ホーム回復のための方法論


防衛機制のパターン 3

合理化  Ver 1.0 1999/06/13

 合理化というと、すぐに思い浮かべるのが酸っぱいブドウの話です。ブドウが欲しいのに、ブドウは高いところにあって手が届かない。そこで、あれは酸っぱいブドウなんだと自分に言い聞かせて納得すると言う話です。
 落語にも面白い話があります。ソバっ食いであることを自慢している人が、ソバを汁にジャブジャブつけて食べるのは田舎者のやることだと言って馬鹿にしていました。ソバというのは、汁が付くか付かないかくらいで、さっと食べるのが、通の食べ方であると言っていました。ところが死に際になって、一度でいいから汁にジャブジャブ付けて食べたかったと言って死んだそうです。このケースなどは自分でもある程度は自分の本心がどこにあるのか理解しているので、まだ救われるのかもしれません。自分の本心が合理化によって完全に多い隠されてしまうと、問題の解決が困難になってきます。

 たとえば、ある男が、自分に好意を寄せていると思われる女性にラブレターを書いたとします。ところが手紙をもらった女性は、男のことをなんとも思っていませんでした。手紙を見ると、その男に向かって微笑んだとか、意味ありげな視線を送ったと書かれているのですが、そのような覚えはまったくありませんでした。彼女は、相手にするつもりもなかったので、無視していました。男の方はいつまでたっても返事が来ないので、なぜだろうかと考えました。そして、きっと彼女は私に愛を告白するのが恥ずかしいからだと考えました。そこで、恥ずかしがらなくてもいいんだよという手紙を書きました。しかし、それでも返事が来ません。再び、なぜだろうかと考えました。きっと彼女は私が他の女性と付き合っていて、二股をかけていると疑っているのだろうと考えました。そこでまた手紙を書いて、自分は誰とも付き合っていないということを告げました。それでも彼女からは返事が来ません。彼はまた理由を考えました。そして、きっと家族の人が反対しているから、返事を書けないのだろうと考えました……。

 このケースは、どこまでいっても自己中心的な理由付けを続けて行きます。彼女の口から「あなたは嫌いだ」とハッキリ言われても、きっと家族の人にそう言えと強制されているので、わざと本心とは正反対のことを言っているのだ、ということになってしまいます。第三者からみれば不自然な理由付けなのですが、本人は自分の考えに確信を持っています。もし、彼女の家族が間に入って、「うちの娘には近付くな」などと言ったりしますと、ますます、彼女は親によって洗脳されつつあるあるのだという確信を強めてしまいます。彼にしてみれば、自分で考えた結果得られた確信です。たしかにそういう見方をしようと思えば出来ないこともないですが、客観的に考えてみれば、あまりにも不自然です。しかし、彼は不自然さにまったく気付いていません。周囲の人が問題点を指摘すればするほど、彼の心は頑なになって行き、確信はより堅固なものになってしまいます。

 こういったことは、妄想症によく見られることです。こういった歪んだ理由付けが、宗教や政治の方に行ってしまいますと、信仰や思想の問題になってしまい、自分の抱えている問題を直視することが非常に困難になってしまいます。

 彼女に手紙を書いた男性は、私は彼女が好きだ、とはならずに、彼女が私に好意を持っている、というふうに理由付けされています。一方的な片思いなのですが、振られてしまうことへの恐れから、彼女の方が自分に好意を持っているのだというふうに、すり替えられてしまうのです。たとえどんな出来事があっても、彼女は私のことが好きなんだという確信は揺るぎません。本人にしてみれば、彼女が自分に好意を抱いている証拠は山ほどあるのです。彼女は周囲の人に洗脳されていて、本心を歪めさせられているだけなのです。だから、何としてでも彼女を洗脳から目覚めさせ、この状況から救い出さなければならない、という使命感に燃えたりします。彼女が自分を好きなのではなくて、自分自身が彼女を好きなのだということに気付くには、治療場面ならともかく、自分の力だけでは不可能に近いでしょう。彼自身の視点から見れば、自分の抱えている問題は、いかにして彼女を目覚めさせ、いかにして救い出すかという、そのことだけなのです。

 境界例の人は、個の確立が出来ていないので、現実検討能力が低下していたりします。現実を客観的に見ることが出来ず、自分勝手な歪んだ解釈をしてしまうことがあります。しかも、自分ではこういった合理化に気付かないことが多いでしょう。たとえば見捨てられ不安に直面しても、他の問題にすり替えたりして自分をごまかしてしまいます。そして、自分には見捨てられ不安などないのだということにしてしまいます。

 この文章を読んでいる人は、多少なりとも自分の心に見捨てられ不安らしきものがあるかも知れない、と思っている人が多いのではないかと思います。もし、少しでも心に引っかかるものがあれば、見捨てられ不安を合理化によってごまかしていないか、点検してみるのもいいかもしれません。自分の持っている見捨てられ不安や恐怖感がすり替えられて、逆に周囲の人が見捨てようとする血も涙もない冷酷で残酷な人であるとゆうふうに意味付けされたりしていませんか。これほど極端でなくても、いろいろな合理化が私たちの思考や行動に潜んでいたりします。自分の思考や行動を、現実と照らし合わせてみて、できるだけ客観的な目で検討してみると、ときには自分の間違いに気づくこともあります。なるべく自分の行動を、一歩下がって「客観的」に見るように努力していれば、少しずつではあっても、状況が改善して行くことでしょう。



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