされる人から移行してくるパターンがあります。しかし、最初から演技性を見抜いている人もいるのです。いずれにせよ、境界例の人の演技性に気付いている人たちなのですが、この人たちにもいくつかのパターンがあります。

 まず最初に、距離を置いて近付こうとしない人たちがいます。わざとらしい行動に、うさんくささを感じて、そういう人と関わり合いになることを避けようとします。しかし、相手が赤の他人ならばいいのですが、会社などの組織の関係で、立場上なんらかの関わり合いを持たざるを得ないこともあります。そういう場合でも、できるだけ距離を置こうとしますが、立場上どうすることも出来ずに、やむなく巻き込まれてしまう場合もあります。このような場合には、やがて演技的な操作に憎しみを覚えるようになったり、時には攻撃的な態度に出たりすることもあります。

 演技性に気付いている人の中には、そのわざとらしさを面白がって、からかってやりたくなったりする人もいます。バカにしたような冗談を言ってみたりするのですが、このような行動は、場合によっては、境界例の人に共感している人たちの反感を買うこととなり、逆に自分の方がバカにされて、浮いた存在になってしまうこともあります。しかし、それにもかかわらず中には最初から露骨な嫌悪感を示して、攻撃性をあらわにする人もいます。このような人は、演技的な行動にひどく敏感だったりして、それを鋭く見抜いたりします。なぜそうなのかというと、自分自身にも同じ要素があったりするからなのです。ですから、自分と同類の人を実に鋭く嗅ぎ分けて、激しく嫌悪したりするのです。このタイプの人の中には、そういう意味で、境界例に該当する人、あるいは境界例の傾向のある人なども含まれることになります。

 理想から言えば、操作性を見抜いていても、操作に巻き込まれることなく、冷静で中立的な状態を保っていたり、あるいは、ある程度支持的な態度で対応できればいいのですが、治療場面のような管理された状況ならともかく、日常的な場面では、困難なことが多いのではないかと思います。

 このような、いろいろな登場人物について、あまり一般論的なことばかり言っても、なかなか分かりにくい面もあるかと思いますので、次回から、具体的なパターンをひとつずつ取り上げて、その中で詳しく説明していきたいと思います。現実的に言えば、境界例の人の行動が操作を目的としているのか、あるいは演技ではなくて本物なのかという、その分かれ目が非常に紛らわしいという問題があるのです。もし、本物の被害者に向かって、「わざとやっているのではないか」というようなことを言ったり、そのような態度を取ったりすると、これは虐待になってしまいますので十分注意しなければなりません。しかし、境界例の人からすれば、その紛らわしさこそが狙いなわけです。そして、周囲の人たちも、その紛らわしさゆえに混乱することになるのです。

 ということで、次回は、他人の罪悪感を利用した操作パターンを取り上げてみたいと思います。このパターンは、自分が深く傷つくことによって、非常に気まずい雰囲気を作り出すのです。そして、相手の人に、傷つけたことへの罪悪感を抱くように仕向けておいて、それで相手の人を操作しようとするのです。そして、ここにも、本当に傷ついているのか、あるいは操作を目的として傷ついているのかということが、非常に紛らわしいという問題が出て来るのです。次回は、このようなことについて、いろいろと考察してみたいと思います。


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