夢分析5 根源的な問題に関する夢
2003年09月15日 ver1.0今までの夢分析では、具体的な内容の分析をとりあげてきましたが、今回の夢分析は、私が抱えている根源的な問題を表現している夢を取り上げてみたいと思います。そして、実に不思議なことなのですが、もうひとつの別の夢が、この根源的な問題に対して答えを暗示してくれたことがありましたので、今回はこのような心の深い部分にある問題と、そのやっかいな問題の解決策について、私が考えたことを順を追って書いていきます。 まず最初に、その根源的な問題を表している夢ですが、これはもうずいぶんと昔に見た夢ですので、どんな状況でこの夢を見たのかはまったく覚えていないのです。しかし、なにか重大な意味を持っているだろうということは直感的に分かりましたので、何回も繰り返し思い出してはその意味について考えてきたのです。しかし、根の深い問題を表現しているだけに、なかな分析は深いところまで行きませんでした。まあ、こういう夢というのは、あまり細かく分析するよりも、大雑把な意味を理解して、こんなふうな問題が心の深いところにあるんだなという程度のことが分かっていればいいのではないかと思います。 さて、その夢なのですが、ちょっと抽象的な内容ではありますが、こんなふうな夢だったのです。私は夢の中で青空を見上げていました。その真っ青な青空には、白い旅客機が一機だけ飛んでいるのが見えました。しかし、しばらくするとエンジンの音が変になってきて、まっ逆さまに墜落してきたのです。そして、私の家の裏にあった井戸の中へと落ちていったのです。私が井戸を覗き込みますと、暗い井戸の底から一機のヘリコプターが上昇して来るのが見えました。そのヘリコプターが井戸から飛び出したところで、私は両手でバシッと捕まえたのです。ヘリコプターの大きさは、操縦席のところがバレーボールのボールくらいの大きさでした。それから私は、回転しているプロペラの軸の部分を口でくわえようとしたのです。すると後ろから父と母が「やめろ!」と言いながら、私の襟首をつかんで引っ張りました。しかし、私は両親の制止を振り切って、回転軸を口でくわえたのです。すると、顔がプロペラでかきむしられてしまいました。私は、叫び声を上げながらヘリコプターを放り投げて、その場を走り去りました。途中で、何か柔らかいものを踏んだようだったので、なんだろうかと思って振り返ると、それは父の死体だったのです。目玉が飛び出してぶら下がっているのが見えました。私は恐怖感に駆られて、一目散に逃げました。そして、小屋の中で脅えながらうずくまっていると、小屋の窓からはV字型に切り立った深い渓谷が見えていました。それはとても不安な光景でした。 以上がその夢なのですが、全体的に強烈な恐怖感を伴う夢でした。では、この夢にどんな意味があるのかということですが、すぐに連想できるのが、ヘリコプターのプロペラの軸を口でくわえようとする場面です。これは、ちょうど乳首を口でくわえようとするのに似ています。そして、顔をかきむしったプロペラですが、これは精神分析的な解釈ですと、乳首に生えたペニスとか、まあそういった性的な解釈も成り立つでしょう。たしかに、白い旅客機が、井戸の穴の中に墜落していく場面は、ペニスや、白い精液が膣の穴の中に入ってくという性的な意味にも取れますし、V字型に切り立った渓谷や谷底を流れる川も、V字型に開いた母の股間と、その股間の間を流れる川(女性の性器)を連想させるものがあります。そして、その渓谷の光景が、とても不安に満ちたものだったというのは、ここに何らかの性的な葛藤があるのではないかと思われるのです。 しかし、私にはほかにも思い当たることがあるのです。それは母から聞いたことなのですが、私が赤ん坊のころ乳首を噛んで痛かったというのです。乳首から私を引き離そうとしても、なかなか離れなかったそうなのです。これはちょうど夢の中で、両親が私の襟首をつかんで後ろに引っ張る場面を連想させます。そして、おそらく乳首から引き離そうとしたときに、手で私の顔を押したのかもしれません。これは、ちょうどプロペラ(手の指)が私の顔をかきむしる場面を連想します。つまり、夢の中で私が両手でつかんだヘリコプターというのは、実は母親の乳房であり、私が制止を振り切ってまで口にくわえようとしたのは、母親の乳首だったのです。そして私の顔をかきむしったプロペラというのは、乳首から引き離そうとして私の顔を押した、手や指のことだったのです。 と、まあ、こういうわけで、私の内面においては、母の乳首との関係が極めて不適切ものだったということを、この夢が示してくれているのです。母親の乳首と、どいう関係を築くかということは、赤ん坊にとっては世界との関係を築いていく基礎になるものです。この関係が不適切なものだったりしますと、それがやがて境界例の症状の原因を形成するのではないかと私は感じています。つまり、境界例の人たちが抱えている空虚感や、なにか大切なものが欠けているとい感覚に繋がっていくと思うのです。私はずっと「生きていくために必要な、大切な何かを与えられていない」という漠然とした感覚を抱いていましたが、この感覚というのは、赤ん坊のころに乳を十分に飲むことができなかった空腹感に繋がっていくのです。何かが欠けている、何かが足りない、満たそうとしても満たすことができない果てしない空虚感、そういった感覚というのは、赤ん坊のころに、十分に満足のいくまで食べることができなかったという空腹感からきているのです。 食い物の恨みは恐ろしいと言いますが、まさにこれは食い物との関係なのです。生きていくために必要な、かけがえのないものとの関係なのです。私はこの食い物との関係がひどく不適切だったために、後で書くようないろいろな心の問題を抱えることになったのですが、そういうことを書く前に、この問題に対する答えを暗示してくれた不思議な夢について書きましょう。まあ、夢自体は不思議なものでもなんでもないのですが、無意識のレベルでは、すでに答えを見つけているということが私にとって実に不思議な感じがするのです。そして、この夢というのが「食い物の恨み」なのです。 そこは、定食屋のような食堂でした。店のカウンターのところに私のお膳が置いてあったのですが、その私のお膳の料理を、なんと父が食べているのです。私は凄まじい怒りを感じて、背後から父を怒鳴りました。この怒鳴り方はあまりにも激しくて異常なものでした。腹の底から吠えるような感じで、まるで狂ったように怒りのありったけを父にぶつけたのです。すると父がこちらを振り向いて、驚いたような顔をして「お前の分は、そこにあるじゃないか」と言うのです。私が後ろを振り向くと、信じられないことに、私のお膳が、手付かずのままそこにあったのです。私はキツネにつままれたような思いで、ぼう然とそれを眺めていました。 この夢から覚めた後も、凄まじい怒りの余韻が残っていて、呼吸が荒くなっていました。それにしても、この怒り方の異常さからいって、この夢にはなにか深い意味が隠されているはずだということはすぐに理解できたのです。そして、これは食べ物との関係の夢であり、私の根源的な問題を意味している夢だということもすぐに理解できたのです。さらに、「お前の分は、そこにあるじゃないか」という父の言葉も、私の根源的な問題に対して、ひとつの答えを示しているのだろうということもすぐに理解できたのです。 しかし、思考がここで止まってしまうのです。この夢が重要な意味を持っているということは分かっても、では具体的にどういうことなのかということになりますと、思考の歯車はまったく回転しなくなるのです。そして、二年が過ぎて、後で自己分析のコーナーに、「ミルクの場面」という、幼いころにショックを受けた出来事について書く予定ですが、この「ミルクの場面」の自己分析を通して、やっとのことで、この夢に関する思考も動き始めたのです。 まず当然のことでありますが、この激しい怒りというのは、私のキレやすさの原因になっているわけです。だいたい私がキレる場面というのは、こういう状況で発生しているのです。私の大切な何かが横取りされたと感じたときや、やろうとしていることを妨害されたと感じたとき、あるいは無視されたり搾取されていると感じたとき、こういうときに心の深い部分でパチンとスイッチが入って、とつぜん場違いな激しい感情が出てくるのです。 なぜこんなに激しく怒るのかといいますと、食べ物、つまり生きていくために必要な、欠かすことのできない大切なものが、他人に奪われて、好き勝手に食い荒らされているという点にあるのです。大切な食べ物が無くなるということは、私にとって死を意味するのです。つまり、この怒りとは、私の生存をかけた怒りなのです。 もう何年も前になりますが、怒りの発散ということで、心の底にあるものを言葉にして吐き出していたときに、突然とんでもない言葉がでてきたことがありました。私はそのとき枕を叩きながら叫んでいたのですが、「今すぐ乳を飲ませろ!すぐに乳を飲まないと死んでしまう!」と叫んだのです。そして、あまりにも意外な言葉が出てきたので、自分でもビックリしてしまったのです。しかし、その直後に、我にかえったように、「死ぬわけないじゃん」とつぶやいたのです。たしかに、もう大人になった私は、乳が飲めないからといって死んでしまうはずがないのです。このときは、これで心の皮が一つむけたような感じもしたのですが、本質的な問題はまだまだ未解決のままだったということになるのです。つまり「暗黒の嵐」は、まだ心の底に深く潜んでいたのです。ですから、この夢の場面を思い出して、怒りの感情を直視しようとすると、すぐに鼻息が荒くなってきて手足が痺れてくるという、いわゆる過呼吸症候群の症状が出てくるのです。 このような食べ物に関する葛藤は、唇の周囲の緊張となって現れることもあります。タバコを吸っている人は分かるのではないかと思いますが、タバコが切れた時に唇の周りがムズムズするような、こわばったような感じになることがありますが、あれがそうなのです。乳を飲むことによって得られる唇の快感に問題があるのです。私の場合は、今はだいぶ良くなりましたが、以前は唇の周りが痛くなるくらいに筋肉が緊張したりすることもありました。さらに激しい怒りは、眉間の筋肉の緊張となって現れて、眉間の周囲も痛くなることがありました。こんなときに鏡を見ると、まるで犯罪者のようなすごい顔になっているのです。 こういった唇の葛藤からくる怒りは、ヘリコプターの夢で言えば、プロペラの軸を必死になってくわえようとするという形で現れているのですが、人間関係でこの葛藤が表現されるときには、まさに「噛みつく」ような激しい攻撃性となって現れたり、むさぼりつくすような、破壊的な貪欲さとなって現れたりするのです。 あれは、小学生のときでした。学校の帰りに友達がからかって私の帽子を取ったのです。私が必死になって取り戻そうとすると、それがまた面白かったのでしょう、みんなで私の帽子を投げ合ったのです。気がつくと私はそのうちの一人の手に、歯で噛み付いて、さらに爪で引っ掻いて、そいつの手を血だらけにしていました。これは、私にしてみれば当然の行動をしたまでなのですが、これでみんなは一気に引いてしまいました。次の日、教室でみんなが私のほうを見ながらヒソヒソと話し合っていました。要するに、キレたら何をするか分からないアブナイやつ、ということなんでしょうね。 こんなふうに、横取りされたり、奪われたりすることへの怒り、これは私自身の生存をかけた怒りなのですが、その背後には失うことへの恐怖もあるのです。失うことを恐れるあまりに、すべてをむさぼりつくして、すべてを自分のものにしようとする破壊的な貪欲さがあるのです。しかし、それとは反対に、奪われて汚されてしまった食べ物を拒絶するような衝動もあるのです。これも夢の話なのですが、私がトマトを食べようとして、包丁で半分に切ったところ、内側が虫に食われていたのです。私は「こんなもの食えるか」と言ってトマトを投げつけたのです。この夢のように、腹が減って何か食べたいのだけれども、他人に(虫に)食い荒らされたようなものは、食べる気にもなれないのです。自分だけのものでなければならないのです。独占できなければ意味がないのです。むさぼりつくしてすべてを独り占めにするか、他人に食い荒らされてすべてを失うか、どちらかしかないのです。ここに摂食障害の原動力となるような葛藤があるのではないかと思います。私自身も今でこそ、なんとか標準体重の範囲内にあるのですが、かつてはひどく痩せていて、骨皮筋衛門と呼ばれていたこともあったのです。 そして次に、これも食い荒らされる夢の話なのですが、真ん中に一本のあぜ道がまっすぐに伸びていました。あぜ道の左側の田んぼの稲は、害虫に食われ、スズメに食い荒らされ、さらには病気におかされて、黒ずんで枯れているのです。しかし、あぜ道の反対側の稲は、稲穂を金色に輝かせて、豊かな実りを秋風に揺らしているのです。この夢も、すべてか無かということになるのですが、ここで表現されているのは、私の破壊的な貪欲さではなくて、秋風に揺れている豊かで、落着いた雰囲気の稲穂なのです。そして、これは先に書いた、「お前の分は、そこにあるじゃないか」という夢にも通じるものがあるような気がするのです。 夢の中では、たしかに私の分はそこにあったのです。誰も手をつけていない、私だけのために用意された料理がお膳に乗っていたのです。しかし、私はそれを見ても、にわかには信じることができずに呆然と眺めていたのです。ここに、私の葛藤が長い間継続してきた原因があるのです。たとえ、周囲の人から良い方向の働きかけがあったとしても、この夢のように、にわかには信じることができないのです。そして、否定的な部分に過敏になって、最終的にはゆがんだ被害者意識へと戻っていってしまうのです。 では、なぜ私はにわかには信じられないのでしょうか。なぜ素直になれないのでしょうか。こう自問してみますと、「あんなに激しく怒ってしまったからだ」という答えが返ってきます。あんなに激しく怒鳴り散らした後では、そう簡単には素直になることはできないのです。つまり、私がキレて怒鳴り散らしたのは、結局は誤解だったようなのですが、だからといって簡単には、誤解という事実を受け入れることができないのです。 誤解。私は赤ん坊のころに、人生の初めのころに、とんでもない誤解をしてしまったようです。とんでもない勘違いをしてしまったようなのです。それで、人生がめちゃくちゃに狂ってしまったようです。実際には、私の食べる分は、無傷のまま、そこにあったのです。誰も横取りしたりしない、私だけのために用意された料理が、手付かずのままお膳に乗って、そこにあったのです。 しかし、こういった勘違いに気付いたとしても、激昂した怒りのやり場に困ってしまいますし、もし勘違いだったことを認めたら、そのことを謝らなければならなくなってしまいます。そうすると、今度は仕返しが怖くなってくるのです。しかし、夢の中の父は、怒った様子もなく、仕返しをするような様子もなく、ただ驚いたように「お前の分は、そこにあるじゃないか」と言っているだけでした。これは、私の心の中で、父のイメージが少しずつ変化してきているからでしょう。つまり、その分だけ、自分の誤解を認めやすくなってきているのです。しかし、だからといって素直に食卓について、すぐに食事ができるかというと、そういうわけにはいきません。もし自分の誤解を認めるとしたら、あんなに怒鳴り散らしたことへの罪悪感とも向きあわなければならなくなるからです。そんなしんきくさいことをするよりも、いままで通りに、横取りされたと言って怒鳴り散らしていたほうが気が楽です。そして、横取りされた証拠をあげつらって、相手を罵倒していたほうが楽なのです。しかし、私は少しずつでも「誤解」と向き合っていかなければならないことは、自分でもよく分かっているのです。そして、「お前の分は、そこにあるじゃないか」という言葉の意味についても、よく考えていかなければならないと分かっているのです。 −−いま、ここまで自己分析が進んだところです。この文章を書きながらも、途中で過呼吸になりました。誤解と向き合おうとすると涙がボロボロでてきたり、息ができなくなるくらいに胸が締め付けられたりして、非常に不安定になってしまいます。しかし、この問題が私の本質的な部分をとらえていることは分かっていますので、いろいろと揺れ動いて混乱したりするかもしれませんが、まあ、ゆっくりと、マイペースで、ボチボチとやっていこうと思います。
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