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2002年10月03日 Ver1.0
【 警 告 】 前回書きましたように、私が就職してから、キレて辞めるまでの間には共通したパターンが見られますので、ここには当然のことながら、共通した原因があるはずなのです。しかし、どういうわけか今までは、その原因が分からなかったのです。 しかし、ある時のことでした。この精神的な息苦しさや、窒息しそうになる感覚について、ふと思い当たることがあったのです。新しい仕事にも慣れてきて、職場の人間関係が少しずつ分かってきたころに感ずる、あの精神的な息苦しさや閉塞感というのは、そういえば、ずっと以前にも、まったく同じような感覚を体験していたのではないかと自分を振り返ってみましたところ、思い当たることがあったのです。 それは、思い出すだけで、気が滅入ってしまうようなことなのですが、職場で感じた息苦しさや閉塞感というのは、まぎれもなく、私自身が家族と一緒に生活していたころの、幼いころから思春期にかけての、あの閉塞感そのものだったのです。あの、出口のない閉塞感。砂を噛むような空虚感。家族という狭い人間関係の中で、精神的にすりつぶされていくような閉塞感。薄暗い部屋の片隅で、家具の上にうっすらと積もったホコリを、じっと見つめていたときの、あの、どんよりと淀んだ、重苦しい閉塞感。こういった、やり場のないような閉塞感そのものだったのです。つまり私は、家族との人間関係を、そのまま職場で、繰り返し再現していたのです。自分でもまったく気付かないままに、親子関係を、いく度となく職場で再現していたのです。 このことに気付いたとき、私は愕然としてしまいました。結局は家族という閉ざされた関係から逃げることができないのだという、やりきれない思いにかられたのです。イヤで、イヤでしょうがなかった親との関係が、まるで背後霊のように、ずっと私にまとわりついていたのです。私は親から離れて、自分の意志で自由に生きてきたつもりだったのですが、実際には親子関係という、目に見えない糸に操られ、人生を支配されていたのです。かつての歪んだ親子関係によって、転職を繰り返すようなプログラムが、知らぬ間に私の心の中に組み込まれていたのです。このような視点から、自分の行動を振り返ってみますと、思い当たることがたくさんあるのです。 まず、思い浮かんでくることは、家出へのあこがれです。家の中の淀んだ空気に耐えきれずに、そこから抜け出して、まったく正反対の、自由で解放的な世界にあこがれていたのです。とにかく、どこか遠くに行きたい。親から出来るだけ遠く離れたところにある、まったく別の世界に行きたい。そして、遠い世界で放浪者のように、自由気ままに流浪の旅を続けていたいと、そんなことを考えていたのです。しかし、私には家出を実行する勇気がありませんでした。家出をしても、その後の生活の事とか、お金の事とかを考えると、気の小さな私には、なにも出来なかったのです。中学生のころ、家出した同級生がいて、私は彼のことをとてもうらやましく思ったことがありました。 しかし、家から遠く離れたところにある会社に就職して、自分で収入を得るようになってからは、家出願望を実行することが出来るようになったのです。そして、閉塞感とは正反対の世界へ行くことも出来るようになったのです。この願望は、息苦しい職場から抜け出して、新しい未知の世界に行きたいという、転職願望とだぶってくるのです。毎日同じ職場で、毎日同じ人たちと顔を合わせて、毎日同じような仕事を続けなければならないという閉塞的な状況というのは、かつて実家で、毎日同じ親と顔を合わせて、毎日同じような息苦しい生活を続けなければならなかったころの、あの絶望的な閉塞感とだぶって来るのです。そして、過去の体験と現在の体験がイコールで結ばれてしまうのです。ですから、この息苦しさから抜け出すためには、まったく違う人たちと、まったく違う関係を作って、まったく新しい生活をしなければならないのです。これがつまり、かつての家出願望であり、大人になってからの転職願望であり、常に変化を求め続けるという、実に不安定な行動パターンの原因となっているのです。 新しい人間関係であっても、やがて目新しさが無くなって、徐々にその関係が停滞してくると、そこには、かつての親との関係がだぶってきて、やがてかつての親子関係と同じような精神的な息苦しさが再現されることになるのです。ですから、人間関係が停滞してくると、そのたびに精神的な閉塞感を避けるために、人間関係をリセットしなければならないのです。こうして、転職を繰り返すことになって、その結果、変化の多い人生を送ることになったのです。つまり、人生を微分した値が大きくなってしまった、という訳なのです。 このように人間関係をリセットするという行為は、サビの上から直に真っ白なペンキを塗るのに似ています。表面的にはこれで真っ白になって、きれいに見えるのですが、時間がたつと、あちこちに茶色のシミが出てきて、やがてペンキも剥げ落ちて、醜悪なサビが顔を出すのです。すると、私は耐えきれなくなって、再びその上から真っ白いペンキを塗るのです。私の転職行動というのは、この繰り返しだったのです。転職によってまったく新しい人間関係を求めても、最初のうちはいいのですが、時間がたつと少しずつ人間関係がぎくしゃくしてきて、トラブルが多くなっていくのです。結局、下地になっているサビ自体を取り除かなければ、問題は解決しないのです。つまり、親子関係という、サビて淀んだ閉塞感と正面から向き合わなければ、本質的な問題は解決しないのです。 とは言うものの、かつて感じていた、あの不毛な感覚と向き合うのは、とてもつらいことです。ですから、今まで、無意識的にこの問題を避けていたのです。親子関係を職場で再現してしまうという、こんな単純なカラクリに今まで気付かなかったのも、直視するには余りにも辛かったからなのです。しかし、今になってやっとこの問題に気付いたということは、この問題と向き合えるくらいに回復してきたということなのかもしれません。ということで、この閉塞感というやつを、もう少し分析してみましょう。ここには、親が仕掛けてくる、さまざまな心理操作が潜んでいるのです。 まず、この閉塞感の正体とはいったいなんなのかと言いますと、それは、私の場合には、ちぐはぐな親子関係から来ているのです。心がまったくかみ合わずに、いつも的外れな反応しか返ってこない親に対する苛立ちがここにあるのです。たとえば、これは小学生のころのちょっとした出来事なのですが、私はそのころ、祖父から譲り受けた、古い机を使っていました。ある日、学校から帰ってくると、その古い机が、突然新品の真新しい机に入れ替わっていたのです。私はそれを見て、ショックでぼう然としてしまったのです。古い机は私なりに愛着を持って使っていたのに、私に何の相談もなく、親が勝手に机を替えてしまったのです。母が「新しい机を買ってやったのに、なんで喜ばないんだ」と言っているのが聞こえたのですが、私はショックで、ただぼう然としているだけでした。やがて、父と母は、あきれ果てて、「変わった子だ」と吐き捨てるように言って、それでこの机の話題は終わってしまったのです。 もしも、前もって「新しい机を買ってやろうか」と言ってくれれば、まったく違った展開になっていたことでしょう。そして、親子で一緒に机を買いに行っていたら、こんな惨めなことにはならなかったことでしょう。しかし、私の親はそういう発想が、まったく出来ないのです。子供との心の交流が、出来ないのです。そして、子供をまるで自分の延長のような存在として扱い、自己満足のために子供を利用しようとするのです。 おそらく親は、いきなり新しい机を見せて驚かせてやろうと考えたのでしょう。そして、古い机の引き出しに入っていたものを、私に無断で引っかき回して新しい机に移したのです。これは、私のプライバシーの無視であり、個人としての私の存在を否定したことになるのです。しかし、私の親にはこういう発想が、まったく出来ないのです。ただ、子供に机を買ってやったんだという、そういう自己満足に浸りたいだけなのです。そして、愛情あふれる親を演じたいがために、私を「都合のいい子供」として利用しているだけなのです。今の私なら、親に言い返すことが出来ます。「変わっているのは、お前たちの方だ」と。しかし、当時の私は、せっかく新しい机を買ってもらったのに全然うれしくないのは、私が変わっているからなのだと、そう思うしかなかったのです。 こういう親子関係のちくはぐさは、生活のあらゆる場面で発生していました。そして、私は、気持ちの通じない親、言葉の通じない親、なにを言っても理解してくれない親に苛立ちと絶望感を感じていったのです。 こういった親の的外れな行動は、田舎の人がやる、押し売りのような接待によく似ています。たとえば、これはある小さな会社の社長さんから聞いた話なのですが、工事の打ち合わせで田舎に行ったときに、地元の人の家で接待を受けたのだそうです。そして、打ち合わせが終わると、テーブルにずらりと地元の料理が並べられて、これを食え、あれも食えと言われて、まるで大食い大会のようになってしまったのだそうです。「もうお腹がいっぱいですから」と言っても、「いいや、これを食べるまでは帰さない」ということになったのです。工事を受注している以上は、相手の気を悪くするわけにもいきませんので、満腹のお腹に、さらに無理矢理ごちそうを押し込んで、ひきつったような笑顔を作りながら、「おいしいですね。でも、もうお腹がいっぱいで、…」と言っても、「いいや、遠慮しないで、どんどん食べろ。そら、これもおいしいぞ」と言われてしまうのです。そして、社長さんの言葉を借りると、「あれは、本当に地獄だった」という状態になるのです。最後には、吐きそうになるのを必死で我慢していたので、血の気が引いてきて青ざめてきたのだそうです。そして、これは本当にヤバイと言うことで、死にものぐるいでその場を辞退して、やっとのことで車に乗って宿に帰る途中、とうとう道端で吐いてしまったのだそうです。 接待というのは、本来ならば相手に喜んでもらうために行われるのですが、ここではまったく逆になっているのです。つまりこれは、相手に喜んでもらうための接待ではなくて、自分が満足するために行われる接待なのです。都会から来たお客を接待してやったんだ、こんなにたくさんのご馳走を食べさせてやったんだという、そういう自己満足を得ることが目的なのです。ですから、こういう状況になってしまうと、人間が一度にどれくらいの量を食べられるのかという、そういうマトモな判断すらできなくなってしまうのです。そして、お客を自己満足を得るための道具として利用して、接待という美名のもとに虐待が行われるのです。この社長さんが受けた田舎での接待とその後の嘔吐というのは、ちょうど摂食障害の人が、「歪んだ愛情」という名の食べ物を、育児という美名の元に、親からむりやり食べさせられた結果、あとでそれが過食と嘔吐を繰り返すという症状となって現れて来るのに似ています。 こういう自己満足のことしか考えていないような人たちに、自分の無神経さを気付かせるのは容易なことではありません。これが親子関係ともなれば、なおさらです。しかし、不幸にしてこういう親の元に生まれてしまったときには、対処方法として二つのパターンがあります。ひとつは、親の言いなりになって、自分の人間性を自分で否定してしまい、歪んだ「良い子」になってしまうパターンです。そして、もうひとつは、親に反発して人間らしいマトモな生き方を模索するパターンです。しかし、マトモな生き方を模索するとは言っても、八方塞がりで出口のないような状況では、いくらもがいてもどうにもならないのです。こうして、心の底に、少しずつ無言の憎しみが積もっていって、やがてその憎しみは、明確な殺意へと成長していくことになるのです。 親が仕掛けてくる心理的な操作というのは、ほかにもいろいろあるのですが、もうひとつ例をあげてみましょう。たとえば、子供のころに、親の愚痴の聞き役として利用されていたような場合、大人になってから、自分の存在を押し殺して相手の話を聞くような仕事、たとえばカウンセラーのような仕事を選ぶという形で現れてくることがあります。私も母から、酒癖悪い父のことについて、愚痴の聞き役として使われたことがありました。愚痴を聞いているときというのは、「自分」という存在が無くなって、ただ一方的に話の聞き役として母親に奉仕させられるのです。ですから私が大人になってから、「君は話を聞くのがうまいね。こんなにしゃべったのは久しぶりだよ」などと言われたときというのは、母親との関係が再現しているときなのです。自分の存在を押し殺して、相手に合わせていくのです。かつて母親との関係で、そういう訓練が行われた結果、話を聞くときの勘がやしなわれていったのです。しかし、私は母親から都合のいいように利用されるだけであって、私自身の愚痴を黙って聞いてくれる人はどこにもいないのです。このようにして、自分というものが無い、他人にとって都合のいい人間が作られていくのです。しかし、私が自分というものを取り戻そうとすると、そこには、かみ合わない親子関係という絶望的な壁が立ちはだかるのです。なにを言っても心が通じない、不毛な壁と直面することになるのです。そして、ここには苛立って消耗していく私、キレて暴れる私、感情を逆撫でするのがうまい私があるのです。親が一方的に私を利用しようとするならば、私の方もそれに対抗して、一方的に自分の言い分だけを押し通すのです。私はまったく聞く耳を持たず、手段を選ばず、狂ったように我を押し通すのです。そんなとき、親から「痛い目にあわなければ分からないのか」と、よく言われました。しかし、何度痛い目にあっても、分からないものは分からないのです。なぜならば、私はただ親の一方的なやり方に対抗して、私自身も親を利用して一方的な自己満足を実現しようとしているだけなのです。親が妥協しようとしないのに、なぜ私だけが一方的に降伏しなければならないのでしょうか。親が聞く耳を持たずに、自分の言い分だけを押しつけようとするから、私も同じようにして、まったく聞く耳を持たずに、ただ自分の言い分だけを押し通そうとするのです。もしも私が妥協してしまったら、私は親に支配され、利用されて、精神的に抹殺されてしまうのです。そうなったら、私は、親から操縦されるだけの都合のいいロボットになってしまうのです。ですから、私は自分を守るために、必死になって自分の言い分だけを押し通そうとするのです。このようにして、どんな犠牲を払ってでも、絶対に相手の言いなりにならない、かたくなな私が作られていったのです。 かくして、私の心の中には、他人から利用される都合のいい私と、それとは反対に、きわめて反抗的で扱いにくい私が、同時に存在することになったのです。 さて、ちょっと話が長くなってしまいましたので、ここら辺でいったん切ります。次回は、いま書いたようなことが、職場でどんな風に再現されるのかということについて書きます。 つづくホーム > 思考と行動の問題点 > 転職を繰り返す > 転職行動の分析(1) 【 境界例と自己愛の障害からの回復 】 |