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周辺の人格障害 2

依存性人格障害 
 Ver 1.0 1999/09/25

 依存性人格障害は、境界例で言うところの「見捨てられ不安」や「しがみつき」などと密接な関係にあるのですが、この、他人に依存しようという心理は、本人にとっては、ごく自然な心の動きとなっています。たとえば、ボールが低いところへ転がってゆくように、依存心の強い人は、低いところを求めて、つまり依存できるものに向かって、自然に転がって行きます。あるいは、水が低いところを求めて流れてゆくように、心は依存できる対象を求めて自然に流れてゆきます。本人にとっては、水が流れてゆくのと同じように、自然な心の動きとなっています。たとえ自分でも依存心をはっきり意識していたとしても、ついつい楽ができる方へ行ってしまいます。その方が居心地がいいと言うか、心の座りがいいのです。ですから、もし、今まで自分が依存していたものが失われたり、遮断されたりしたときに、非常な不安感や抑うつ感に襲われたりします。人によっては、その時になって初めて依存に気付いたりします。

 自己愛型の誇大感を抱いている人にとっては、自分は依存とは何の関係もないと思っている人もいるかもしれませんが、その誇大感が依存の裏返しだったりすることもあります。たとえば、表面的には威張り散らしていても、周囲の人が面倒見てやらないと、自分では何もできないようなタイプの人です。職場でも、「これワープロで打ってくれ」とか、「これコピー頼む」とか、やたらと人を使いたがる人がいます。「テメェ、暇なんだから自分でやれよ!」と怒鳴りつけてやりたくなるような人です。ささいなことでも、自分でやらないで、人にやってもらおうとするのです。ひどい人は、たとえ目の前に急須があったとしても、「おい、お茶」と、人に入れてもらおうとします。こういう人は、威張っている割りには、どこか頼りなくて、困ったことがあるとすぐ人の意見を求めたりします。

 では、その依存性人格障害の診断基準とはどんなものなのか見てみましょう。


依存性人格障害の診断基準 DSM-IV

 世話をされたいという広範で過剰な欲求があり、そのために従属的でしがみつく行動を取り、分離に対する恐怖を感じる。成人期の早期に始まり、さまざまの状況で明らかになる。以下のうち、五つ(またはそれ以上)で診断される。

(1)日常のことを決めるにも、他の人たちからありあまるほどの助言と保証がなければできない。
(2)自分の生活のほとんどの主要な領域で、他人に責任を取ってもらうことを必要とする。
(3)指示、または是認を失うことを恐れるために、他人の意見に反対することが困難である。
 (注)懲罰に対する現実的な恐怖は含めないこと。
(4)自分で計画を練ったり、または物事を行なうことが困難である。(動機または気力が欠如しているというより、むしろ判断または能力に自信がないためである)
(5)他人からの愛情および支持を得るために、不快なことまで自分から進んでやる。
(6)自分の世話をすることができないという誇張された恐怖のために、一人になると落ち着かなかったり、または無力感を感じる。
(7)親密な関係が終わったときに、自分を世話し支えてくれる源になる別の関係を必死で求める。
(8)自分が世話されず放って置かれるという恐怖に、非現実的なまでにとらわれている。

 おそらく、該当する項目があったのではないでしょうか。あるいは、当てはまる項目が五つ以上あって、診断基準を満たす人もいるでしょう。アダルト・チルドレン業界で言われている共依存というのも、精神医学的に言えばこのカテゴリーとだぶってきます。

 この依存性人格障害は、診断基準にあるように、従順で、服従的であり、自己主張がほとんどありません。自分で責任を持つことを恐れるため、すぐ他人に責任を押し付けようとします。責任を持たざるを得ないような状況になりそうだと察知すると、すぐに逃げます。人にまとわりつくことが多く、時には金魚の糞のように、他人にくっついていきます。他人の影響を受けやすく、被暗示性が高いと言えましょう。自分というものが無くて、あまりにも何でも言うことを聞くので、時には不気味に感じることさえあります。このタイプの人にとって、愛とは、一方的に依存することであったり、あるいは、お互いに依存し合うことであったりします。そして、愛とは、精神的に自立しない状態を受け入れてもらうことなのです。つまり、愛=依存なのです。

 自立への欲求が根こそぎ奪われていないような場合は、そのわずかに残っている自立心ゆえに、自分の持っている強い依存心に悩んだりします。たとえば、相手に受け入れられやすいように、ついつい良い子を演じてしまうのですが、その後で自分の演技性に対して自己嫌悪に陥ったりします。良い子を演じてしまう欺瞞性を自分でも分かっていながら、止めることができないのです。今度こそ、本当の自分を出そうと決意しても、いざその場になると、またいつものように愛敬を振りまいたりして、ついつい良い子を演じてしまうのです。あるいは、責任逃れをしている自分をなんとかしようと努力したりすることもあるのですが、いざその場になると逃てしまい、さらに自己嫌悪に陥ったりします。

 あるいは、相手の人に、母親役を演じさせようとして、さまざまな手段を使ったりすることもあります。病気になることで世話をしてもらおうとしたり、何かをわざと失敗して助けてもらおうとしたり、あるいは弱者を演じ、被害者を演じ、媚びを売ったりと、ありとあらゆる手段で相手を依存関係の中に引きずり込もうとします。自分の心にわずかに残っている自立心が、そういう欺瞞に満ちた卑怯な自分を糾弾することもあるのですが、なかなかこの状態から抜け出せません。いざその場になると、ボールが斜面を転がって行くように、心は依存の傾斜を転がってゆくのです。たとえば、困難な出来事に直面したときに最初に思うことは何かというと、どうやってこの問題に対処したらいいのか、ということではなくて、最初から「だれか助けてくれないかなぁ」ということなのです。そして、次に考えることは、「だれかに助けてもらうためには、自分はどうしたらいいのだろうか」ということなのです。これが依存性の強い人の思考パターンとなっています。

 他には、自分を相手に合わせ、相手の要求を優先するというパターンなどがありますが、この背景には、自分では自分の面倒を見れないんだという誇張された無力感があります。しかし、その一方で、自分のためになることはできないのに、他人のためになることは、いとも簡単にやってしまうのです。自分自身がさまざまな問題を抱えているにもかかわらず、自分の問題を棚に上げて、他人の問題にかかわろうとしたりします。自分自身の世話をせずに、他人の世話ばかりするのです。自分自身の世話をすることが恐いのです。自分に役に立つこと、あるいは、自分自身にとって利益になることをするのが恐いのです。これは、虐待場面でも良く見られるパターンです。暴力を振るう夫に、必死になって耐えたりします。殴られても蹴られても、見捨てられるのが恐かったり、あるいは自分さえ我慢すればという思いがあったりして、自分自身が虐待されて悲惨な状態にあるにもかかわらず、それでも自分をかえりみずに、必死になって夫のために尽くしたりします。

 さて、物事にはすべて原因があり、精神分析においてはその原因を過去の体験に求めます。そこで、この依存性人格障害の原因はどこにあるのかと言いますと、これはまさに境界例的な養育環境によって形成された障害であると言えるでしょう。ただ、こちらの方が、自立を妨害されたことへの怒りが強く抑圧されているようです。そのため、怒りの感情はなかなか表面に出てこなくて、怒りが自分自身に向かったり、あるいは、怒りの感情の存在そのものが無視されたりします。

 依存性の人の中には、自分の問題の原因を自分の過去に原因を求めるよりも、脳に原因があると言われる方を好むケースもあります。過去に原因があるなら、自分の力でなんとかしなければならなくなるためです。脳が原因でこうなるのだと言われた方が、自分で自分に責任を持たなくてもいいですし、薬を処方してもらうことで、薬の力に依存することもできるからです。

 では、どのようなメカニズムでこの人格障害が形成されるのかと言いますと、境界例と同じようなプロセスがここにあるのです。つまり、親が自分の寂しさや依存心から、子供に対して自分に依存するように仕向けるのです。このような親は、子供が成長しているにもかかわらず、まるで赤ん坊のような無力な存在として扱い、身の回りの世話を焼こうとするのです。そして、子供が自分の力で何かをすることを許さず、何をやるにも親の助けを借りてやるように仕向けるのです。もし、社会的な場面で自立を要求されるようなときでも、親は子供が自立に失敗することを無意識的に望んだりします。このような願望は直接現われるわけではなくて、間接的な形で現われます。たとえば、「あの子はうまくやれるだろうか」という過剰な心配となって現われたりするのです。ひとつの事例をあげますと、これはAという女性が、幼いころ初めて一人で学校へ登校したときの思い出です。


「私は、誇らしげに思っていました。母が、私はひとりで学校へ歩いていけると言ったのです。でも、私が角を曲がるとき、母が私のあとをついて来ているのがちらっと見えました」。 Aは振り返ってみたり、木の陰に母がいるのを見て取り乱し、怒りを感じ、同時に母がそこにいると分かって安心したことを想起した。「どうして私一人でやらせてくれないのかしら」と思ったことを覚えていた。
 ―― 精神病理と心理療法 J.スペリー他 北大路書房 より

 口では子供の自立を促すようなことを言っておきながら、自立されてしまうことに耐えられないのです。心配でたまらず、子供の後をつけたりするのです。しかも、わざと見つかるようにすることで、子供の自立心や自発性の芽を摘み取ろうとするのです。このようなことを、幼いころからずっとやっていると、子供の心に、誰かの助けがないと自分では何もできないんだという無力感が刷り込まれてゆくのです。そして、このようにして育った子供が、やがて母親になると、かつて自分がされたのと同じことを子供にするようになるのです。つまり、子供が失敗することを過剰に心配して、なんとか失敗しないように助けてやろうとするのです。これはすなわち、過保護そのものなのです。

 このようにして、困ったことがあれば母親が助けてくれるのだ、という思考パターンが刷り込まれてゆくと、やがて現実離れした夢想の世界に入り込んだりします。何かの困難に直面しても、現実を直視することがなく、楽天的でご都合主義的な見通しを抱く傾向があります。きっと誰かが現れて助けてくれるはずだという、根拠のない夢のような考えをいだくのです。幼児期に甘やかされていたので、何かの問題に直面しても、自分の力で解決しようとはせずに、きっと母親のような人が現れて、すべての状況を変えてくれるはずだという幻想にしがみつくのです。あるいは、母親でなくても、白馬の王子様が現われるとか、あるいは宝くじが当たるとか、そういった母親の出現を意味するような出来事が起きて、自分の人生が都合のいいように動いてゆくはずだというような、現実離れした他力本願の妄想をいだいたりします。

 男の子の場合、母親がまるで奴隷のように子供に仕え、身の回りのことを全部やってしまうことによって、子供は自分で自分のことができなくなってしまいます。そして、子供はそれを当然のことと思っていますから、社会に出てから、不都合なことに直面することになります。しかし、それでも周囲の人を母親のように行動させることによって、なんとか不都合を解消しようとします。そして、結婚するときには、母親のように身の回りのことを全部やってくれるような女性を選びます。そして、結婚後生まれてくる子供は、やはり過保護の母親によって、同じような運命をたどることになったりします。もし、何かの手違いで、子供に自立心が育ってしまった場合には、依存させようとする親との間に激しい葛藤が発生することになります。

 このような、養育の過程による刷り込みは、四角いスイカを作るのに似ています。スイカの実が小さいうちに四角い箱に入れてしまえば、スイカは大きくなるにつれて、周囲から押されて四角い形になってしまいます。子供を育てるときも、依存の枠でしっかりと囲ってしまえば、子供はやがて依存心の強い子供に育ってしまいます。しかし、人間とスイカは違うのです。人間の場合は修正が聞くのです。

 依存性の人は、社会的な自立を求められるときになって、自分自身の問題に直面し、なんとかしようとしたりしますが、この時に適切な治療などがなされれば、依存の罠から抜け出すことができるのです。このタイプの人は、他人に依存するような思考パターンが刷り込まれていますので、自立しようとすると、見捨てられてしまうのではないかという恐怖感にとらわれたり、どうしようもない寂しさや、人恋しさにとらわれたりします。あるいは、自分の役に立つことをしようとすると、まるで罪深いことでもするかのような気持ちになったりします。自立することが、母を裏切る行為であるかのように思われ、パニックになったりします。もし、依存する対象が失われたりすると、恐ろしいほどの不安感に襲われたり、見捨てられるような悲しみや、抑うつ感に襲われたりします。

 このような状態の時でも、セラピストによる適切な距離を置いた受容、適切な自己洞察への誘導、そして自立しようとする気持ちへの適切な支持と励ましなどによって、少しずつ状態が変わっていきます。ただし、あまりセラピストが自立を急がせすぎると、見捨てられる不安が強くなって、セラピストに対して不信感を抱くようになりますので、注意が必要です。

 自己分析においても、自分の依存傾向を探り出し、少しずつそれらを直視してゆくことによって、ゆっくりではありますが、状態が改善してゆくことでしょう。ただ、自己分析では、自立しようとする気持ちを励ましたり、支持したりしてくれる人がいないので、挫折感を味わったり、精神的に落ち込んだりすることが多いと思います。もし困難を感じるようであれば、治療を受けた方がいいかもしれません。この辺の自己分析のやり方や治療方法は境界例と同じですので「回復のための方法論」などを参考にしてください。

 依存の問題が少しずつ解消してくれば、自己決定能力や、責任能力、ひとりでいる能力、自分を主張する能力などが育ってきます。人は人、自分は自分なんだと言うことが理解できるようになり、人間関係においても、適切な距離を保った関係が作れるようになります。そして、自分ことが自分でできるようになり、自分で自分の役に立つことすることができるようになるでしょう。

 チェ・ゲバラの言葉に「最後に頼れるのは、自分だけだ」というのがありますが、これはキューバ独立のゲリラ戦の中で、ゲパラが敵との戦いや仲間の裏切りなどを通して得た教訓です。私たちは、ゲリラ戦のような殺し合いの戦闘をしているわけではありませんが、この言葉には重いものがあります。最終的には、自分がたった一人で自分の人生を背負っていかなければならないのです。世話好きで心配性の母親が現れて、すべての問題を解決してくれるのだなどという、都合のいい妄想を捨てて、寂しさや孤独に耐えながら、自分のことは自分の力でやらなければなりません。たとえ周囲の人の援助があったとしても、最終的には、自分の問題は、自分の力で解決するしかないのです。たとえ、いま自分がどんなに悲惨で惨めな状況にあったとしても、他力本願を捨てて、自分の力で生きてゆかなければならないのです。

 依存性人格障害の人が併せ持つ障害としては、不安障害や身体化障害などがあります。区別の必要な人格障害としては、境界例、演技性人格障害、回避性人格障害などがあります。境界例と依存性人格障害との違いは、依存性の場合は敵意や憎しみを表現することが非常に強く抑圧されているということと、比較的一人の人に対して長期間依存する傾向があるということ、人間関係の操作が境界例ほど派手ではないということ、などがあります。しかし、原因から見てみれば、根は同じですので、無理に区別するよりは、両方を併せ持っているとしておいた方がいいと思います。また、特定不能の人格障害の中にも「受動攻撃性人格障害」という、まだ正式な診断基準にはなっていないのですが、依存性と関連性のある、研究用の診断基準(案)があります。これについては、特定不能の人格障害で書きます。


【参考資料】
 「カプラン臨床精神医学テキスト」 ハロルド・I・カプラン他 医学書院
 「精神病理と精神療法」 L・スペリー他 北大路書房

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