ホーム回復のための方法論


過去を振り返る 5

偽りの記憶 
 Ver 1.0 1999/07/20

 我々は自分の過去を、実際にあったこととして振り返ります。アメリカなどでは、甦った性的な虐待の記憶に基づいて、親を告発するケースが続発しました。その裁判の中で、審理を進めてゆくうちに、甦った記憶というのが、客観的な事実とは違う場合があることが明らかになって来ました。親が嘘をついたとしても、その他の事実確認できることをチェックしてゆくと、どうも事実と違うということがわかるようです。

 私もこのホームページを作るに当たって、あの本にこんなことが書いてあったはずだと言うことを思い出して、引用してみようと思い、昔読んだ本を引っ張り出してめくってみますと、なんと、そこには記憶とはぜんぜん違ったことが書いてあって、愕然とすることが何回かありました。この本のこの辺に書いてあったということまで鮮明に覚えていて、絶対に記憶に間違いはないはずだったのに、実際に本をめくってみると、ぜんぜん違うのです。要するに勘違いというのでしょうか、あるいは、時間の経過とともに、過去に読んだ事柄が脚色されてしまったのでしょうか。しかし、自分の意識としては脚色したなどという意識はまったくありません。

 あるいは、それほど昔の本ではなくても、数ヶ月前に読んだ本の、あのページのあの言葉を、あのノートのあそこに書き留めておいたはずだ、そのことは実に鮮明に記憶に残っているのに、実際に書き留めたはずのノートをめくってみるとどこにも書かれていない、などということもありました。必死になってノートのあちこちをめくってみても、さっぱりわからないので、仕方なくあきらめて、しばらくしてから、ふとノートをめくってみますと、記憶とはぜんぜん違ったところに書いてあったことを発見する、と言うようなこともありました。

 私たちの過去は、客観的に実証することは困難なことが多いと思います。親に向かって、子供のころ私にこんなひどいことをした、と言っても、親も記憶があいまいだったり、あるいは「バカなこと言うんじゃないよ」と一蹴されてしまうかもしれません。自分では、ありありと覚えていることも、親から否定されたりしますと、自分でも確信がもてなくなり、自分の覚え違いではないかと思ったりします。覚え違いでなくて、たとえば、実際に親から性的な虐待を受けたことが事実であった場合でも、精神的に耐え難いできごとは、私たちの記憶から消されやすい傾向がありますので、何が事実だったのかという検証は困難なものになるかもしれません。

 しかし、自己分析をやっていく際に大切なことは、過去のできごとが事実であるかどうかという検証よりも、そのような出来事があったという、そういう確信を抱いている自分自身の記憶を尊重することです。その記憶は、私たちにとって精神的に重要な意味を持っていますので、その意味を分析してゆくことが大切です。分析が進んでゆくと、悲惨だったはずの過去が、思っていたほどひどいものではなかったと思えるようになることもあります。極悪非道の親だったはずなのに、自分が親から精神的に分離できるようになれば、親を一歩離れたところから冷静に眺めることが出来るようになります。そして、この人はもともとこういう人なんだという覚めた判断が出来るようになり、距離を置いた関係を作れるようになります。親への執着があるからこそ、凄まじい憎しみが生まれるのです。親に対する、精神的な密着があるからこそ、親を際限なく責めたくなるのです。――と、まあ、口で言うのは簡単ですが、これを乗り越えるのは大変なことです。修羅場をいくつもくぐり抜けなければならなかったりします。

 セルフ・ヘルプ関係の本には、自分の過去が一方的に脚色されないようにするために、過去の嫌なできごとと、良かったできごとを並べて書くという方法がよく出てきます。一覧表にしてみれば、頭の中であれこれ考えているよりは、ずっと客観的に自分の過去を見つめることが出来ます。




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