ホーム医療とサポート

境界例の治療技法 7

患者への理解と対応:
  自分と他人の間の境界設定
   Ver 1.0 2000/5/6

 境界例の人の特徴の一つに、自分と他人の区別がうまくできないというのがあります。自分のことと他人のことの区別が出来ないために、ついつい他人の心に土足で踏み込むようなことをしてしまいます。あるいは、患者の退行によって、自分でやるべきことを他人に押し付けて、他人にやってもらおうとしたりします。このような患者の行動によって、周囲の人は患者の作り出す渦の中へと吸い込まれていくのです。これは、他人の存在というものを、自分とは別個の存在なんだというふうに理解できないために、他人をまるで自分の延長のような存在として扱おうとするからなのです。そして、患者は自分と他人との間になんの葛藤もないような、果てしない無限の一体感を求めたりします。これは、乳幼児期の母親との一体感へのあこがれが背景にあるのです。通常なら、成長するに従って母親との一体感に別れを告げて、自分は母親とは別個の存在なんだということを理解し、やがて個人としての自立した自己を確立していくのです。しかし、境界例の場合には、この一連の作業に失敗しているのです。ですから、日常の生活で、自分と他人の区別を必要とするようなごく普通の出来事でさえもが、患者にとっては一体感への拒絶と受け取られてしまい、まるでこの世のすべてから見捨てられてしまうのではないかという不安にとらわれてしまうのです。そして、その結果として、さまざまな問題行動が発生することになるのです。

 このような自他の区別は、なにも患者だけの問題ではなくて、入院治療を行なう際には、患者と接する看護スタッフ自身の自他の区別のありようが問われるのです。この自分と他人の区別をつけるということは、ごく当たり前の分かりきったことのように思われるかもしれませんが、境界例ではない人でも自他の区別が混乱しているような人をよく見かけます。このような、自他の区別をつけて、この世には他人というものが存在するのだということを認め、他人の存在の意味を理解することは、すなわち自分の存在とは何かという問いかけにも通じる部分があります。ですので、頭では分かっていても、実際の行動で自他の区別をはっきりさせて行くとなると、いろいろと難しい面もあるのです。たとえば、自他の区別が出来ていないじゃないかと他人を非難しているその人自身が自他の区別が出来ていなかったりするからです。

 境界例の患者と接すると、患者はあらゆる手段を使って、乳幼児期のような自他の区別のない一体感への要求を突き付けてきます。赤ん坊のころに戻ろうとするかのように、なんでもかんでも自分の面倒を見てもらおうとしたり、自傷行為や自殺の脅しをつかったり、あるいは怒りを爆発させて威嚇的な行動を取ったりして、自己中心的な自分の要求を実現させようとします。このような時にどうしたらいいのかと言いますと、患者に自他の区別を要求するのではなくて、自分自身が自他の区別をはっきりさせるのです。患者自身の自他の区別は、セラピストによる治療を通じて、長い時間をかけながら少しずつ改善していくのですが、看護スタッフとしては、自分自身が自他の区別をはっきりさせることによって、患者の行動化に巻き込まれないようにするのです。そして、同時に、健全な自他の区別とはどういうものであるかという、その生きた見本を患者に提示するのです。患者は自分と他人の区別があいまいな混沌とした環境で育ってきていますので、看護スタッフ自身が健全な見本を示すことによって、患者に自分の混沌とした状態への自己洞察を促すのです。

 では、自分と他人を区別するというのはどういうことなのでしょうか。通常の人間関係では、自分と他人との間に、何らかの区別の指標となるような、目に見えない心理的な境界線が自然と設定されるのですが、境界例の人と接するときには、この境界線が患者によって引っ掻き回されてしまいますので、特にこの境界線を、意識的に明確に設定しなければなりません。では、この境界を設定するということはどういうことなのかといいますと、自分自身の限界を設定するということなのです。どこまでが自分の領域なのかという、その自分の領域の限界を見極め、そこに限界を設定するのです。そして、その限界を超えるような患者の要求や、自他の境界を侵略してくるような患者の行動に対しては、自分を守るために「NO」という意思表示をするのです。これが境界を設定するということなのです。以前、境界例の治療には治療の枠組みを設定して、それを維持していくことが大切だと書きましたが、自他の境界の設定というのは、この治療枠の設定の個人版と考えてもいいのではないかと思います。しかし、これを読まれた方の中には、患者を支援しようとする人が、患者に対して「NO」という態度をとっていいのかと思われる人もいるかもしれません。ですので、このことについてもう少し詳しく書いてみたいと思います。

 たとえば、おぼれている人を助ける場合を考えてみましょう。この場合に大切なことは、救助する人が泳いで行っておぼれている人に接近したときに、まず自分自身の手足の自由が奪われないように注意することです。おぼれている人は、助けに来てくれた人に必死になってしがみつこうとしますので、もしも、死に物狂いでしがみつかれてしまい、自分自身の手足の自由が利かなくなり、泳げないような状態になってしまいますと、助けるはずだったのに、自分も一緒におぼれてしまう可能性があるのです。これでは助けに行った意味がなくなってしまいます。ですので、おぼれている人に近付いていくときには、まず最初に自分自身の安全を確保する必要があります。自分が泳げる状態を維持できてこそ、救助が成り立つのです。

 境界例の患者を支援しようとするときにも、これと同じことが言えるのです。患者も、救いの手をさしのべてくれる人に対して必死になってしがみつこうとすることがあります。しかし、不用意に患者に接近しすぎてしまい、自分自身が手足の自由、つまり精神的な自由を失ってしまいますと、患者を助けるはずだったのに、自分自身がノイローゼのようになってしまい、自分自身も治療を必要とするようになってしまいます。これでは一体何のために患者を助けようとしているのか分からなくなってしまいます。こうならないようにするためには、自分の手足の自由を奪われるようなしがみつき、つまり自分を精神的に拘束するようなしがみつきに対しては、はっきりと「NO」という態度を取るのです。この「NO」という選択肢を持つということは、つまり「YES」という選択肢を自由にするということでもあるのです。ただ無条件に患者の要求に応えるのではなくて、「NO」という選択肢を持つことで、「YES」という選択をする前に自分自身の状態を振り返り、「NO」と言うべきかどうかを検討するという精神的な余裕が生まれて来るのです。この精神的な余裕こそが、自分というものを持つということ、つまり患者とは異なる自分自身の世界を持つということなのです。

 患者の際限のない要求に対して、スタッフが対応できることにはおのずと限界があります。看護スタッフは万能の神ではないのです。能力に限界のある人間なのです。ですから、自分に出来ることと出来ないことをよく見極めて、限度を超えるものについては、はっきりと「NO」と言うのです。そして、「NO」という選択肢を持つことで、患者の精神的な侵略から自分自身を守ることが出来るのです。このようにして、助ける側の最低限の精神的な安全が確保されてこそ、治療というものが成り立つのです。

 患者に対して「NO」という態度を取るとどういうことになるかというと、当然のことながら激しい非難を浴びることになります。患者をなるべく刺激しないような言い方をしたとしても、患者は敏感に反応してきます。そこで、たとえば災害などで救助を待っている人の場合を考えてみましょう。このような救助の場合に注意しなければならないことは、二次災害に巻き込まれないことです。必死になって助けを求めている人が目の前に見えていたりしますと、今すぐにでもなんとかしてやりたいという気持ちになりますが、不用意に近付いて行って二次災害に巻き込まれてしまっては、何のための救助なのか分からなくなってしまいます。ですから、目の前に被災者の姿が見えて、必死に手を振って助けを求めているのが見えたとしても、二次災害の危険のあるうちは現場に近づくことが出来ません。被災者を救うためにあらゆる努力をしたとしても、自分自身が災害に巻き込まれてしまったのでは、救助そのものが成り立たなくなってしまいます。ところが、助けを求めている側からすれば、せっかく目の前までやってきながら何もしないで、ただうろうろしているだけのように見えたりするかもしれません。二次災害の危険性があるから仕方のないことだと頭では分かっていても、なぜ今すぐ助けてくれないのかという苛立たしい思いがするでしょう。そして、もしもこれが境界例だったらどうなるかと言いますと、罵詈雑言を浴びせて相手をののしることになるのです。しかし、助ける側からすれば、まず最初に自分自身の安全を確保しなくてはならないのです。そのためには、患者の巻き込みに対しては拒否の姿勢をとる必要があるのです。しかし、目の前に苦しんでいる人がいるのに、何もしないでいることに罪悪感を感じたりするかもしれません。もし、このような罪悪感を抱いたりしますと、この罪悪感を患者に利用されて人間関係を操作される可能性があるのです。ここで考えなければならないことは、「私」は「あなた」ではないということです。患者の苦しみに対して、理解を示したり、共感を抱いたりすることは出来ますが、患者の苦しみはあくまでも患者自身が背負っている問題であって、周囲の人が患者の代わりに苦しんでやることは出来ないことなのです。ですから、患者の苦しみに共感できても、それ以上のことが出来ないからと言って罪悪感を抱く必要はないのです。たとえば交通事故などで足を切断しなければならなくなった人の場合を考えてみましょう。自分の足を失わなければならないという事態に対して、周囲の人は不幸な事態に対して共感を持ったり、苦しい思いをしている患者を励ましたりは出来ます。しかし、患者の身代わりになって自分の足を切断することは出来ないのです。これはあくまでもケガをした本人が、自分一人で直面しなければならない問題なのです。そして、自分一人でこのような運命を受け入れるための心の作業をやっていかなければならないのです。周囲の人に出来ることは、くじけそうになる本人を励ましたりして支援することなのです。そして、この支援は、本人にとっては、非常に大きな心の支えとなることでしょう。しかし、周囲の人に出来ることはここまでなのです。周囲の人に出来ることは、本人が足の切断という不幸な事態に対して「自分の力」で立ち向かえるように、「可能な範囲内」で最大限の支援してやることなのです。我々は神ではありませんので、決して無限に支援してやることは出来ませんし、また本人の身代わりになって苦しんでやることも出来ないのです。それは、本人が自分でやらなければならない仕事なのです。ですから、それ以上のことをしてやることが出来ないからと言って、そのことに対して罪悪感を持つ必要はないのです。つまり、ここに自他の境界があるのです。

 しかし、境界例の患者はなんとかして周囲の人に身代わりになってもらおうとしたり、自分と一緒に苦しみの泥沼に沈んでもらおうとしたりします。そして、もしも周囲の人から拒絶されたりしますと、いきなり「他人の存在」というものを意識させられることになります。自分の延長のような存在としてとらえていた周囲の人が、突然、掌を返したように赤の他人になってしまうのです。つまり、他人の存在を認めなければならないということは、分離不安や見捨てられ不安と向き合うことになってしまうのです。なぜならば、自分の延長ではない存在がいるということは、その人から切り離されて、見捨てられることになるからです。患者はこのような見捨てられる苦痛を回避するために、自分の延長であることを拒否する人に対して激しい憎しみを向けるのです。しかし、それでもどうしても他人の存在を認めざるを得なくなったときには、「どうせみんな他人でしかないんだ」という、孤独と悲哀に満ちた深い悲しみに襲われたりします。この見捨てられてひとりぼっちになってしまったような寂しさや悲しみは、強い抑うつ感となって現われたりしますが、こういった寂しさや悲しみは何なのかと言いますと、乳幼児期の母親との一体感への喪失とだぶっているのです。言い方を変えるならば、親離れして一人の人間になることへの寂しさや悲しみ、あるいは精神的に大人になることへの寂しさや悲しみでもあるのです。そして、こういった喪失に伴う悲しみの作業というのは、患者が回復していくためには避けては通れない通過点でもあるのです。そして、自分が他人との区別をつけて一人になることの悲しみを見つめることによって、行動化への逃避が弱まり、少しずつ行動化をコントロールできるようになっていくのです。しかし、患者は自立することと見捨てられることを混同してしまい、これが喪失に伴う正常な悲しみの作業の遂行を妨げる原因ともなっているのです。ですので、自他の区別をつけるということは、決して見捨てるという意味ではないんだということを、患者に体験的に理解させる必要があるのです。つまり、看護スタッフが自他の区別をつけるために、患者に対して「NO」と言ったからといって、それは患者を見捨てることではないのです。自他の境界を超えないような事柄に対しては、患者から見れば「どうせみんな他人でしかないんだ」という、その赤の他人でしかない人たちが、患者の苦しみに理解を示したり共感を示したりして励ましてくれるのです。これは「他人」=「見捨てる人」という、患者の心に植えつけられている不信感を修正していくということでもあるのです。そして、スタッフたちがこのような自他の境界に関して、常に一貫性のある態度を取ることによって、最初は境界があいまいだった患者も、徐々にどうやら自分と他人とを区別するルールのようなものが存在するらしいということを肌で感じ取っていくのです。

 たしかに、この世のすべての人は他人なのです。どんなに愛し合っているカップルでも、パートナーというのは、自分とは別個の人間なのです。このような理解の上に立つことが出来れば、パートナーの個性を認めることも出来るようになりますし、相手の人への思い遣りや配慮も生まれてくるのです。もしも、自分と他人の区別が失われてしまい、相手の人を自分の延長のように扱ったりしますと、思い遣りや配慮も失われてしまい、二人の関係は壊れやすいものになってしまいます。このようなことは「親しき仲にも礼儀あり」という諺にも通じるものがあります。つまり、健全な人間関係を作り、それを維持していくためには、そこに健全な自他の区別が必要となるのです。

 いろいろと自他の区別について書いてきましたが、患者に対して「NO」ばかり言っていたのでは治療になりませんのて、許容範囲を広く取る必要があると思いますが、そのためには自分がどの程度までなら巻き込まれないでいられるのかという、その限度を知る必要があります。これは、自分を知るという、非常に奥の深い問題でもあります。それに、自分のことと他人のことを区別するとは言っても、たとえば患者が目の前で手首を切って、その血だらけの手をわざと見せつけるようにして「お前のせいだ!」と言ってわめいたり騒いだりされますと、どうしても慣れないうちはビビってしまうでしょう。自分は患者に対して出来るだけのことはしてやったのに患者は手首を切る。何か自分の対応に問題があるのだろうか、というような思いに駆られるかもしれません。出来るだけのことをしてやったのなら、それでいいのです。あとは、患者が自分で考えなければならない問題なのです。手首を切るという行為も、患者が自分の意志で選択した行為なのです。そのことにまで責任を感じる必要はないのです。もしも、スタッフが患者の行動にまでいちいち責任を感じていたとしたら、それは患者に対して「あなたは自分のやったことの責任を取らなくてもいいんだよ」と言っていることと同じになるからです。これは患者の自立を妨害することになるのです。ですからスタッフは、あくまでもスタッフとしての、患者を支援するという仕事を責任を持ってやっていればいいのです。それに対してどう行動するかといったことは、患者が自分で考えなければならない、患者自身の仕事なのです。スタッフが患者の治るための仕事まで横取りしてしまっては治療にならないのです。こういうことの区別をつけるということが、自分と他人との間に境界を設定するということなのです。

 こういう患者への接し方ですが、スタッフによって対応がちくはぐだったりしますと、患者に混乱を招くだけではなくて、対応の違いを利用されて、病院内の人間関係を操作されてしまう可能性も出てきます。ですので、スタッフ同士でチームワークの取れた一貫性のある態度で患者に接する必要があるのです。

 ここまで入院治療でのスタッフの対応の仕方などについて書いてきましたが、患者は病院の中での制限された生活を通じて、徐々にではありますが自分を見つめることが出来るようになっていきます。それにつれて、行動化への逃避も減少していって、ある程度コントロールできるようになっていきます。それに、セラピストへの信頼感も増していって、一緒に境界例の症状と戦っていこうという関係、つまり治療同盟という関係が形成されていきます。そうすると、今度は退院して通院治療ということになります。

 そこで次に、セラピストは治療場面で一体何をするのかということになります。入院治療を採用していないセラピストの場合には、最初から患者との一対一の関係がずっと続いているわけですが、次回はこのセラピストの治療のやり方といいますか、精神分析的な治療技法やその考え方などについて書いてみたいと思います。


【参考文献】
「 Stop Walking on Eggshells : Taking Your Life Back When Someone You Care About Has Borderline Personality Disorder 」
   Paul T.Mason, M.S. Randi Kreger 1998 New Harbinger Publications,Inc. $14.95
「 The Emotionally Abused Woman : Overcoming Destructive Patterns and Reclaiming Yourself 」
   Beverly Engel 1992 Fawcett Books $10.00


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