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境界例の治療技法 5

患者への理解と対応:
  患者の怒り    Ver 1.0 2000/03/26

 境界例の患者の引き起こす問題行動には、さまざまなものがありますが、特に患者の怒り、退行、投影性同一視などについては、セラピストだけでなくて、入院治療を行なう場合などは病院のスタッフもその意味を十分に理解し、適切な対応を取らないと医療の現場が患者によって非常に混乱させられてしまいます。そこで、こういった患者の問題行動の意味と、それへの対処方法について代表的なものを取り上げて書いてみたいと思います。

 まず最初に患者の怒りについてですが、患者はときどき病院のスタッフに対して罵詈雑言を浴びせたり、悪態をついたり、あるいはわざと感情を逆撫でするような行動を取ったりすることがあります。このような行動は、決して重症の患者だけに見られるものではなくて、ごく軽い神経症のような患者でも、ときには背後に潜んでいた境界例的な側面が顔を出してきて、今までずっとおとなしかったのに、ある日、ある時、突然怒りを爆発させて荒れ狂ったりすることもあるのです。このような怒りの感情の表出は、たしかに病院のスタッフからすれば厄介な問題ではありますが、患者が回復するためにはどうしても通過しなければならないポイントだったりすることもあるのです。

 では、このような境界例の持っている激しい怒りとは何なのかということについて、少し考えてみたいと思います。この怒りとは、ホームページの表紙に重症例として紹介している患者の悲痛な叫びにも通じるものがあるのです。つまり、「なんで生きなきゃならないのか教えろ!」という、生きなければならないことへの激しい怒りがあるのです。なぜならば、境界例の人は生きるために必要な、心の支えとなるものをまったく持っていないからなのです。幼いころからずっと、見捨てられる不安や恐怖にさらされて育ってきたために、自分で自分を支えるものを、まったく持ち合わせていないのです。しかし、こんな状態ではあっても、それでも生きていかなければならないのです。幼いころから、精神的に自立しようとするたびに足払いをされて来たので、自分の力で立ち上がろうとしても、立ち上がることができません。自分の人生なのに、自分ではどうすることもできないのです。ですから、なぜこんな苦しい思いをしながら生きていかなければならないのかという、そういう不条理に対する激しい怒りがあるのです。

 そして、境界例の人は自分の苦しみを周りの人に理解してもらうために、周りの人にも自分と同じ苦しみを体験させようとするのです。悪態をついて相手を罵倒したり、攻撃したりすることで、自分の苦しみを体験的に理解させようとするのです。言葉で表現できないような苦しみは、相手に実際に体験してもらえば一番よく理解してもらえるのです。そこで、幸せそうにしている人の足を引っ張って、自分がもがき苦しんでいる泥沼へと引きずり込もうとするのです。これが、境界例の人が取るコミュニケーションの方法なのです。わざと嫌われるようなことをしたり、周りの人に対して破壊的な行動を取ったりすることで、自分の持っている苦しみを、周囲の人と共に分かち合おうとするのです。こういう形でしか、自分を表現できないのです。

 このような境界例の人の怒りに対して、どのように対応したらいいのかと言いますと、まず患者のこのような苦しみに対する理解と共感が必要となります。せっかく救いの手をさしのべてやっているのに、なぜその救いの手に噛み付くような行動を取るのだろうかという、その破滅的な行動の裏にある、生きることへの怒りなどを理解できないことには、どうしても「救いようのないやつだ」というような、表面的な受けとめ方しかできなくなってしまうのです。そして、患者の行動をただ単に「態度の悪い患者」としてしか理解できず、その結果、患者の挑発に乗ってケンカしたり、あるいは患者に対して「そういう態度を改めないと、もう誰も相手にしなくなるぞ」と、見捨てるような脅しをかけて、説教しようとしたりするのです。これでは治療になりません。ですから、このような事態を避けるためにも、患者の怒りの背後にある苦しみへの理解が必要となるのです。そして、このような患者の怒りの表現に対応するには、患者の浴びせかける言葉尻とらわれることなく、その背後に潜んでいる苦しみに向かって、共感的に働きかけていかなければならないのです。

 このような患者への接し方の、分かりやすい具体的な例として、小児科医でもあり、乳幼児精神医学の日本におけるリーダー的な存在でもある渡辺久子のケースを紹介してみたいと思います。彼女が大学病院の小児科に赴任してきたときに、死にそうなくらいに重症の拒食症の少女を見て、自分が救ってやらなければこの子は死んでしまうと思い、この患者を自分から申し出て引き受けたのです。この拒食症の患者は、ガリガリに痩せていて、点滴でかろうじて生きているような状態でした。しかし、この患者は激しく悪態をつき、大声で罵声を浴びせて来るのです。「私に食べさせる気なのか! 私をブタにする気なのか! 私を苦しめる気なのか! 私はこんなことをされるなら死んだほうがいいんだ!」。このような患者の叫び声に対して、彼女はこう応えています。「ああ、なんていい声なんだろう。こんないい声を聞けるのはまだ生きている証拠だ。ありがたい、ありがたい、まだまだ救える」。

 こんなふうに、患者が投げつけてくる言葉尻にとらわれるのではなくて、その背後にある患者の生きることへの苦しみを理解し、その苦しみに向かって働きかけるのです。これはある意味では患者との真剣勝負なのです。中途半端な態度では、すぐに患者に本心を見抜かれてしまいます。このような重度の拒食症患者というのは、痩せて骨と皮だけになりながらも、それでも自分の命をかけて必死に何かを訴えようとしているのです。このような命がけで訴えている苦しみを理解して、共感することができれば、患者が浴びせかけてくる罵詈雑言でさえも、渡辺久子の言葉を借りれば、「いじらしいですね」と思えるようになるのです。

 もうひとつ渡辺久子の例を挙げましょう。これは知能指数150という天才的な知能を持った男の子ですが、この子は罵詈雑言を浴びせるだけではなくて、渡辺久子に対してツバを吐きかけたり、足で蹴飛ばしたりして、さまざまな悪態をついてきます。これは、自分の怒りを分かってもらうために、挑発的な行動を取っているのです。つまり、相手の怒りを誘発させることで、体験的に自分の怒りを理解させようとしているのです。自分が持っている生きることへの怒りを、相手にも同じような思いをさせることで理解してもらおうとしているのです。そして、これも一つのコミュニケーションの形なのです。こういう形でしか、自分の苦しみを表現できないのです。渡辺久子は、この患者から足で蹴飛ばされて「あっちへ行け」と言われるのですが、ひるむことなく「あっちへなんか行かない」と、言い返しています。そして、共感的な態度で「でも、君、いいじゃないか、一緒にここにいようよ」と、話しかけているのです。

 このような患者の攻撃性というのは、先に書いた「試し」の意味もあるのです。患者は見捨てられることの苦しみをいやと言うほど体験していますから、セラピストや病院のスタッフに対しても、はたして本当に自分を救ってくれるのだろうか、それとも、もしかしたら自分は途中で見捨てられてしまうのではないだろうかと、疑いの目で見るのです。そして、この男の子のように、足で蹴っ飛ばしたりして、相手を試しているのです。たとえば、もし患者から、「お前なんか、あっちへ行け!」と怒鳴られて、その言葉の表面的な意味に反応してしまって、むっとして、そのままあっちへ行ってしまったとしたら、患者にとってその人は「見捨てる人」になってしまうのです。そうならないようにするためには、そういう言葉を口にせざるを得ない患者の苦しみを理解し、その苦しみに向かって働きかけてやる必要があるのです。ですから、「お前なんか、あっちへ行け」と言われたとしても、「あっちへなんか行かない。君を助けるんだ」と言い返せるくらいの心構えが必要なのです。患者としても、悪態をつきながらも、本当はそういう反応を望んでいるのです。しかし、へたに相手を信用して、後で見捨てられてしまうのが恐いので、悪態をつきながら相手を試しているのです。つまり、どんなにひどいことをされても、「君を助けるんだ」という反応が返ってくるかどうかを、繰り返し試しているのです。ですから、セラピストやその他の病院のスタッフも、患者を助けるんだという揺るぎない信念を持って、一貫性のある態度で患者と接し続ける必要があるのです。しかし、ここで注意しなければならないことは、「患者を助ける」という言葉の意味です。これは、決して救済者妄想のようになって愛情の押し売りをすることではありませんし、患者の要求に何でも応えてあげることでもありません。精神的に自立した人間として、自分と他人との間に健全な境界を設定した上で、患者の心に残っている自立心を支援していくということなのです。詳しいことは、後で別の項目で書く予定です。

 さて、このように「〜すべきだ」というようなことは、書くことは簡単ですが、現実には生身の人間のやることですので、なかなか難しい面があります。セラピストや病院のスタッフも神様ではありませんので、人間的な欠点や弱点も持っています。そこを患者から突かれると、時には自尊心をズタズタに傷付けられることもあるでしょう。しかし、考えようによっては、境界例患者を扱うということは、セラピストとして、あるいは病院のスタッフとして成長するための、またとない機会を与えられるということでもあるのです。ですから人によっては、自分の能力を向上させるために、積極的に境界例患者と取り組んだりする人も中にはいるのです。そして、境界例患者を扱うということは、ただ単に仕事での能力を磨くだけではなくて、患者との格闘を通じて、人間的にも成長することになるのです。そして、自分にさんざん罵詈雑言を浴びせて悪態をついていた患者や、死ぬの生きるのと、周囲を巻き込んでは大騒ぎを繰り返していた患者などが、やがて立ち直っていって社会に適応していく姿を眺めるというのは、患者との感情的なかかわり合いが深い分だけ、感慨深いものがあるのではないでしょうか。境界例の患者は、感情が変化に富んでいて、ドラマチックだったりしますので、セラピストとしての人生に、患者がさまざまな思い出を残していってくれることでしょう。

 読者のみなさんの中には、カウンセラーを志している人もいるようですし、現在大学や大学院で心理学を専攻している人もいるようです。そこで、あなたが今この文章を読んだのも何かの縁ですので、これを機会に、将来の選択肢の一つとして、境界例を扱えるセラピストになることを考えてみてはいかがでしょうか。そして、苦しんでいる私たちの仲間を救っていただけないでしょうか。お願いします。m(_ _)m

 次回は境界例を理解する上で欠かすことのできない「投影性同一視」という防衛機制について書いてみたいと思います。


【参考文献】
 文章中の引用はこの本からです。
「乳幼児:ダイナミックな世界と発達」 渡辺久子 他 安田生命社会事業団 1995.4.1


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