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境界例の治療技法 8

  精神分析療法の考え方
   Ver 1.0 2000/5/27

 以前、境界例の治療には、精神分析の知識が必要であるということを書いたことがありますが、精神分析という言葉は広く一般の人に知られていても、ではそれがどういうものであるかという事については、あまり知られていなかったりします。ですので、具体的にひとつの症状を例にあげて、他の療法との考え方の違いを比較しながら、精神分析療法の特徴について説明してみたいと思います。

 説明を分かりやすくするために、事例として強迫性障害の一種である手洗い強迫を取り上げてみます。強迫性障害というのは、自分ではばかばかしい行為だと分かっていても、そうせずにはいられなくなる症状のことをいいます。手洗い強迫もその中のひとつなのですが、いくら手を洗っても汚れが落ちていないような気がして、それで延々と手を洗い続けます。これはただのきれい好きなどというレベルをはるかに超えていて、一日のうち三時間も、四時間も手を洗い続けたり、重症の人になりますと一日に七、八時間も手を洗い続けたりします。手の皮膚がすり減って血が出ているのに、それでも手を洗い続けようとするのです。本人はそうせずにはいられないのです。こうなると、日常生活にも著しい支障をきたすようになります。自分でもこのような状態をなんとかしたいと思うのですが、それでも汚れに対するこだわりから抜け出すことが出来ずに、延々と手を洗い続けるのです。さて、みなさんはこの症状の原因をどのように推測されるでしょうか。そして、どんなふうに治療したらいいと思われますか。

 そこでまず最初に、生物学的原因によるものであると主張する人たちの考え方を見てみましょう。生物学的原因とは、要するに脳に原因があるという意味なのですが、脳とは言わずに、生物学的という言葉を使うあたりは、なかなか洗練された表現だと思います。脳に欠陥があるからだと言われるよりは、生物学的原因によるものなんだと言われた方が、抵抗なく受け入れられますよね。さて、この生物学的な原因によるものであると主張する人たちは、PETという脳の活動状態を画像として描き出すシステムを使いまして、脳のこの部分の活動が活発であるとか、この部分の活動が低下しているとか言います。あるいは、脳内の神経伝達物質を調べたりして、ある種類の物質の過剰、または不足によって症状が発生するのであるとします。ですから、このような症状を治療するためには、薬物を投与することで、くずれた脳内物質のバランスを修復してやる必要があると考えます。症状は、たしかにSSRIやクロルプラミンなどの薬物に対して比較的良好な反応を示します。しかし、薬物療法のみで、行動療法などを併用していない場合には、再発率が高いという調査があります。

 次に、強迫性障害などに対して、他の療法よりは比較的有効であると言われている行動療法の考え方を見てみましょう。行動療法というのは、動物を使った学習実験のやり方を人間の治療に応用したものです。つまり、動物が条件付けによって行動を学習するように、洗浄強迫などの行動は、なんらかの不適切な条件付けによって学習されたものであると考えます。ですから、治療するためには、この不適切な条件付けを解除してやらなければならないのだと考えます。そして、そのための様々な方法が考え出されているのですが、たとえば、手が汚れているという考えが浮かんできたら「止まれ!」と叫んで意図的に思考を停止させるとか、あるいは患者に便所掃除とかの、わざと手の汚れるような事をさせるとかいう方法が取られます。そして、最初はやさしい課題を患者に与えて、それがうまく出来たらなんらかの精神的な報酬を与えます。そして、徐々に難しい課題へと進んで行って、やがて症状が消滅するようにします。このような条件付けを応用した行動療法による治療は、薬物療法と組み合わせることで大きな効果が現れてきます。

 他にも認知療法というのがありますが、これは、歪んだ認知を矯正していこうという治療方法です。たとえば、手が汚れていないのになぜ汚れていると思うのか、その歪んだ思考の不合理性を論理的に指摘して行くことで、症状を消滅させようというやり方です。この認知療法の技法は軽度のうつ病の治療として考え出されたもので、たとえばうつ病の人が訴える悲観的な物の見方が、いかに歪んだものであり、客観的な事実とはかけ離れたものであるかという事を、様々な方法を使って患者に理解させて行くのです。たとえば、絶望的な気持ちになっていたのに、自分の置かれている状況を箇条書きしにして整理して、それを冷静に眺めて見とる、別に絶望的でも何でもないことに気づいたりして、症状が軽減していくのです。

 さて、次にいよいよ精神分析の考え方を説明します。精神分析では、人間の行動にはすべて意味があり、原因があるのだというふうに考えます。そこで、何時間も手を洗い続けるという、その行動の意味と原因を探っていきます。だいたい精神分析では、その原因を過去に求めるのですが、患者が手洗い行動を始めたころのことを徹底的に調べていきますと、たとえば次のようなことが明らかになったりするのです。

 患者は、ある日マスターベーションをしていた。そして、射精を終えたあとで、なんとなく精液の付着した手を見つめていた。そのとき、この精液でお母さんが妊娠したらどうしようという考えが浮かんできた。すると、なんだか恐くなってきて、急いで手を洗った。このことは、その時はそれほど気にならなかったのだが、その後マスターベーションを繰り返すたびに、一度手を洗っても、まだ精液が残っているような気がして、もう一度手を洗い直したりした。このようにして、だんだんと手を洗う時間が長くなっていった。やがて精液のことは意識から消えて、手の汚れのみが気になるようになった。そして、手を洗う時間もさらに長くなっていった。

 このような経過が明らかになりますと、最初はまるで理解不能だった行動も、これで普通の人でもなんとなく理解できるようになります。しかし、それにしても、なぜ手についた精液でお母さんが妊娠するなどという考えが浮かんで来たのでしょうか。これを精神分析的に考えてみますと、妊娠させてしまうことを恐れる気持ちの背後に、お母さんに対する性的な願望が潜んでいたからなのだと推測することができます。つまり自分が禁じられた願望を抱いているがゆえに、それが発覚することを異常に恐れ、それゆえに妄想的な思考パターンが強化されていったものと思われます。もし、この願望が知られてしまったら、果たして父親はどういう行動に出るだろうか、そして、もしこのことによって家族が崩壊してしまったとしたら、自分の人生はどうなるのだろうか、こういう現実に起こるであろう事態への恐怖と、自分の抱いている禁じられた願望との折り合いをつけなければなりません。そこで、患者は手を洗い続けることによって、母親に向けられた性的な願望を否定し続けようとしていたのです。

 このような、洗浄強迫の人を精神分析的に治療していきますと、どういうわけかほとんどのケースで性的な葛藤の存在が明らかになるようです。こういう症状というのは、内面的な葛藤が原因の症状ですので、正常なきれい好きとは違って、清潔さと汚れに対するバランスを欠いた行動をとることがあります。たとえば床の汚れに異常なまでにこだわり、いつもぴかぴかに磨いているのに、その一方では、天井にクモが巣を張っていても、そちらの方はまったく無頓着だったりするのです。

 このような精神分析のやり方というのは、うまく行けばいいのですが、原因をつかむための糸口をなかなか見つけることが出来なかったりすることもあります。たとえば、先の例で言えば、セラピストとの間に、マスターベーションというような、患者にとって他人に話しにくいプライベートな事柄でも話せるという、そういう二人の間の信頼関係が築かれていないと、この治療はうまく行かないことになりますし、手洗いの症状が消えた後でも、その背後にある母親に向けられた性欲の問題にまで洞察を進めていって、それを解決するとなると、それなりの時間も必要とします。

 ここで、治療に要するコストを比較してみますと、薬物療法が一番安上がりですし、診察時間も短くてすみます。極端なことを言えば、五分間診察でも対応できそうですので、一日にたくさんの患者を治療することが出来ます。反対に一番コストのかかるのが精神分析による治療方法です。週に何回かの面接を設けて治療を続けていきますので、これに要するセラピストの人件費も相当なものになります。アメリカでは、健康保険組合が採算性を重視するために、このような高コストの治療方法は嫌われる傾向にあります。ですので、安上がりで、しかもすぐに結果の出せるような治療方法が歓迎されているようです。このようなことから、精神科医たちがだんだんと薬物療法に依存するようになっていて、患者の悩みと向き合おうとしない医師が増えているようです。これが最近問題化しているようで、この反動として、精神療法を見直そうという動きも出始めているようです。

 治療コストといえば、町沢静夫が面白い例を紹介しています。手洗い強迫で入院していた患者が手を洗っているときに、他の入院患者が「水道代がもったいないじゃないか! いい加減にしろ!」と一喝したところ、手洗い行動がピタリとなくなったそうです。こんなふうに怒鳴りつけるだけで治ってしまうものなら、これほど安上がりなことはありません。しかし、ここで、では治るということは一体どういうことなのだろうかという疑問がわいてきます。怒鳴られただけで本当に治ったのだろうか、後で違う形で問題が発生するのではないだろうかとか、いろいろなことが考えられます。

 精神分析では、抑圧されて無意識の世界に追いやられてしまったた葛藤が解消すれば症状は消えるというふうに考えますが、この考え方と他の治療法の考え方の決定的な違いは、「無意識」というものの存在を認めるかどうかという点です。生物学的な原因であるとする人の場合は、薬で脳内物質のバランスを取り戻そうとしますし、最終的な手段としては外科的な処置によって症状を取り除いたりします。ですので無意識などという、第三者による検証不可能なものは認めていません。行動療法や認知療法でも、同じように無意識の存在を認めていません。行動療法では、不適切な条件付けによって、不適切な行動が学習されたのであるとしますし、認知療法では、自動思考という言い方をしますが、いつの間にか歪んだ考えが自動的に発生してくるのが原因であるとします。しかし、私はこれらの背後には、やはり無意識的な葛藤があって、それが一見脳が原因であるかのように見えるのではないかと思っています。たとえば幼いころのレイプ体験が、大人になってから様々な症状を引き起こしているような場合、このショッキングな体験が未消化のまま記憶に残っていますので、その埋もれた記憶が不安感や恐怖感に関係する脳内物質の分泌を促したりするのではないかと思います。ですから脳内物質を調べてみれば、特定の物質が不足していたり、過剰だったりするのだと思います。行動療法や認知療法についても、患者に様々なことをさせたり、思考の認知の歪みを指摘したりしますので、このことが意識下に埋もれている葛藤に作用をおよぼしているのではないかと思います。こういうことは、あとでまた別のところに書きます。

 最近は、精神療法の治療効果に関する実証的な研究がいろいろと行なわれているのですが、心の障害の一般についていえば、それぞれの療法が有効であることは実証できるのですが、どの療法とも他と比較して特に優れているという結果は出ていないのです。しかし、どちらかといえば、行動療法は恐怖症や強迫行為の治療で有効性が高く、認知療法では軽度のうつ状態の改善などに有効性が高いようです。精神分析を専門にやっている人は、精神分析こそが病態の本質を暴き出すやり方であり、精神分析こそが特権的に優位な治療技法であると考えがちですが、メニンガー・クリニックなどによる実証的な研究では、残念ながらそのような結果は出ていないのです。このへんのことは、精神分析での実証調査の難しさもありますが、さらなる研究が待たれるところであります。しかし、こと境界例の治療に関する限りは、精神分析的な治療方法が非常に進んでいるのに対して、他の療法はまだ試行錯誤の段階なのです。これはおそらく、逆転移などといった精神分析的な考え方を取り入れないと、患者の引き起こす問題行動に対応するのが困難だからだと思います。実際に、認知療法などでは、このような精神分析的な考え方を取り入れようという動きもあるようです。また、境界例の原因を、生物学的な原因によるものだと主張する人もいますが、治療方法については、薬だけでは治せないという点で意見が一致していまして、精神療法を併用することが不可欠であるとしています。しかし、脳が原因であると言うなら、薬を使わない治療方法でも治るのは何故なんだ言いたくなるのですが、まあこれは考え方の違いでしょうね。

 さて、精神分析は、誕生以来さまざまな批判にさらされながら生き延びてきましたが、その過程で技法上の様々な考え方も生まれてきました。そして、今現在では、フロイトのころのような古典的なやり方をする人は非常に少なくなっています。古典的なやり方というのはどういうのかといいますと、患者が寝椅子に横たわって自由連想をして、分析家が患者の背後に座っていて、あれこれと患者の連想を解釈するというものです。しかし、今現在主流になっているのは、ちょっと聞き慣れない言葉かもしれませんが、「力動的精神療法」といわれるもので、境界例の治療もこのやり方で行なわれています。これは、寝椅子に横たわるのではなくて、ごく普通の椅子に座って、セラピストと向き合って会話を交わします。そして、古典的なやり方のように、すぐに過去にさかのぼるのではなくて、どちらかと言えば「今、ここで」起きている問題に重点をおきます。そして、必要に応じて、過去にさかのぼっていくというやり方です。特に境界例では、古典的なやり方ですと患者の行動化を招きやすいですので、やたらと分析的になるのではなくて、支持的な態度を保ちつつ患者と接するようにします。力動的精神療法の「力動」というのは、「ダイナミック dynamic」という英語を直訳したものですが、心の葛藤を、様々な力の動きのぶつかり合いであるとして、このダイナミックな力の動きを力学的にとらえようという意味があるのです。また、力動的精神療法では、脳の生理学的なことも視野に入れて、薬物療法を平行して行なったりします。このように、精神力動というのは精神分析とほぼ同じ意味であると考えていいのですが、実際の治療のやり方には若干の違いがあるのです。ですので、力動的精神療法は、精神分析「的」療法と呼ばれることもあります。

 あとで精神分析で使われる技法について書いて行きますが、境界例の治療では、これらの技法を使って、患者の行動の背後に潜んでいる見捨てられ不安や分離不安などへの洞察を促し、分離−個体化を促す事がメインになります。しかし、これは患者にとってはひどく苦痛なことであり、耐えられなくなって行動化を引き起こしたりしますので、患者の苦痛や不安に理解を示しつつ、支持的な環境の中で行います。このような精神分析的な治療は、セラピストとの人間関係を使って、二人の間に発生する感情を使って治療を進めていくのですが、人間関係とは言っても、あくまでも治療者としての役割を担った中立的な立場にある人との関係なのです。たとえば、患者がある日プレゼントを持ってきたとします。これを受け取ってしまうとセラピストとしての中立性が失われてしまいますし、場合によって受けとったことで患者から操作される可能性がありますので、やんわりと断ったりするのですが、セラピストはこういう場合、「私にプレゼントしたい気持ちになったのですね」というふうに言ったりして、行動の背後にある心理への洞察を促すようにするのです。

 患者はときには治療方法について議論を吹っかけてきたり、医療問題を持ち出したり、あるいは哲学的な問題を持ち出したりしてセラピストを批判することもあります。こういう場合は一緒になって議論することが治療なのではありません。患者の行動の背後には、議論を吹っかけることで自分を見つめることを避けたいという思いが潜んでいたりしますので、そういう背後に隠れている感情への洞察が必要となるのです。たとえば、患者が政治的な議論を持ち出して大言壮語するその言葉の背後には、見捨てられて誰からも相手にしてもらえない、みすぼらしい哀れな自分が潜んでいたりするのです。ただ、こういうことへの洞察を急いだりしますと、患者は自分が攻撃されていると感じたりして、セラピストに敵意を抱いたりしますので、ある程度時間をかけて、患者が自分の力で気付くように持っていきます。知りたくもない自分を見つめるというのは辛いことです。ですので、セラピストの支持的な態度があればこそ、こういうことへの洞察を進めることも出来るのです。大切なことは、「自分は理解されているんだ」という信頼関係の維持なのです。こういう信頼関係があればこそ、セラピストが患者にとって多少辛い問題を持ち出しても、それと向き合ってみようと思うのです。セラピストに対して「この人は私を悪いようにはしないはずだ」という信頼感があるからこそ、患者は治療を受け続けているのです。精神分析的な治療と言えども、あくまでもサービス業のひとつであり、患者はお客なのです。ですから、治療を進めていくためには、お客との信頼関係を維持しつつ治療していかなければならないのです。そして、このような信頼関係があればこそ、ある程度の辛いことにも耐えて、自分の問題と向き合っていけるのです。ただ、境界例の場合にはこの信頼関係が崩れやすいですので、患者に対してどのように支持的な態度を示し、またどのように自己洞察を促していくかというのは難しい問題です。

 ということで、次回から患者に自己洞察を促すための技法について、順次書いていきたいと思います。


【参考文献】
乱読していますと、何がどこに書いてあったのか分からなくなってしまいます。そこで、大体の本を適当に紹介しておくことにします。(^^)ゞ
 「新しい精神分析理論 米国における最近の動向と提供モデル」
   岡野憲一郎 岩崎学術出版 1999.10.1 \3800-
 「力動的精神医学 その臨床実践 @理論編」
   G.O.ギャバード 岩崎学術出版 1998.1.16
 「カプラン臨床精神医学テキスト」
   ハロルド・I・カプラン他 医学書院 1996.12.10 \15,000-


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