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過去の受容 11

悲しみの作業 (1)
  Ver 1.0 1999/10/11


 ある日突然、事故などて肉親を失った時というのは、その事実をすぐには受け入れることが出来ません。警察から連絡があっても、おそらくそういう所からの連絡なのだから、たぶん間違いはないだろうけれども、それでもなにかの間違いであって欲しいなどという思いが交錯して、非常に混乱した精神状態になります。やがて遺体となった肉親と面会して、否定できない事実に直面することで、やっと本当の出来事として理解します。しかし、頭では理解できても、精神的に理解し、その事実を受け入れるには非常に長い時間がかかります。しかも、失った肉親との間に、深い愛情の繋がりがあればあるほど、悲しみは長くつづきます。しかし、それでも長い喪の期間を経て、肉親を亡くしたんだという事実を精神的に受け入れる事が出来るようになって行きます。そして、最終的には悲しみの感情が消化されて行き、亡くなった人が心の中に定着していくのです。たとえば「天国であの人が私を見守っていてくれる」とか「あの人は死んでしまったけれど、今でも私の心の中で生きている」などと思えるようになり、自分の心の整理がついてゆくのです。そして、愛情の対象だった故人が自分の心の中に定着してゆくことで、悲しみから抜け出すことが出来るのです。喪が開けたとでも言いましょうか、そういう状態になってゆくのです。こういった一連の心のプロセスが、悲しみの作業とか、悲哀の作業、あるいは喪の仕事などと呼ばれるているものなのです。

 このような愛する人を亡くしてしまった悲しみというのは、誰もが共感できる感情ですので、社会的にも悲しみの作業が制度として確立しています。初七日とか四十九日とか、ある程度の間隔を置いて、故人を偲び、悲しみの感情を少しずつ消化していくための儀式を行ないます。そして、このような儀式というのは、遺された人たちが悲しみをうまく消化するための手助けをするという一面も持っています。

 しかし、もしこれが肉親の死ではなくて、レイプや犯罪行為に巻き込まれたような場合だったらどうでしょうか。肉親の死なら誰もが共感できるものを持っているのですが、レイプの被害にあった人の心理状態というのは、ちょっと想像しようにも想像できません。おそらく被害にあった人は、精神的に辛い思いをしているだろう事は分かるのですが、それに対してどう対応していいのか分からないのです。被害者が暗い顔をして泣いていたりすると、被害者に対応できない自分がまるで責められているような気がして来て、いい加減にして欲しいと思うようになったります。そして、面倒くさくなってしまい「そんなことは忘れてしまいなさい」などと、とんでもない事を言ったりするのです。たとえば、ナイフを突き付けられたり、犯人から殴られたりして身体を犯された人に向かって、「忘れてしまいなさい」という言い方は、あまりにもひどい言い方です。殺されるのではないかという恐怖感に襲われたのですから、まともな人ならそれを忘れることなど出来るはずがありません。一生心に焼きついていることでしょう。

 しかし、もしこれがレイプの被害者ではなくて、愛する肉親を亡くした人の場合ならどうなるでしょうか。お通夜の席で悲しんでいる人に向かって、「そんなことは忘れてしまいなさい」などと言う人がいるとしたら、その人は頭がおかしいのではないか思われてしまいます。なぜなら、当たり前のことですが、肉親を失った悲しみとうのは、そんなに簡単に処理できるものではないということを、誰もが理解しているからです。そして、肉親のことを忘れろと言っても、忘れることなど出来るはずがないということを、誰もが知っているからです。しかし、レイプの被害者などといった、自分の理解を超えた精神状態にある人に対しては、平気で「忘れなさい」などと言ったりするのです。

 このような無神経な対応は、精神科の診察室でも発生します。特に薬物療法『しか』知らない医師の場合がそうです。たとえば、いろいろな心の問題を抱えていて、すがる思いで精神科を受診したというのに、当の医師は薬を処方する事しか能がないので、悩んでいる患者に向かって適切な対応が出来ません。ですから患者に向かって、「いつまでもそんなことで悩んでいてはいけません」などと、的外れなことを言ったりするのです。悩みを自分の力ではどうすることも出来ないから精神科を受診したというのに、これでは精神科医としての用をなしていません。しかし、実際にはこのような、まるで素人以下の対応しか出来ないような医師が結構いるのです。

 しかも、このような対応をするのは、薬物療法しか知らない医師だけではなくて、精神療法をやっている医師の中にもいるのです。精神療法にはいろいろなものがありますが、中には過去の出来事を取り上げないものもあります。現在の直面している問題だけを取り上げて、今現在の患者の不適切な行動、あるいは歪んだ認識や思考パターンを修正するというか、矯正するというやり方があります。医師がいろいろな療法に通じていて、患者に合わせてそれらを使い分けるのならいいのですが、特定の療法しか知らない医師の場合、まるで無神経としか言いようのない対応の仕方をすることがあるのです。たとえば、患者が過去に家族から受けた精神的な虐待に苦しみ、家族に対する激しい憎しみで精神的に押しつぶされそうになっているというのに、「さあ、過去のことは忘れて、現在のことを考えましょう」などと明るい顔をして言われた日には、こんな医師をぶん殴ってやりたいような気持ちになるのも無理もありません。過去のさまざまな出来事に苦しんでいて、精神的にどうしようもなくなってしまい、必死の思いで治療を受けに来たというのに、それを簡単に「忘れなさい」の一言で片付けるとは何ごとか、と怒鳴り付けてやりたくもなるでしょう。これでは医師から更に虐待を受けた事になってしまいますし、いったいなんのために病院に来たのか分からなくなってしまいます。

 もし、これが治療を受けに来た患者ではなくて、葬式を終えたばかりの遺族の人だったらどうなるでしょうか。まだ喪服も脱いでいない人に向かって「さあ、過去のことは忘れて、現在のことを考えましょう」などとは言えません。遺族の沈んだ感情はしばらくは続きますし、たとえ気丈に振る舞い、表面的には落ち着いたように見えても、なにかの拍子に故人のことが思い出されたりすると、急に取り乱したりして激しく泣いたりすることもあるでしょう。私たちはこのような心理状態を理解していますので、ふさぎ込んでいるからと言って、病院で治療を受けることを勧めたりはしませんし、精神的に混乱しているからと言って、精神科に行くことを勧めたりはしません。肉親を亡くした悲しみは、その悲しみを悲しむことで、自然と治まって行くのだということを、私たちはある程度は知っているからです。しかし、肉親の死以外の出来事については、なかなか理解が及びません。そして、医師の中でも、精神療法をやっていて、心の問題について理解があると思われる人でさえも、過去を無視するような特定の療法しか知らないような場合には、的外れで感情を逆撫でするような事しか言えないケースがあるのです。

 このような悲しみの作業が健全な形で遂行されると、たとえば非常に単純な悲しみの場合には、「泣いた子がもう笑った」と言われるように、泣きたいだけ思いっきり泣いたら、後はもうすっきりとしてしまい、まるで嘘のように悲しみから抜け出して、明るく振る舞ったりします。重い悲しみの場合でも、精神的に非常に苦しい思いをしなければなりませんが、それでも何とか長い時間をかけながら悲しみの作業を遂行していきます。しかし、このようにして悲しみの作業をうまくやり遂げることが出来た人というのは、精神的に比較的健全な状態にある人か、あるいは、悲しみの作業があまり妨害されなかった人の場合なのです。

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