境界例の治療技法 6
患者への理解と対応:
投影性同一視という防衛機制は、境界例の患者がよく使う防衛機制です。これはどういう防衛機制かというと、分かりやすい表現で言えば、他人を利用した自己愛や、他人を利用した自己嫌悪ということになります。つまり、他人を鏡のように使うのです。そして、他人という鏡に映った自分に向かって、自己愛的な賞賛を投げかけたり、あるいは逆に鏡に映る自分の醜い姿に向かって、激しい嫌悪感を剥き出しにしたりするのです。表面的には相手を賞賛したり、憎しみを露にしたりしているように見えるのですが、実際には相手の人は患者を映す鏡として利用されているだけなのです。
なぜこんなことをするのかというと、たとえば自己愛を映し出す場合で言えば、自我が貧弱なために自分で自分を愛することができないからなのです。自分に向き合おうとすると、どうしても見たくもない都合の悪い感情と向き合わざるを得なくなりますので、そういう不愉快な事態を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに自己愛を注ぐのです。つまり、極端な言い方をすれば、他人の人格や個性などはどうでも良くて、あくまでも自分の延長としての存在としてしか他人を理解しないのです。
これはたとえば弱者の救済という形で表現されることもあります。救いを求めている自分自身を、他人という鏡に映し出すのです。そして、そこに映し出された哀れな自分を、必死になって救おうとするのです。表面的には弱者を救済しようとしているように見えるのですが、本当に救おうとしているのは他でもない自分自身なのです。しかし、実際に自分で自分を救おうとすると、「見捨てられた自分」という、苦痛に満ちた心理的現実と向き合わなければならなくなるのです。ですので、このような苦痛を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに映った自分を救おうとするのです。そのために、利用できそうな都合のいい弱者を探し出すのです。そして、自分自身の悲惨な状況を省みることなく、他人を救済することだけに情熱を傾けるのです。第三者の覚めた視点から眺めてみますと、「他人のことはいいから、自分自身のことをなんとかしたら?」と言いたくなるような状況が生まれるのです。
入院治療などで問題となるのは、鏡に「悪い自分」が映し出される場合です。患者は病院のスタッフという鏡を通して、自分の醜い姿を見ることになるのです。そして、スタッフという鏡に向かって敵意を露にし、嫌悪感や憎悪を剥き出しにするのです。こうすることで、自己嫌悪を回避することができるのです。本来の自己嫌悪というのは、自分の中にある醜い部分を見つめることで発生するのですが、この醜い姿を強引に他人に押しつけて、その憎まれ役を割り振った人に対して嫌悪感を向けるのです。つまり、自己嫌悪を、他者嫌悪へとすり替えてしまうのです。こうすれば、悪いのはすべて他人ということになりますので、自分自身は善人のままでいることができますし、自分で自分を嫌悪しなくてすむわけです。
たとえば、スタッフに向かって「お前は、自分勝手で自己中心的だ」という非難を浴びせたとします。患者の人柄をよく知っている人からみれば、「自分勝手で自己中心的なのは、他でもない自分自身のことではないか」ということになるのですが、患者自身はそういう自分のいやな部分を見ようとはせずに、そのいやな部分を他人に押しつけるのです。そして、いやな部分を押しつけた他人に向かって「お前は、自分勝手だ」と言って非難するのです。このように自分のことを棚に上げて、他人を非難することで、自分の中にある嫌悪すべき部分と直面することを避けているのです。つまり、自分自身と向き合う代わりに、他人という鏡と向き合って、他人を攻撃するのです。ですから、患者が、「お前は、×××だ!」と言ったとき、「お前は」という部分を「私は」に置き換えてみれば、言っていることがそっくりそのまま患者自身にぴったりと当てはまることがあるのです。しかし、患者は「私は、自分勝手だ!」とは言いません。その代わりに「お前は、自分勝手だ!」「お前は、自分のことしか考えていないじゃないか!」と言って、周囲の人たちを非難するのです。
このような他人を利用した自己嫌悪は、患者が他人に憎しみを向けるというパターンだけではなくて、逆に他人に患者を憎むように仕向けるという形を取ることもあります。自分で自分を憎むのではなくて、自分を憎んでいる「自分自身」を他人という鏡に映し出すのです。そして鏡の役を割り振った他人から、自分を憎んでもらうことで、他人を利用した自己嫌悪という形を作り出すのです。そして、このような形を取ることで、自分で自分を嫌悪するという苦痛から逃げようとするのです。ですから、わざと相手の人から嫌われるようなことをして、相手の嫌悪感や憎しみを誘発するのです。そして、自分は、他人から嫌われる役を演ずるのです。ですから、表面的には相手の人の怒りをかってしまい、嫌われて除け者にされているように見えますが、実際には相手の人というのは、他でもない鏡に映し出された「私を嫌っている、いやな私自身」ということになるのです。つまり、患者はこのような形で自己嫌悪を完結させようとするのです。そして、相手の人は自分でも気づかないうちに患者自身の自己嫌悪のシステムの中へと組み込まれてしまうのです。そして、いつの間にか患者から割り振られた役、つまり患者を嫌うという役割を演じてしまうことになるのです。
では、なぜこのような防衛機制が発生するのかと言いますと、患者には自分というものがないからなのです。自分というものがないので、葛藤を自分だけで抱えることができないのです。加えて、患者は精神的な「分離−個体化」に失敗しているため、自分と他人とを区別する境界が非常にあいまいです。ですから、本来なら自分の中にとどまっている葛藤が、自他の境界があいまいなために、自分の境界の中にとどまっていることができずに、そのまま周囲の人間関係の中へと流出してしまうのです。そして、患者の心の中の混乱が、そのまま周囲の人たちの混乱として表現されることになるのです。そして、周囲の人たちは、患者から色々な役割を押しつけられて、気づかないうちに患者の葛藤の代役を演じさせられることになるのです。そして、こういう形を取ることで、患者自身は自分の見たくもないいやな部分を全部他人に押しつけることが出来ますので、本人としては「善人」のままでいることができるのです。つまり、自分はあくまでも善人であり、悪いのはすべて悪役を割り振った他人のせいなんだということになるのです。
このような投影性同一視のメカニズムを頭に入れた上で、次に患者への対応の仕方について考えてみましょう。もし患者が自分の自己愛をスタッフに映し出して、スタッフを褒めたたえたり、あるいは恋愛感情を抱いたりするときは、病院のスタッフという役割を逸脱しないように注意したほうがいいでしょう。患者が自分の良い面を他人に映し出していたとしても、後になって悪い面を映し出してきたときには、罵倒されたり、こきおろされたりすることがよくあるからです。
厄介なのは、患者の悪い面が映し出されたときなのです。スタッフが患者から激しい非難を浴びたりしたときには、ついカッとなって、言い返してやりたくなったりします。たとえば、先の例で言えば、「お前は、自分勝手だ」と言われたら、「自分勝手なのは、お前の方じゃないか。自分のことを棚に上げて、なんだ!」と言い返したくなったりします。しかし、このような反論は、火に油を注ぐことになります。「自分勝手なのは、お前の方だ」と言われたとき、患者がこの言葉をどのように解釈するかというと、「この人は、こうやって全部私のせいにして責任逃れをしようとしている。ますますもって許し難い自分勝手なやつだ」ということになるのです。そして、さらなる激しい非難を浴びせて来るのです。そして、お互いに「悪いのはお前の方だ」という非難の応酬となり、醜い口論が展開することになるのです。患者にとっては、あくまでも自分は無実であり、悪いのはすべて他人ということになっていますので、このような言い争いになってしまいますと、勝ち目のない泥沼にはまり込んでしまうことになるのです。そして、このような言い争いの騒乱状態というのは、患者の内面の混乱した状態そのものが表現されているということでもあるのです。つまり、患者から何か言われて、それに対して反論したい誘惑に駆られたとしたら、これこそが患者からの、他人を利用した自己嫌悪への「お誘い」なのです。そして、反論したいという誘惑に負けて、ついついこのお誘いにのってしまいますと、いつの間にか、患者から割り振られた悪役を演じされられることになるのです。しかし、このように患者が感情を剥き出しにしてくる場合は、それでもまだ分かりやすいのですが、患者が感情を抑えているような場合には、投影性同一視による操作になかなか気づかなかったりします。たとえば患者がスタッフに悪役を割り振って、いつもスタッフに接するときに、無言のままに悪人に接するような接し方をして来ますと、スタッフの方もいつの間にか患者に対して不親切になっていって、そのうちに自分から進んで悪人のような行動を取ったりするようになるのです。
この他人を利用した自己嫌悪というのは、他にもいろいろな現われ方をします。患者は言う事とやることが矛盾していて、ちぐはぐだったりするのですが、そういう自分自身の矛盾した面が他人に映し出されたりしますと、これが他人の行動の矛盾点を鋭く見抜いて激しく攻撃するという形で現われたりします。また、患者は頭ごなしに決めつけるような言い方をされたりしますと、特に自己愛型の人などはすぐにキレたりするのですが、しかし、その一方で自分が他人を非難するときには、まさにその頭ごなしに決めつけるような非難の仕方をするのです。切って捨てるようなと言いますか、そういう言い方をするのです。こういった、自分のことを棚に上げて他人を非難するパターンを、他にもいくつか挙げてみましょう。
私の存在を無視するようなことをするな。
お前はマトモじゃない。狂っている。常識というものを知らない。
お前は卑怯で陰険なやつだ。
なんで私の言うことが信用できないんだ。
お前は私を支配しようとしている。
お前は欠点だらけだ。
お前のようなやつは、誰からも相手にされないぞ。
お前は態度がでかい。生意気だ。
まあ、境界例の人がこれを読むと、読んだだけでカチンと来る人もいるかもしれません。しかし、もし自分自身の見たくもない一面や、自分自身の欠点を、ある程度素直に見つめることができれば、ああ、自分にも思い当たるところがあるな、と言うふうに振り返ってみることもできるのですが、そう言うことができないからこそ、他人に自分のいやな部分を映し出して、他人を罵倒するのです。そして、もしも相手から「お前自身がそうじゃないか」などと言われようものなら、「なにおー」となるのです。そして、お互いに口論となり、「無視するようなことなんかしていない」とか、「いや、お前は明らかに無視するようなことをしたじゃないか」とか、あるいは「お前は自分勝手なことばかりしている」とか、「いやそんなことは絶対にしていない」とか、そういう不毛の論争になったりするのです。たしかに、相手の人にも、多少は患者が非難するような一面があるかもしれませんが、患者は相手のそういう部分に、非常に敏感に反応していくのです。そして、もしもこれが境界例同士だったりするともっと大変です。お互いに自分のことを棚に上げて相手を非難し合いますので、さらに収拾のつかないような激しい言い争いになっていくのです。
しかし、必ずしも相手の方に患者の言うような問題があるとは限りません。たとえば患者自身が自分勝手で自己中心的だったりしますと、ごく普通の言動であっても歪められて理解されてしまうことがよくあるからです。こういうときは、相手の人は言いがかりをつけられたような不愉快な気持ちになります。そして、患者の主張を真っ向から否定しようとして、むきになって反論したりします。そうなると、ここでまた患者との間で、「お前は××だ」「いや、私は××なんかじゃない」というような不毛の口論が展開することになるのです。
このような患者が仕掛けてくる言い争いに巻き込まれないようにするためには、まず投影性同一視というメカニズムを理解しておく必要があります。そして、患者が投影性同一視というお誘いを仕掛けてきたときには、その手に乗らないように注意する必要があります。具体的に言えば、反論したい気持ちになったときに、まず一呼吸おいて、心を落ち着けたほうがいいでしょう。そして、患者の表面的な言葉ではなくて、その背後にあるものは何なのだろうかということに焦点を当ててみるのです。
もしスタッフが、自分がどういう人間であるのかということをよく理解していて、さらに投影性同一視などの防衛機制の知識を持っていれば、患者から言いがかりのようなことを言われたとしても、あわてることはありません。たとえば、「お前は欠点だらけの人間だ」と言われたとしても、自分にはたしかに欠点はあるが、決して欠点だらけではない、これは敢えて反論するまでもなく自明のことである、というふうに自信を持って判断することができますし、患者の激しい非難に対しても余裕を持って接することができます。もし、患者から大声で怒鳴られたとしても、ほう、今日はやけに元気がいいなぁ、くらいに、ワンクッション置いて受け止めておいて、その次に、この患者は欠点だらけの自分を受け入れることができなくて苦しんでいるんだな、それでこうやって私を欠点だらけの人間だと非難することで、自分自身の苦しみをなんとか解消しようとしてもがいているんだな、という具合に共感的な態度で接することができるようになります。そして、なぜ私が欠点だらけの人間に見えるのだろうか、というふうに、患者の苦しみの源に探りを入れていくことも出来るのです。しかし、この苦しみの源は、患者が苦痛のあまりに直視することを避けている問題でもありますので、深追いすることは禁物です。構造的なことを言えば、患者は自分自身に欠点があると、その欠点ゆえに見捨てられてしまうのではないかという恐怖感を持っていたりするのです。ですから、あくまでも自分は欠点のない完璧な人間でなければならないのです。しかし、このような願望は患者の心理的な現実を無視していますので、かなりの無理が発生します。ですから、そういう見たくもない自分の現実に目をつぶるために、相手にも完璧性を求めるのです。そして、完璧性を満たさない相手が、欠点だらけの人間に見えてくるのです。他にも、患者によってはいろいろな解釈が成り立つと思いますが、こういう分析はセラピストの仕事になりますので、スタッフとしては、患者の苦しみに対して共感的に接することに重点を置いた方が良いのではないかと思います。そして、こういう共感的な接し方を何回も繰り返していますと、患者は自分の苦しみを理解してもらえることで、見捨てられることへの恐怖感が和らいでいくのです。そして、知りたくもない自分自身のいやな部分を少しずつ見つめられるようになっていくのです。
投影性同一視による攻撃は、このように直接本人に向けられるだけではなくて、そこにいない第三者の悪口を言うという形でも現われてきます。たとえば看護婦のAさんをつかまえて、看護婦のBさんがいかにひどい人間であるかを訴えたりするのです。患者は自分の抱いている憎しみを理解してもらいたくて、事実関係を歪めたり、あるいは誇張して大げさに表現したりします。そして、自分の抱いている憎しみに共感してくれるようにと迫ってくるのです。看護婦さんたちも人間ですし、病院という職場での人間関係にも、いろいろなことがありますので、たしかに患者が指摘するような欠点がBさんにあって、患者の言うことに多少は共感を覚えることがあるかもしれません。だからといって、ここで「そうよね。あのに人もそういうところがあって、私たちも困ってるのよね」などと言おうものなら、これが後で大変なことになるのです。つまり、次に患者がBさんを攻撃するときに、「Aさんもこう言っていたよ。あんたも気をつけたほうがいいんじゃないの。そんな態度だと誰からも相手にされなくなるよ」と言う具合に、自分の言った言葉が患者に利用されてしまうのです。さらに話に尾ひれがついて、あることないことを言い触らされたりするのです。そうすると、今度は、この話を聞いたBさんの方が頭に来て、Aさんを批判するようなことを言ったりするのです。すると、これがまた患者によって誇張されて、Aさんの耳に入ることになるのです。このようなことが繰り返されていきますと、やがてスタッフ同士が互いに根深い不信感を抱くようになります。そして、病院内の人間関係が非常に混乱したものになっていくのです。このような混乱した状態というのは、他でもない、患者自身の混乱した内面そのものが周囲の人間関係の中に映し出されたことによるものなのです。しかし、患者は意図的にこのようなことをやっているのではなくて、やむにやまれぬ思いでAさんやBさんのひどい行動を訴えているだけなのです。そして、このような患者の無意識的な行動によって、スタッフたちが患者の葛藤の代役を演じさせられることになるのです。そして、このことによって病院の治療態勢が崩壊の危機にさらされたりするのです。
このような事態にならないようにするためには、患者の感情に共感的に接したときであっても、絶対に患者の前で同僚の悪口を言ったりしないことです。そして、スタッフ同士が互いに信頼関係を維持できるような、チームワークの取れた態勢を作る必要があります。また、投影性同一視によって、スタッフは自分でも気づかないうちに、患者から割り振られた悪役を演じさせられてしまうことがありますので、ときどき自分自身の言動もチェックする必要があります。たとえば、特定の患者に何か悪い感情を抱くようになっていないかとか、あるいはいつの間にかある患者を避けるようになっていだろうかとか、そういう事について自分自身を振り返ってみるのです。そして、これはもしかしたら投影性同一視による操作ではないだろうかとか、患者からそう行動するように仕向けられているからではないだろうか、というふうに考えてみるのです。このような自己点検をしてみても、時には自分自身でも気づかないことがあったりしますので、同僚同士でお互いの問題点を、気兼ねなく指摘しあえるような雰囲気を作ることも大切です。このように、境界例患者と接するということは、常に自分自身と向き合うということであり、自分自身を知るということにもつながっていくのです。
次回は、境界例患者と接するときに重要な意味を持つ、自分と他人との間の境界設定について書いてみたいと思います。
【参考文献】 「羨望と感謝 無意識の源泉について」 メラニー・クライン みすず書房 1975.1.15 \1200 「 Stop Walking on Eggshells : Taking Your Life Back When Someone You Care About Has Borderline Personality Disorder 」 Paul T.Mason, M.S. Randi Kreger 1998 New Harbinger Publications,Inc. $14.95 |