境界例の人との付き合い方 3
限界と境界の設定
いままで境界例の人と接するときには、限界や境界の設定が大切だと書いてきましたが、ここではそのことについて書いてみます。
まず最初に、自分が自分であるというのは、どういうことなのかということについて、少し考えてみまょう。たとえば、「これは鉛筆です」と言った場合を例に取ってみましょう。鉛筆が鉛筆であることを確定するために、ここには二つの要素が含まれています。ひとつは、文字通りに「これは鉛筆である」という肯定の意味ですが、そのほかにももうつひとつの隠された意味として、「これは鉛筆以外の物ではない」という否定の意味も含まれているのです。つまり、「これは鉛筆です」と言った場合には、同時にボールペンではない、万年筆でもない、シャープペンシルでもない、というふうに、自分以外のすべての物を否定する意味が含まれているのです。そして、自分以外のものを否定することによって、鉛筆が鉛筆であると確定されるわけです。
これと同じように、私が私であるためには、「私」というものの範囲を超えるものに対しては、「NO」という態度をとる必要があるのです。しかし、「NO」と言うためには当然のことながら、自分とは何かということについての、自分なりの答えを持っていなければなりません。たとえば、自分と他人の間の境界線がどこにあるのかといったことや、自分自身の能力の限界がどれくらいなのかということについて知っていなければならないのです。このような自分自身への理解は、追求していけばきりがないのでありますが、これがある程度の確かさを持って確立されていないことには、境界例の人と付き合っているときに、自他の境界線をさんざん引っかき回されて、精神的にどんどん追いつめられてしまうのです。
たとえば、境界や限界の確立が不十分なケースとしてよくあるのが、境界例の人の要求にすべて応えてやるのが愛情であると誤解しているパターンです。境界例の人は、要求がひとつ受け入れられると、その次にはさらにその上の要求を突きつけてきたりします。そして、要求がどんどんエスカレートしていって、しまいにはとても対応できないような要求を突きつけてきたりします。そして、要求が受け入れられないと、「私のことを愛していないのではないか」と言ってあなたを非難するのです。なぜこのように要求がエスカレートしていくのかと言いますと、境界例の人は乳幼児期における親との精神的な分離が達成されていないために、大人になっても未だに果てしない一体感を求め続けているからなのです。この一体感というのは、赤ん坊のころのような自分と他人の区別のない一体感であり、同時に自分が赤ちゃん帰りをして、すべての面倒を他人にみてもらうことでもあるのです。そういう願望が背後にあるために、要求がどんどん肥大化していくのです。しかし、現実には境界例の人は赤ちゃんに戻ることは出来ません。体はもう大人なのです。そして、現在に至るまでの人生を背負っているのです。それなのに、境界例の人は一体感への未練を断ち切ることが出来ずに、不可能なことを延々と求め続けるのです。そして、それが不可能な願望であるが故に、自分自身も傷つき続けることになるのです。
あなたは神ではありませんので、当然のことながら相手の要求に無限に応じていくことは不可能です。あなたがあなたである限り、あなたに出来ることには限界があるのです。ですから、自分に出来ないことには「NO」と言っていいのです。というよりも、限界を超えるものに対して「NO」と言わないことには、自分自身を見失ってしまい、精神的にも行き詰まってしまうのです。
しかし、あなたが「NO」という選択肢を持って、自分というものの輪郭をはっきりと描こうとすると、そのときあなたは、あなた自身の心の問題に直面することにもなるのです。それは何かというと、「NO」という言葉を口にするときの罪悪感です。相手の要求を拒否してしまうのは、自分勝手なエゴイズムではないだろうかという間違った罪悪感にとらわれたりするのです。
しかし、「NO」という選択肢を持つということの意味は、自分の輪郭をはっきりさせると言う意味もありますが、それだけではなくて、相手からの侵略を防いで自分自身のことを大切にしたり、自分で自分の面倒をみるだけの余裕を確保するということでもあるのです。これは、あなたが人間として持っている基本的な権利なのです。誰もが、自分を大切にする権利、自分自身の価値観や願望を大切にする権利、そして、それを主張する権利を持っているのです。たとえば、犬や猫が自分の体の毛を舐めて毛づくろいをするように、あなたにも心の毛づくろいをする権利があるのです。心の毛づくろいをして、健康を保つ権利があるのです。これは、自分が自分らしくあるために、どうしても必要な行為なのです。
しかし、あなたは育ってきた過程で、自分を大切にする行為と自分勝手な行為とを混同するような、間違った考えを植え付けられていたりするのです。常に周囲の人のことを考えて行動するように躾けられていたりするのです。自分の利益よりも、まず相手の利益、集団の利益、全体の利益のことを考えるのです。自分の利益になることや、自分の役に立つことをするのは、利己的で自己中心的であると教えられていたりするのです。これは、間違った考えなのです。もし、犬や猫が、自分自身の毛がボサボサになっているにもかかわらず、他人の毛ずくろいの手伝いばかりしていたらどうなるでしょうか。やがてノミやダニが皮膚を食い荒らし、とても他人の毛づくろいどころではなくなってしまいます。それどころか、汚れた毛から悪臭がして、誰も近付かなくなってしまいます。
このようなことは、災害救助の場合を例に挙げれば、もっと分かりやすいかもしれません。災害に遭遇した被災者を救助するときに、まず大切なことは、自分自身の安全を確保することです。もし、目の前にいる悲惨な被災者に心を奪われてしまい、自分の安全確保がおろそかになってしまうと、途中で二次災害に巻きこまれてしまい、もはや救助どころではなくなってしまうからです。被災者を助けるためには、まず最初に、我が身の最低限の安全を確保する必要があるのです。これは、救助を実行するためには必要不可欠なことであり、このことに罪悪感を感ずる必要などまったくないのです。もしも、レスキュー隊の人が、自分の安全を確保することにいちいち罪悪感を感じていたのでは、まったく仕事になりません。確かに危険と隣り合わせの仕事ではありますが、自分が動き回れるだけの安全性が確保されていて、そこで初めて救助という仕事が成り立つのです。
境界例の人に対応するときも、まったく同じことなのです。相手の人から次々と要求を突きつけられたとしても、言われるがままに応じてしまうのではなくて、まず最初に、最低限の自分の精神的な安全性を確保する必要があるのです。このように、まず最初に自分の安全を守るということは、あなたにとって必要なことであるというだけではなくて、あなた自身の、人間としての「権利」でもあるのです。あなたには、毛づくろいをして心の毛並みを清潔に保つ権利があるのです。たとえどんな状況にあったとしても、あなたには、自分のことを大切にする権利があるのです。そして、自分のことを大切にするために、「NO」と言う権利があるのです。たとえ、相手からどんなにひどいことを言われた時でも、どんなにひどい仕打ちを受けた時でも、あなたには、「NO」という言葉を発して、自分のことを守り、自分のことを大切にする権利があるのです。
このように「NO」という選択肢を持つということは、同時に自己決定権を持つということでもあるのです。「NO」という選択肢を持つことによって、あなたは自分の意志で「YES」か「NO」かを選ぶことが出来るという、決定権を持つことになるのです。つまり、自分の意志で、どこまでを「YES」とするか、そして、どこから先を「NO」とするのかを決めることかできるのです。たとえば、相手の要求に対して、どこまでなら応じる用意があるのか、そして、どこから先を「NO」と言って断るのか、その選択を自分の意志で行うことが出来るのです。相手の人の面倒をみるときでも、どれだけの時間を相手のために割くのか、そして、自分自身のプライベートな時間をどれだけ確保するのか、そういうことを自分の意志で決定できるのです。相手の言われるがままに動いてしまうのではなくて、「NO」と言う選択肢を持つことによって、あなたは自分の行動を自分で決めるという、自己決定権を獲得することができるのです。そして、このことによって自分を大切にすることが出来るのです。
このように、「NO」という選択肢を持つということは、自分で設定した限界や境界を維持するための強力な手段となるのですが、そこで次に必要となるのが、自分自身の限界や境界がどこにあるのかという問題です。これは「自分を知る」ということにもつながって来る、非常に奥が深い問題です。しかし、これがある程度の確かさを持って確立されていないことには、境界例の人から振り回されてしまうことになるのです。では限界とは何なのでしょうか。当然のことながら私たちは神ではありませんので、無限の能力は持ち合わせていません。ですので、自分の置かれている「現実」というものを冷静な目で見つめてみますと、実際に自分に出来ることには限度というものがあるのだという、まあ、当たり前といえば当たり前の事なのですが、そういう限界に直面するわけです。たとえば、私たちは飲まず食わずで生きていけるわけではありませんので、生きていくためには、収入を得なければなりません。そして、収入を得るためには、人生の時間の何割かを労働のために費やさなければなりません。そして、生活というものを営んでいくためには、部屋を掃除したり、風呂に入ったり、床屋に行ったりする時間も必要です。そして、精神的な健康を維持するためには、ある程度の余暇や娯楽も必要となって来るのです。これらのことは、あなたが人間らしく生きていくための、どうしても必要な自己メンテナンスなのです。そして、もし、あなたが何事かをやるとしたら、これらの最低限の自己メンテナンスを妨げられない範囲内で行うことになります。もし、自己メンテナンスが出来なくなってしまうとしたら、そこがあなたの限界点なのです。つまり、人間らしく生きることができて、自分のことを大切にすることができて、そして、自分というものを失わないでいられる範囲、そこがあなたの限界点となるのです。そして、それらの限界点が人間関係において表現されるとき、それが自分と他人とを分離する境界線となるのです。
では、境界例の人と接したときに、具体的にどんな風に限界や境界の設定をしたらいいのかということについては、上記のような一般論だけではわかりにくい面もあるかと思いますので、次回からは、境界例の人と接したときのトラブルの代表的な場面をいくつか取りあげて、それへの対応方法について書いていきたいと思います。
ということで、次回は、まず最初に、境界例の人がキレた時や暴力行為に出た時への対応方法を取りあげます。
【参考文献】 「 Stop Walking on Eggshells : Taking Your Life Back When Someone You Care About Has Borderline Personality Disorder 」 Paul T.Mason, M.S. Randi Kreger 1998 New Harbinger Publications,Inc. $14.95 「 The Emotionally Abused Woman : Overcoming Destructive Patterns and Reclaiming Yourself 」 Beverly Engel 1992 Fawcett Books $10.00
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