境界例の治療技法 1
治療以前の問題の整理
境界例の治療を行なうには、まずその前提として、セラピストが境界例という名前の存在を知っていることと、境界例の特徴や診断基準を知っていることが必要条件となります。しかし、実際の治療では、境界例という名前さえも知らなかったり、あるいは名前は知っていてもそれがどういうものであるのかという理解が不足していて、間違った診断による不適切な治療をしているセラピストがいます。たとえば、うつ病と診断して、ずっと抗うつ剤を投与し続けているのに、ちっとも良くならないというようなケースの中に、境界例の患者が結構いるのではないかと思います。あるいは軽い神経症として治療をしていたのに、途中で境界例の症状が開花し、セラピストに向かって悪態をついたり攻撃的になったりしても、セラピストがそれを境界例の特徴であると気付かないまま、態度の悪い患者であるとして見放してしまうケースもあります。
次に、境界例という診断を下されたとしても、ではどういう治療方法で対応したらよいかという問題が出てきます。一般に心の病の治療には薬で治療するやり方と、精神療法で治療するやり方がありますが、境界例などの人格障害の治療について言えば、薬物療法での治療は、取り敢えず症状を抑えるというだけの、対症療法的な効果しか認められていません。したがって、治療に際しては平行して精神療法を用いることが不可欠となっています。しかし、実際の治療場面ではどうかというと、病院の医師などは薬物療法しか知らない人が多数を占めています。たとえばネット上でも、悩みを訴えている人に対して、薬の名前を並べることしかできない哀れな精神科医を見かけたことがありますが、多数の医師がこれと似たようなことしかできないという現実をまず理解しておいた方がいいでしょう。しかし、最近になって徐々にではありますが、精神療法に対する理解が広まって来ていますので、臨床心理士などと連携して治療にあたるところも増えてきているようです。
その精神療法についてですが、精神医学系では「精神療法」、心理学系では「心理療法」と呼ばれています。名前の違いはあっても、言っていることは同じなのですが、治療に際しては医学系と心理学系とでは、医師の資格を持っているかどうかという点で大きな違いがあります。医師の資格を持っていれば、薬が処方できるのですが、医師の資格を持っていない臨床心理士などは、薬を処方することができないのです。薬というのは、先に書きましたように、根本的な治療にはなりませんが、たとえば取り敢えず不安感を抑えたりとか、抑うつ感を低減させたり、あるいは激しい行動化を抑制するといったようなことができるのです。ですから、精神療法を行なう場合でも、激しい症状が出てきた場合などに、薬の使えないセラピストよりは、薬の使えるセラピストの方が容易に症状に対応できるという利点があります。患者にとっても、日常生活に支障をきたすような症状が出てきた場合に、取り敢えず薬でその場をしのぐことができますので、いろいろと助かる面があります。ですから、臨床心理士などの資格を持っていても、医師との連携のない環境で治療を行なっているセラピストの場合には、境界例の症状が開花したときに、その対応に非常に苦労することになると思います。
さらに、もうひとつ、医師には患者を入院させることができるという利点があります。患者が家庭内暴力で激しく暴れていて、他人に危害を加える可能性があるような場合には、強制的に入院させて治療することもできます。また、後で書きますが、行動化が激しくて、精神療法に必要な「自分を見つめる」という作業ができないような状態の人に、本人の合意のもとに入院させて、行動化への逃避を遮断し、症状の背後にある分離不安を直視させるというやり方を取ることもできるのです。
このように、医師という資格を持っている人には、治療を進める上で、いくつかの有利な点があります。ですから、境界例の治療には、重症の人はなるべく精神療法を行なっている医師か、医師と臨床心理士などが連携して治療を行なっているところで治療を受けた方がいいと思います。そして、なるべくなら、境界例を治療した経験のあるところ、あるいは、後で書くような、境界例特有の厄介な問題に、病院のスタッフが対処できる態勢が整っているところがいいでしょう。
このように書いたからと言って、医師の資格を持っていないセラピストは治療に向いていないという意味ではありません。医師の資格がなくても優れた治療をしている人もいると思います。ただ、症状の重い患者の場合には、医師でさえも非常に苦労するのですから、薬の使えない状態のセラピストの場合には、それ以上に苦労するだろうということです。
次に、精神療法についてですが、他のところでも書いていますように、境界例の治療には精神分析の知識が不可欠となります。しかし、境界例が最近注目を集めるようになってから、いろいろな療法が境界例業界に参入をはかっているようです。特に認知療法などの研究者が、その治療技法を境界例の治療に使えないだろうかということで研究しているようです。しかし、今の段階では認知療法の治療効果はまだ実証されていません。私も、認知療法は軽症の患者にはある程度の効果はあるとは思いますが、それ以上のものではない――と思っています。
つぎに、境界例の治療技法について書く前に、ここでもういちど境界例の構造について、簡単に整理しておきたいと思います。
まず最初に境界例の人は授乳期に母子関係がうまくいっていなかったために、この時期の障害を現在に至るまで持ち続けています。たとえば、赤ちゃんのころには口唇期と呼ばれる、唇によって快感が得られる時期があって、この唇による快感や満足感が生きる歓びの源になるのですが、この快感や満足感が著しく妨げられたために、大人になっても、行動が快感原則に支配されやすくなります。即時的な快楽を求めたり、欲求不満に対する耐性が低くて、すぐに不満を露にしたりします。大人であるにもかかわらず、無意識レベルではいまだに赤ん坊のように乳を飲ませてもらいたいとか、赤ん坊のように周囲の人から世話してもらいたいという願望を抱き続けています。また、外界への理解が、自分に快感を与えてくれる「良いもの」と、自分を不快にする「悪いもの」とに分裂したまま、両者が統合されることなく残っていますので、感情が極端から極端へと激しく揺れ動いたりします。
次の成長過程である、分離−個体化期(6−36ヵ月)と呼ばれる時期に親子関係が不適切だったために、大人になっても、いまだに個人としての精神的な自立ができないという問題を抱えています。人間は、出産によって肉体的に母親の身体と分離しますが、生まれたばかりの段階では、外界をうまく認識できないため、自分と母親の区別が十分にできていません。しかし、その後の分離−個体化期を通して、母親との自他の区別のないような一体感から少しずつ脱却していきます。そして、やがて個体としての自分、つまり自分は母親から「分離」した「別個」の「独立」した存在であるという認識を持つようになります。これは、出産という肉体的な誕生に続いて起こる、精神的意味での誕生なのです。
しかし、ここで境界例の人の場合には、子どもの自立を妨害する母親が登場するわけです。赤ちゃんが成長に伴って次々と自立的な行動を獲得していくに従って、母親は自分が赤ちゃんから見捨てられてしまうような寂しさを感じてしまいます。そして、赤ちゃんが自立的な行動を取ろうとすると、赤ちゃんへの世話を無意識的に引っ込めたりするのです。これは、いつまでも母親を必要とするような、自立できない赤ちゃんでいて欲しいという願望の現われなのです。赤ちゃんの方も、母親の無言のメッセージを読み取って、自立することへの罪悪感を抱いたりするようになります。つまり、主体的な行動を取ろうとすると、母親が冷たい態度を見せたり、寂しそうにしたりするので、赤ちゃんは母親から見捨てられるのではないかという不安を抱くようになり、母親にいつまでも依存するようになります。こうなることで、母親はいつまでも赤ちゃんとの一体感が得られ、自分の寂しさや不安に直面しなくてすむのです。そして、このような母親は、子供が大人になってからも、子どもを一個の人間として見ようとはせずに、自立できない赤ちゃんのように扱おうとします。これがいわゆる過保護であり、甘やかしであり、過干渉なのであります。欧米に虐待型の境界例が多いのに対して、日本ではこのような過保護型の境界例が多く見られるようです。
このように過保護に育てられたとしても、人間には本来自立したいという本能的な欲求がありますので、特に思春期のころに大人への階段を踏み出そうとするときに、赤ちゃんのころからの分離不安や見捨てられ不安の呪縛に直面することになるのです。つまり、精神的に自立したいのだけれども、いざ自立しようとすると、なぜか激しい不安感や恐怖感、あるいは強い抑うつ感にとらわれてしまい、自立しようにも、どうしても自立することができないのです。これは、赤ちゃんのころから長年にわたって刷り込まれてきた条件付けによるものなのです。そして、わきあがってくる自立への強い欲求と、その自立を妨げようとする、幼いころから刷り込まれ続けてきた呪縛との間で、激しい葛藤がうまれます。この葛藤がやがて家庭内暴力、ひきこもり、摂食障害、性的逸脱、薬物中毒、自傷行為、自殺未遂などという形となって表面化するのです。
一方の虐待型では、精神的に自立できない親が、自立しようとする子供に対して嫉妬や羨望を抱くようになります。自立的な行動を取ろうとする子どもが、生意気に見えてくるのです。その結果、子供に対して、なんでもいいから適当な言いがかりをつけて、殴る蹴るの暴力をお見舞いして自立を妨害するのです。あるいは、教育という大義名分のもとに暴力をふるい、親の言いなりになるようにしようとします。あるいは、思い通りにならない子供を見放して育児を放棄したり、あるいは自分の欲望のために子どもを性的に利用しようとしたりするのです。
過保護型にせよ、虐待型にせよ、このようにして育てられた子供は、大人になってからも周囲の人を、自分の親をみるような目で見るようになり、見捨てられるのではないかという不安が、自分を取り巻く人間関係の中に持ち込まれてしまいます。しかし、このような見捨てられ不安を持っている一方で、精神的に自立できない心細さから、誰かにしがみつきたいという切実な願望も持っています。そして、しがみつきたいけれど見捨てられるのが恐い、見捨てられるのが恐いけどしがみつきたい、というような葛藤を持つようになって人間関係をうまく作ることができなくなります。人間関係を作れないと、社会で生きていくための技術の習得が不十分なものになります。そうなると人生において、さまざまな不利な条件を背負いながら生きていかなければならなくなります。
あるいは、人によってはこのような見捨てられ不安を相殺するために、自己愛を過剰に膨らませることもあります。妄想じみた誇大感を抱くことによって、惨めな自分から目をそらそうとするのです。
このような、さまざまな問題を抱えた境界例の人は、分離不安や見捨てられ不安の脅威から身を守るために、防衛機制という自分で自分をごまかしてしまう心のメカニズムを使って、なんとか精神的なバランスを保とうとします。治療では、防衛機制によって無意識の世界に追いやられてしまった分離不安や、見捨てられる恐怖、あるいは自分を見捨てようとする親への怒りや悲しみといった感情を掘り起こしていって、少しずつ患者に直視させていきます。このように分離不安や見捨てられ不安を直視させるためには、どうしても患者の防衛機制を突破していかなければならないのですが、自分で自分をごまかす防衛機制というメカニズムは、非常に強固なものであり、また、非常に巧妙にできていますので、ここで、精神分析の知識が必要となってくるのです。そして、精神分析的な方法を使うことによって、無意識の世界へと追いやってしまった感情を、もう一度意識のレベルへ引き戻し、耐えられる範囲内で少しずつ分離の不安や恐怖を直視させていくのです。そして、このような方法によって治療を続けていくことで、患者が苦痛のために避けていた分離不安が、徐々にそれほど不安なものではないと感じられるようになっていきます。そして、自立することは見捨てられることではないんだということが、少しずつ実感として理解できるようになっていくのです。やがて幼児期に達成することができなかった精神的な誕生、つまり分離−個体化を、遅ればせながら治療を通じて達成するのです。
では次に、境界例の治療プロセスについて見てみましょう。
【参考文献】 「青年期境界例の治療」 ジェームス・F・マスターソン 金剛出版 \7,800 1979.7 「境界例と自己愛の障害」 井上果子/松井豊 サイエンス社 \1400- 1998/12/25 「境界パーソナリティ障害(BPD)の薬物療法」 近藤三男、宮原研吾 精神医学レビュー20 「境界パーソナリティ障害(BPD)」 1996.9.20 収録 「認知療法とBPD」 井上和臣 精神医学レビュー20 「境界パーソナリティ障害(BPD)」 1996.9.20 収録
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