考えたくもないことは考えないようにしようということです。ある問題点について、自分の心理を分析していたはずなのに、気がついたらいつの間にか全然関係ないことを考えていたと言うようなことがあります。いつの間にか、思考がそれてしまうのです。自分ではあまり意識できません。いつの間にか自己分析はもうこのへんで止めとこうと思ったりします。
だれでも自分の嫌なところは見たくありません。醜いところをほじくり出すのは嫌なことです。そう言うことを避けたいと思うのは自然なことです。しかし、それではいま抱えている問題はいつまでたっても解決しないのです。苦痛を回避することなく、自分の嫌な面を見つめる勇気を持たなければなりません。
「私はボブの幸せな家庭をだんだん腹立たしく思うようになっていった。私はボブの家庭のことをどう思っているかを言う代わりに、ボブが両親とトラブルを起こすようにしむけた。私はボブに、煙草を吸うことは格好いいことだと信じ込ませた。二日後、ボブは煙草を吸うようになった。私は匿名で彼の両親に電話して、ボブが学校で煙草を吸っていることを告げた。両親は彼を一ヶ月間外出禁止にした。私はこれを聞いて喜んだが、もう一方では、参ってしまった。なぜなら、私は独りになってしまったからだ。二か月後、ボブは、告げ口をした張本人が私だということに気付いた。彼は傷ついて、落ち込んでしまった。そして、私に向かって、もう二度と話しかけないでくれと言った。……」
―― The Angry Heart : Joseph Santoro, Ronald Cohen
こういった自分の過去を振り返るのは嫌なものです。我々は自分の過去を美化したり、あるいは虐待された「被害者」として、一方的に自分を正当化したりします。こういう嫌な思い出は、心の片隅で気付いていたとしても、なるべく向き合わないようにします。嫌なことは避けたいですからね。
私たちの過去には、嫌なことがたくさんあります。人には言えないような卑怯なことや、浅ましい行動などが潜んでいます。そう言った、自分の嫌な部分を回避せずに、正面から見つめなければなりません。嫉妬、見栄、醜い行動、陰険な考え、意地汚い欲望、憎しみ、卑しさ、愚劣さ、そう言った陰性の問題を解消することなくして、問題は解決しません。ただ単に、陽性のものばかり追い求めても、それは、鎖を引きずりながらワルツを踊ろうとするようなもので、重い鎖が自分の足や周囲の人の足を傷つけてしまいます。
もし、思い出したくもないようなことが、記憶のどこかに引っかかっているなら、なんとかそれを引っ張り出して、明らかにしなければなりません。とても人には見せられないような卑しい自分と向き合わなければなりません。きれい事でごまかさずに、人には言えないような暗い欲望と向き合わなければならないのです。
境界例の場合は見捨てられる恐怖感、あるいは見捨てられた出来事や事件などを避けようとします。ときには、自分の見捨てられ感から、他人を見捨てるような行動を取ったりします。先ほどの例のように他人の足を引っ張って、自分と同じ境遇に陥れようとしたりします。こうゆう嫌な自分と向き合わなければなりません。そして、このような醜悪な行動の背景にあるものが、いったい何であるかを分析しなければなりません。
とは言っても、まず最初に、自分が何を回避しているのかということに気付かなければ、そもそも向き合うことさえ出来ません。ところが無意識とは良く出来たもので、自分が回避しようとしていることさえ気付かないように、上手に回避してしまうことがあるのです。特に問題の核心に迫って行くようなときに、無意識的に、わざと的外れの答えを出したりします。自分では答えを出したつもりでも、実にうまく的を外しているのです。しかも、自分ではまったく気付きません。指摘してくれる人がいれば、回避に気づくこともありますが、一人で何とかしようとすると、どうしても、こんなふうに自己欺瞞に気付かずに通りすぎることが多くなります。しかし、時には気付くこともあるかもしれません。こういうメカニズムを知っていれば、問題点を捜し出すときの手助けになるかもしれません。自分の力で問題を解決しようとする人は、不充分ではあっても、なんとかこれでやっていくしかないのです。――しかし、自己分析だから仕方がないとか、自己分析だからこんなもんだろうとかいう言い訳が、問題の回避にならないように注意しなければなりません。
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