原光景という言葉の意味は、フロイト的に言うなら両親の性行為の目撃のことを指します。実際に、精神分析的に神経症の治療をやっていくと、両親の性行為の目撃体験があぶり出されてくることが多いのですが、この目撃体験が、神経症的な症状の源となることから、目撃した光景を原光景と呼ぶようになりました。
私は自分の体験から言うなら、自分の心の底に眠る不可解な感情をどうやって表現したらいいのかと自問自答し続けた結果、最終的に両親の性行為にたどりつきました。その情景が自分の気持ちを表現するのに一番ぴったりするのです。そして、この原光景は夢の解釈とも符合しますし、私の抱えている問題行動を説明する場合にも、この原光景をもとに解釈すると、すべて説明がつくのです。
私は最初から両親の性行為を思い描いていたわけではありません。言葉ではうまく表現できない不可解な感情を、ひとつの光景として表現してみようとしてきただけです。ですから、原光景という言葉をフロイト的な使い方をするのではなくて、自分の気持ちに一番ぴったりとする光景、と言う意味に使ってみましょう。そうすれば、結果的に自己分析が進むうちに、自分の原光景が少しずつ違ったものになってゆくと思います。そして、最終的には両親の性行為の目撃にたどりつく場合もあるかもしれません。
境界例の人の気持ちに一番ぴったりとする情景というのは、見捨てられたり、仲間外れにされたりと言った状況の中で、孤独と絶望に打ちひしがれているという光景ではないでしょうか。ひとつの例として、太宰治の見た夢を引用してみましょう。
ある時暗い夜の海の中に一人で漂っていた。やがて自分は何としても助かりたいと願い、近辺を見ているうちに、遠いところに灯台の光がふっと見え、必死になってその岸にたどり着き、灯台の光の所まで這うようにして着いた時、ほっとすると同時にその灯台の家の中の家族の風景が窓越しに見えたのである。その家族はいかにも楽しそうに食事をし、団らんをしていたのである。それを見た時ふたたび「自分はこの世界から締め出されているのだ。自分はこういう世界になじめないのだ」とまた絶望の思いでこの灯台から遠ざかろうとする。
―― 「ボーダーライン」 町沢静夫 丸善ライブラリー277
太宰治の作品を読んだことのある人なら、なるほどと思うような夢でしょう。こういった見捨てられた絶望感が彼の作品のテーマとなっています。さらに彼は、自分の人生においても、この絶望体験を自ら繰り返し再現しています。彼の作品が境界例的な素質を持った人に受け入れられるのは、境界例特有の「見捨てられ感」がうまく描かれているからです。
こういった原光景はなにも夢の中に現われるだけではなくて、自分の不可解な気持ちを一番よく表わす情景を空想していると、ひとつの光景に行き当たったりするのです。特に小説を書くような人の場合は、この情景がひとつのテーマとなってきます。たとえば、子供向けの童話の「マッチ売りの少女」を見てみましょう。
少女は、もう一本、マッチをかべにこすりました。あたりがぱっと明るくなりました。すると、光の中に、年とったおばあさんが立っていました。おばあさんは、それは幸福そうに、それはやさしく光かがやいていました。
「あ、おばあさん」と、少女は叫びました。
「あたしをつれていってちょうだい。だって、マッチの火がきえたら、また行ってしまうんでしょう。ちょうど、あのあたたかいストーブや、おいしそうなやいたガチョウや、あの大きくてりっぱなクリスマスツリーのように」
―― 「マッチ売りの少女」 アンデルセン
この作品も、見捨てられた少女の気持ちが良く表現されていて、私たちの見捨てられ感を刺激します。
私の原光景は、最初はグロテスクなものでしたが、先ほど書きましたように、今は両親の性行為の目撃場面になっています。さて、あなたの原光景とはどんな光景でしょうか。自分の気持ちを一番よく表わす光景を追求してみてください。