自分を直視することを避け、知性の世界や、観念的な世界に逃避してしまうことです。専門用語を乱発したり、やたらに難しい言葉を使ったり、言い訳的な言説に終始したりします。一見ものごとを理解しているように見えたりしますが、本質的なことは何も理解していません。
難しい表現を使ったりすると、自分自身でも何かを理解したような気になりますし、誇大感を膨らませることもできます。しかし、その背後にあるのは優越感を持ちたいという気持ちであり、支配したいという願望です。これは見捨てられ不安から来る、無力感の裏返しだったりします。観念の世界に逃げ込んでしまうと、自分の感情をありのままに直視することが難しくなります。乱発する知的な言葉は、本質的な問題へのめくらましとして機能します。
このような知性化は、言い訳のため屁理屈としても機能します。だれかから自分の行動の問題点を指摘されると、それなりのつじつまの合った説明をします。本人もその説明は間違っていないと思い込んでいます。自分の行動は正当化されます。しかし、第三者が見れば、単なる言い訳にしか見えません。逃げているだけなのです。さらに追求されても、言い訳を重ねるだけで、決して自分を素直に見つめることはありません。そして、本人はどこにも問題がないと思い込んでいます。自己洞察においても、言い訳的な、的外れの展開に終始して、分析が停滞したりします。
人間の行動はそれほど知的なものではありません。たとえば動機が食い物の恨みからであったとしても、そういった卑しい動機は深く隠されてしまい、哲学的で高尚な説明がついたりします。見捨てられた孤独感が、人生の虚しさに関する哲学や、人類の宇宙的な孤独感にすり変わったりします。このような哲学や言い訳は、行動や感情を正当化するために、後から作られるものなのです。最初に行動に駆り立てる衝動とは、実に卑近な感情でしかなのです。自己分析においては、この卑近な感情を見つめる必要があります。そして、語るべき言葉は、心の底から絞り出された、感情によって裏打ちされたものでなければなりません。悲しみや、怒り、嫉妬、羨望、食い意地、独占欲、軽蔑、陰険な復讐願望、境界例の人の心の底にはこういった諸々の感情が眠っています。こういう感情を見つめ、知的な言葉ではなく、自分自身の言葉で語らなければなりません。
もちろん、このページを読んでも、知ってるだけで終わってしまい、ぜんぜん自己分析に生かされないとしたら、それも知性化と言えるでしょう。