ホーム医療とサポート

境界例の人との付き合い方 2

救済者幻想と支持的サポート
  Ver 1.0 2000/07/22
 

 境界例の人と接したときに、反感を抱きながら「この人を変えよう」と思う場合もありますが、最初のうちは共感的な態度で、この人を何とかして救うことはできないだろうかと思う場合もあります。そして、救済者を演ずるという幻想を掻き立てられて、救いの手をさしのべるのですが、境界例の人にさんざん振り回されることとなり、やがて疲れ果てて反感を持つようになったりすることがあります。このような現象は、ただ単に境界例の人に問題があるというだけではなくて、あなた自身の心の中になんらかの隙があり、それが境界例の人と接したときに、救済者幻想という形で現われたりするのです。この救済者幻想には、いくつかのパターンがありますので、まずそれらをひとつずつ見てみましょう。その後で、幻想ではなくて本当の意味での支持的な態度とはどういうものなのか、ということについても考えてみましょう。

 まず、一番よくあるケースではないかと思うのが、問題を抱えている「知人」を救済しようとするケースです。ここで特徴的なのが、「知人」というその関係性なのです。身内の人ではなくて、友達でもなく、恋人でもないのですが、深刻な問題を抱えているような人を見ると、じっとしてはいられないような気持ちになるのです。確かに、困っている人を助けるという行為は健全な行為なのですが、ここで問題となるのは、自分と他人との区別が不明確なために、他人との距離の取り方が分からなくなって混乱してしまうという点なのです。つまり、知人という社会的な距離を無視して、いわゆる余計なお世話を焼いてしまうのです。確かに境界例の深刻な問題を抱えているような人は破滅的な行動をとったりしますし、「誰か私を助けて!」という叫び声が、体中から滲み出ているような印象を周囲の人に与えます。こういう人を見ると、「なんとかしなくては」という切実な思いに駆られたりするのです。もしも、救済しようとする思いが、相手の人の助けてもらいたいという思惑と一致すれば、そこから両者の関係が展開していくのですが、しかしこれが案外とそうはならなかったりもするのです。なぜかというと、余計なお世話というのが、心理的な距離を無視していたり、相手の主体性を無視した押し売り的な救済行為となりがちだからです。こういう場合には、相手の人から「あんたには関係ない事でしょう。ほっといてよ」などと言われたりすることになります。

 こういう余計なお世話を焼くタイプというのは、自分の問題よりも他人の抱えている問題となると、俄然と熱心になる傾向があります。しかも、境界例の人の抱えている問題というのは、非常に華々しい症状を伴うことがありますので、ますます世話を焼きたくなったりするのです。たとえば、手首を切って血だらけになったり、薬を一気飲みして自殺未遂をしたりと、破滅的ではありますが、同時に強烈なドラマ性も持っていたりしますので、そういう人を見かけると、ますます世話を焼きたくなって、じっとしていられなくなるのです。そして、「私は救済者なのだ」という重々しい使命感に燃えて、まるで映画やテレビドラマの重要な登場人物にでもなったかのような気持ちで行動してしまうのです。

 もしも、あなたに思い当たるような部分があったら、まず「知人」という、二人の間の社会的な距離について、冷静に振り返ってみてください。あなたには、あなたの人生があり、困っている人には困っている人の人生があります。そして、二人の間の「知人」という関係において、自分に出来ることはどこまでなのかということを考えてみてください。つまり、身内の人ではなくて、親友でも、恋人でもない間柄の人に対して、どこまで相手の人のプライベートな問題に踏み込めるのかということです。これは、決して知らんぷりをしろと言っているのではありません。自分の良心に照らし合わせて、困っている人に対して言うべき事があるのなら、それはぜひとも言うべきなのです。しかし、実際問題として、知人という関係の人に対して言えることといえば、治療を受けることを勧めるといったことぐらいではないでしょうか。そして、もし言うべき事を言ったなら、その後の事は本人が自分で決めることなのです。あなたは、他人の判断に対してまでは責任を持つ必要はないのです。どこまでが自分で、どこから先が他人なのかという、自他の区別をはっきりとさせておいた方がいいと思います。

 このような、自他の区別の混乱というのは、相手の人の中に自分自身の姿を見てしまうことによるものなのです。目の前にいる困っている人の姿と、見捨てられた自分自身の惨めな姿とをダブらせて同一視してしまうのです。そして、まるで鏡に映った自分自身と接するようにして他人と接してしまうので、自分と他人の区別が混乱してしまうのです。それだけではなくて、鏡に映し出された自分自身を救い出そうとしますので、これが他人にとっては余計なお世話となるのです。

 このような自分と他人の混乱がさらにひどくなるとどうなるかと言いますと、他人の意向を無視してでも、強引に自分勝手な救済劇を演じようとするのです。自分の生活を犠牲にしてでも、他人の世話ばかり焼こうとするのですが、それが余計なお世話であるが故に、他人からは嫌がられます。そして、このような他人からの冷たい反応に対して、「私がこんなに尽くしてやっているのに、なぜ誰も私に感謝しないのか。みんな、自分のことしか考えていないのか」と、怒りを覚えたりします。もしも、あなたに思い当たる事があるとしたら、あなたは、自分と他人の区別が非常に混乱していると言えるでしょう。

 このような混乱がさらに進んだものになりますと、妄想性を帯びたものになってきます。「私がこんなに心配してやっているのに、あの人が無関心なのは、家族の人がよからぬ事を吹き込んでいるからだ」とか、あるいは知人が病院で治療を受けている場合などには、「悪い医者が、とんでもない治療をしている」とかいう確信を持ったりします。そして、救済行動に出たりするのですが、家族の人からは「うちの子に近づくな」と言われたりします。するとますます救出してやらなくてはという思いに駆られて、いてもたってもいられなくなり、電話攻勢をかけたり、いろいろな相談機関に問い合わせたりします。こうなるともう「救済ストーカー」とでもいったような感じになってきます。第三者から見ますと、一人で舞い上がっているように見えるのですが、本人は真剣そのものなのです。しかし、救出しようとしている相手の人が、ひどい扱いを受けているという、その根拠は何なのかと聞いてみますと、それが非常にあいまいなものだったり、首をかしげたくなるような内容だったりするのです。しかし、それでも本人は、並々ならぬ確信を持っていたりするのです。

 さて、このような知人の間柄ではあっても、今まで書いてきたようなすれ違いではなくて、もしもお互いの思いが一致すれば、両者はさらに踏み込んだ関係へと発展して行くわけです。このような思惑の一致というのは、時として、知人以前の、見ず知らずの行きずりの他人との間に発生することもあるのです。たとえば道ばたで苦しそうにしゃがみ込んでいる人に声をかけてみたら、そこでいろいろと悲惨な身の上話を聞かされて、これは何とかしてやらねばならない、というふうに救済者としての使命感を掻き立てられたりするのです。そして、もしもこの悲惨な境遇の人が境界例の人だったりしますと、その後の二人の関係は、境界例特有の展開をしていったりするのです。

 このような、偶然な出会いもありますが、ほかにも、すでに友達関係にある人や、恋人関係、夫婦関係にある人が、どうやらパートナーが境界例のようだと気付いたときには、まず、知識として次のことを知っておいた方がいいでしょう。それは、二人だけの閉鎖的な関係を作ろうとする傾向です。たとえば、あなたが相手の人に治療を受けることを勧めたとしても、いろいろな理由を付けて、二人の間に第三者が入り込むことを拒否したりするのです。そして、治療を受けるよりも、「あなた」に助けてもらいたいとか、「あなた」でなければ私の気持ちが分からない、というようなことを言ったりするのです。このようにして、あなたは自尊心をくすぐられて、救済者としての使命感に燃えて行き、救済者という幻想を膨らませたりするのです。これは、あなた自身にも二人だけの密接で甘美な関係に埋没していたいという心理があるからなのです。そして、なんとしてでも自分の力だけでこの人を救ってやろうと思ったりするのです。そして、その結果として、周囲の現実が見えなくなってしまい、出口のない袋小路に迷い込み、そこで苦しむようなことになるのです。このようなことは、なにも皆さんだけではなくて、治療場面でも時々発生する事なのです。セラピストが、自分でも気付かないうちに、救済者幻想にとりつかれてしまい、その結果として治療が行き詰まったりするのです。

 ではなぜ、袋小路にはまりこんでしまうのかと言いますと、境界例の人の本当の目的は、自分を救ってもらうことではなくて、救う人と救われる人との、その両者の密着した関係にいつまでもしがみついていることだったりするからなのです。ですから、自分の抱えている問題が解決してしまいますと、二人の密着性が失われてしまいますので、救済者の救済行為は、どういうわけか肝心の所で失敗に終わってしまい、いつまでたっても問題が解決しないのです。

 救済者の人は、最初のうちは救済者としての幻想に自己陶酔していたりするのですが、そのうちにいらだちを覚えるようになってきます。せっかく救いの手をさしのべてやっているのに、それが自分の思い描いたシナリオ通りに展開しないことに腹立たしい気持ちになってくるのです。反対に、境界例の人も、自分の思うようにしがみつかせてくれない救済者に対して、強い不信感を抱くようになります。そして、救済者を極悪非道の悪人呼ばわりしたりするのです。しかし、何かの拍子に、しがみつきが満たされたりしますと、突然手のひらを返したように、救済者を天使のような人だと言ったりするのです。救済者の方も、悪態をついたりする相手に憎しみを覚えたり、そうかと思うと、突然自尊心をくすぐられるような事を言われたりして、ご満悦な気分になったりと、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような変化に富んだ関係を体験することになります。もしも、両者の思惑が適度にバランスのとれた状態であれば、このような不安定な状態が安定的に継続するという、いわゆるボーダーライン・カップル状態になるわけです。しかし、ボーダーライン・カップル状態になる以前に、関係が破綻してしまうケースも多いのではないかと思います。いずれにせよ、このような強烈なドラマ性を持った関係は、存在感が希薄な人にとっては、精神的な依存を形成するのです。つまり、ドラマ性のあるトラブルが連続して発生するという状態に、一種の精神的な中毒状態(トラブル・ジャンキー)となり、自分でも無意識的にトラブルを誘発するのです。そして、トラブルという嵐の中にいるうちは、相手をしてくれる人がいて、空虚感を埋めてくれるのです。そして、救済者の人も、このようなトラブルの中に長時間いるうちに、いつの間にか「境界例もどき」とでも言った状態になるのです。

 このような、精神的な混乱状態を避けるには、適度なリアリティ・チェックが必要となります。境界例の人と毎日口論を繰り返していたりしますと、徐々に現実的な感覚が失われていって、混沌とした精神状態になったりしますので、これを避けるために第三者との接触を維持しておいて、自分の行動や考え方を、常識に照らし合わせてチェックする必要があります。友達や、親戚などに、「あんた、それ、ちょっとおかしいよ」とか、「あんたは普通だよ。相手の方が変わってるんだよ」というようなアドバイスしてくれる人を確保しておいて、自分の感覚と常識的な感覚とのズレが大きくならないようにしておいた方がいいのです。これは、あなた自身の精神的な健康を維持するためにも、ぜひとも必要なことなのです。

 しかし、境界例の人は二人だけの世界に埋没しようとするために、このような第三者の介入を嫌います。場合によっては、この第三者の悪口を言って、その人との関係を絶つように主張したりすることがあります。そして、あなたからすべての友人を遠ざけて、あなたを精神的に孤立させることで、誰にも邪魔されない二人だけの世界を作ろうとするのです。こうなると、あなたは周囲の現実が見えなくなってしまいますし、自分自身さえも見えなくなってしまいます。そして、「救済者」という幻想を抱きながら、気付かないうちに境界例という蚕が作り出す、二人だけの繭の中へと閉じ込められてしまい、繭の中の嵐に翻弄されることになるのです。

 セラピストの場合にも、このような状態に陥ってしまうことがよくあるために、対策として、自分よりも上級のセラピストに治療状況をチェックしてもらったり、あるいは仲間のセラピスト同士で、治療中の症例についてお互いに意見を交換しあったりして、こう言った袋小路に入り込む事を予防したりすることがあります。プロのセラピストでさえも、境界例の人を治療する場合には、このようなチェック・システムを用いたりするのですから、素人のみなさんの場合には、なおのこと、リアリティ・チェックが必要ではないかと思います。ですから、たとえ境界例の人からいろいろと非難されたとしても、是非とも相談できる人を身近に確保しておいた方がいいのです。友達、親、兄弟、親戚などと普段からコミュニケーションをとっておいて、理解者を確保しておくことで、そういう人からリアリティ・チェックを受けたほうがいいのです。このような理解者を確保しておくということは、リアリティ・チェックだけではなくて、たとえば境界例の人が暴力行為に出た場合などに、一時的にかくまってもらうという事も出来るのです。ですので、境界例の人と付き合っている人は、自分が孤立しないように注意しておいた方がいいでしょう。このことが、結果的には境界例の人のためにもなるのです。

 このように、孤立しないようにしてくださいとは言っても、特にドメスティック・バイオレンス(家庭内の暴力)に見られる、バタード・ウーマン(殴られる妻)のような場合には、虐待される事への依存や、「殉教者」を演ずることへの自己陶酔などといった問題がありますので、この問題はまた別のところで書きます。また、自分の子供が境界例であるとか、自分の親が境界例であるとかという場合についても、別のところで書いてみたいと思います。

 自己愛性人格障害の傾向を持った人の場合も、注意が必要です。こういうタイプの人は、自分の歪んだ自己愛を満たすために、弱者を利用しようとします。誇大に膨らませた救済者というイメージを演じようとするのです。そして、その輝かしいイメージを演ずるために弱者を必要とするのですが、あくまでも本来の目的は、栄光に満ちた誇大なイメージを演ずることにありますので、弱者はそのための単なる道具として扱われます。このようなタイプの人は、救済者というイメージを演じられなくなると、とたんに手のひらを返したように冷淡となり、まるで気に入らなくなったオモチャを捨てるかのようにして、弱者を簡単に見捨ててしまうのです。

 さて、このような救済者幻想の行き着く果ては何かといいますと、それはセラピストの役割を演じることでしょう。しかし、現実的に言えば、日常場面での人間関係と、治療場面でのセラピストの役割とを、同時にこなすことは不可能なのです。治療場面では、セラピストはあくまでも中立的な立場と、客観的な視点を維持していなければなりません。もし、セラピストが患者に恋愛感情を抱いたり、患者と性関係を持ってしまったとしたら、もう中立的な立場が失われてしまい、治療関係が成り立たなくなってしまうのです。ですから、特に境界例の治療では、患者からの巻き込みを避けて中立的な立場を維持し、治療構造を維持していくことが重要になるのです。しかし、セラピストがこのようなことに十分注意しているつもりであっても、先に書きましたように、自分でも気付かないうちに救済者の幻想にはまってしまい、袋小路に入り込んだりするのとがあるのです。ですから、日常生活の中で、セラピストの役を演じて「治療」を施してやろうなどと思わないでください。境界例の人は、特に自我がもろい構造になっていますので、下手に心をいじると、逆に症状が悪化してしまい、自分の手には負えなくなって、結局最後には見捨ててしまうことになるのです。しかも、救済者という幻想に取りつかれていると、「症状が良くならないのは本人が悪いからだ」などと、責任を全部相手に押しつけてしまったりするのです。自分のやった無謀な「治療?」行為をすべて棚に上げて、「自分は『正しい』治療をしてやっているのに、救いようのないやつだ」などと言って、境界例の人を見捨てしまうのです。このようなことは、境界例の人をさらに悲惨な状態に追いやることになりますので、自分勝手にセラピストを演ずるのはやめてください。自分に出来ることと、セラピストでなければ出来ないことの区別をしっかりとつけてください。

 このようなセラピストを演じようとする傾向も、当然のことながら妄想領域にまでそのすそ野が広がっています。自分の能力も省みずにセラピストの役を演じて、困っている人を救済しようと試みるのです。そして、まるで神にでもなったかのような全能感を味わおうとするのです。このような全能感が、空虚でみすぼらしい自分自身の現実を覆い隠してくれるからです。このような妄想領域に入ってきますと、現実に対する検討能力が低下していって、いい加減な治療をやったり、あるいは自己流の奇妙な治療方法を考え出したりするのですが、本人は「治せる」という、なみなみならぬ確信を持っていたりするのです。そして、もし治療が失敗しても、それは本人の行いが悪いからだとかいって、絶対に自分の非を認めようとはしません。このようなことは、新興宗教の怪しげな集団などに時々見られることでもあります。

 では、境界例の人の苦悩に対して救いの手をさしのべてやるには、どうしたらいいのかと言いますと、この人を自分の力で治療してやろうなどとは思わずに、「この人を支えて行こう」という、支持的な態度で接することです。このような態度で接し続けることで、結果的に症状が改善したりするのです。しかし、これはすべての状況を変えるようなものではありませんので、その限界については十分に自覚しておく必要があります。症状が重症であればあるほど治療を受ける必要がありますので、前にも書きましたが、自分でやれることと、セラピストでなければ出来ないことの区別をしっかりと持っていた方がいいでしょう。

 支持的に接するとは、どういうことかと言いますと、境界例の人の苦しみに共感的に対応して、不安を和らげてやったり、回復したいという気持ちを勇気付けてやったり、あるいは本人が物事の判断が出来なくて困っているようなときに、適度な指示をしてやるということです。ただ、後で書きますが、境界例の人に対応するときには、境界の設定や限界の設定を意識的にきちんとやっておかないと、退行を誘発して振り回されたりする可能性がありますので注意が必要です。

 この支持的な対応をするに当たっては、共感的に接するということが重要な意味を持っているのですが、共感するとはいっても、これがなかなか一筋縄では行かなかったりするのです。じっくりと話を聞いてみて、私もその気持ちが分かる、というのならいいのですが、共感しようという気持ちだけが先走ったりしますと、共感というよりも、同情になってしまいがちです。共感の伴わない、同情になってしまいますと、それを見抜かれてしまい、反感を買うことになってしまいます。ですので、共感するということと、同情するということとは、まったく別のものであるということを十分理解しておいてください。

 では、どうしたらいいのかというと、無理に共感しようとしないことです。境界例の人の話を聞いて、自分もそういう状況に置かれたら、やはり同じような思いを抱くだろうと感じたら、その気持ちを素直に相手に伝えてあげればいいのですが、もしも自分の理解を超えているような場合には、「理解してみようと努力してみたが、この部分は私にはまだよく分からない」ということを伝えればいいのです。理解しようと誠実に努力しているのだという、その気持ちが伝わればいいのです。

 しかし、境界例の人と一緒に生活していると、とても共感する気持ちになれないこともよくあるでしょう。あなたに向かって暴言を吐いている人に対して、共感的に接しろといっても、これは無理というものでしょう。もし、あなたに、精神的な余裕があるならば、たとえ相手から怒鳴られても、「ほう、今日はやけに元気がいいねえ」というような、表面的な言葉尻にとらわれない対応が出来るのですが、日常生活というのは、こういう余裕を持てるような状況ばかりではないでしょう。境界例の人の攻撃性が激しい時には、相手のことよりもまず自分の安全を優先させなければならなくなったりします。そんなときには、とても共感など出来ません。

 では、どうしたらいいのかといいますと、境界例の人の混乱している時には、その事実を認めて言葉にして相手に伝えることです。たとえば、「あなたが今、非常に不愉快な気持ちなのだということは分かる」とか「いま私を憎んでいるということは分かった」というふうに、相手がそういう感情を抱いているというその事実を認めて、そのことを伝えてあげるのです。その憎しみや敵意が正当なものであるかどうかという判断の前に、相手がそういう感情を抱いているという、その事実を言葉にするのです。なぜこういうことをするのかといいますと、境界例の人は自分というものが見えていないことが多いからです。自分が何を感じているのかといったような、今現在の自分自身の輪郭が把握できていなかったりするのです。そこであなたが、「今」の状態を描写してあげるのです。「罪悪感に苦しんでいるように見える」とか「イライラして、当たり散らしているようだ」とか、そう言うことを言葉にして伝えることで、鏡を通して自分を見るように、境界例の人は、あなたの言葉を通して自分の状態を知ることになるのです。このことは、混沌とした感情の世界に、多少なりとも輪郭を与えるということでもあるのです。ですので、価値判断をせずに、そして感情抜きに、相手の状態の「事実」を描写して伝えてあげるのです。このことは同時に、境界例の人にとっては存在を認められたという感覚にも繋がっていくのです。これは、決してすべてを受け入れられたわけではないのですが、憎しみや敵意を抱いているという、少なくともそのことだけでも「分かってもらえた」という感覚に繋がっていくのです。

 あなたは、必ずしも境界例の人のすべてに共感したり、理解を示したりする必要はないのです。あなたがあなたである限り、当然他人の気持ちのすべてを理解する事など出来るはずがないのです。あなたは神ではないのです。ですから、共感も理解も出来ないということは当然ありうることなのです。しかし、そういう時には、少なくとも、価値判断は別にして、相手がそういう考えを持っているという事実、そういう感情を抱いているという事実、こういった事実だけでも認めてあげるのです。こういうことが支持的な態度ではないかと思います。

 このような支持的な態度を取ったからといって、すぐに効果が出てくるわけではありませんし、対策として万能なものでもありません。しかし、あなたが一貫して支持的な態度を取り続けることによって、境界例の人にとっては、それが大きな心の支えとなるのです。

まとめ
★ 自分と他人の区別をつけて、自分勝手な救済劇を演じないこと。
★ 二人だけの関係に埋没して孤立しないように注意すること。
★ リアリティ・チェックをしてくれるような人間関係を持つこと。
★ セラピストを演じないこと。
★ 治そうと思わずに、支えていこうと思うこと。
★ 支持的な態度で接し、共感できないときでも、そういう考えや感情を持っているという事実を認めてあげること。

 支持的な態度というのは、これから書くいろいろな事柄とも関係していますので、折に触れて書いていきたいと思います。
 ああすべきだこうすべきだと書いても、生身の人間ですので、その場になるとなかなか出来なかったりします。私も境界例ですので、ついつい感情的になったりします。各自、自分で気付いた範囲内でいろいろと試してみてください。

 さて、次回は境界例の人と接するときの基本原則である、限界と境界の設定について書きます。


【参考文献】
「 Stop Walking on Eggshells : Taking Your Life Back When Someone You Care About Has Borderline Personality Disorder 」
   Paul T.Mason, M.S. Randi Kreger 1998 New Harbinger Publications,Inc. $14.95
「 The Emotionally Abused Woman : Overcoming Destructive Patterns and Reclaiming Yourself 」
   Beverly Engel 1992 Fawcett Books $10.00


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